【凸レンズ】SFPエッセイ049

 凸レンズが嫌いだ。

 

 前置きもなくいきなりで何だが、わたしは凸レンズが嫌いなのだということを書く。嫌いなものは仕方がない。嫌いなものの話などしたくないのだが、今日、仕事の打ち合わせで会った映像編集者になぜ凸レンズが嫌いなのだと根掘り葉掘り聞かれたり、舐めた態度を取られたりしたので考えざるを得ない事態になってしまった。ご存知のように映像はカメラで撮影する。そしてカメラには凸レンズが使われている。それを社名にも使っている。それが嫌いだと言われたら映像業界の人間として困るというのである。気持ちはわからなくもない。だが嫌いなものは嫌いなのだ。

 

 言うまでもなく形が嫌いだ。凸レンズをそのあたりに転がしてみることを想像してほしい。不安定なことこの上ない。例えば直径3メートルほどの巨大な凸レンズの上に立つことを考えたらすぐわかることだ。盛り上がったつるつるの曲面の上にはうまく立つことさえもできないだろう。尻餅をついて滑り落ちてしまうのがオチだ。おまけにグラグラしている。下の面も同様に膨らんだ曲面となっているためだ。よほど絶妙なバランス感覚の持ち主以外には静止して立つことは不可能だろう。しかもそうやってあなたが凸レンズの表面でじたばたしていると、地面に接して支えている面はどんどん傷つき汚れていくのだ。全くイライラさせられる話だ。

 

 光を集めるという性質も嫌いだ。光を集めるなどというと聞こえはいいが、はなはだ人騒がせな性質なのである。太陽光を一点に集めたりしようものなら炎がつくほどの高温になる。焦点以外なら大丈夫じゃないかと笑う人もいるがとんでもない。焦点は必ずどこかあって、それが遠いか近いかという差はあっても、そこでは必ず発火点に達する。ほどほどということを知らない。極めて危険だ。誰も見ていないところで今もあちこちで火事を引き起こしているに違いない。

 

 そもそも態度が嫌いだ。透明なくせに絶対に透明には見えない。もしも完全に透明なガラスが存在して、向こうが透けてあるのかないのかわからないほど透明だとしても凸レンズを見失うことは決してありえない。光を曲げてしまうからだ。凸レンズは必ずそこにあって存在を主張する。いかにも無色透明でございという顔つきをして、実は存在を主張し、機会あらば人の目を引き付けようとする、その態度が不愉快だ。

 

 味も舌触りも歯ごたえも嫌いだ。口に含んだ時の、あのなんとも言えない虚しさは、無味乾燥などというものを通り越している。「味がしない」のではなく、「味覚そのものを奪う」とでも言いたい。ゼロではなくマイナスの口当たりだ。体の中に虚無を取り入れるとでも言えばいいだろうか。吐き気を催す。にもかかわらず、いったん口にしてしまうとやめられなくなる。人前で人目もはばからず凸レンズを口にするような最低の人間になっていく。凸レンズを口にするのは自分自身の品格を損なう行為だと言って過言ではない。

 

 音も匂いも嫌いだ。味と同様、それは無音ではなく、無臭でもない。音を奪い、音を聴く力を奪い、音の楽しみを奪う。匂いを奪い、匂いを嗅ぐ力を奪い、匂いの楽しみを奪う。凸レンズがはびこり始めると我々の世界から色も形も味も音も匂いも感触も何もかもが失われていく。我々自身の感覚が鈍くなり損なわれ失われていく。世界からは楽しみが失われる。そして人畜無害な顔つきを装って、光を歪め空間を歪め世界を己のもとに一つにくくろうとするのが凸レンズだ。何もかも自分に都合よくまとめようとする強引さが我慢ならない。それだけではない。

 

 と、ここまでのわたしの主張を聞いて「ではあなたは目は使わないのですか」と映像編集者は言った。

「は? 目を使わないとは?」

「あなたの目の中にも凸レンズがありますよ」

 絶句したわたしを見て彼女は言葉を続けた(そう。言い忘れたが映像編集者は女性なのだ)。

「自分の目はお嫌いですか? わたしの目を見るのもお嫌ですか?」

 

 そういうのはずるいと思う。わたし自身の目など、どうでもいいが、彼女の目は美しい。できることならずっと見ていたい。正面から見つめられると思わず目を伏せてしまうが、それでもつい目を上げて覗き込みたくなる。失礼にさえ当たらなければ日がな一日見ていたいような惹きつける力を持った目なのだ。

 

「凸レンズが入っているんですよ。わたしの目の中にも」わたしの気持ち知ってから知らないでか、彼女は少し大きく目を見開いて、そして続けた。「もちろんあなたの目の中にも」

 彼女はそっと右手を伸ばし、わたしの左頬に触れ、人差し指と親指でわたしの左目を大きく開くと顔を近づけ「わたしはあなたの目が好き」と言って舌先でわたしの眼球を舐めた。脊柱の中を電流が流れ尾骶骨を抜けて椅子へと貫通していった。凸レンズも悪くないかもしれない。いやいや、これは反則だ、そうやって相手を骨抜きにしようとする態度が。でもいっそこのままもう何もかも捨てて。

 

 そんな風に人の心を弄ぶ凸レンズが嫌いだ。嫌いだった。

 

(「【凸レンズ】」ordered by 阿藤 智恵-san/text by TAKASHINA, Tsunehiro a.k.a.hiro)

※注意:このエッセイはフィクションであり、 実在の人物・団体・事件・政治状況・思想などとは一切関係ありません。

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