【先生、トイレに行ってもいいですか?】SFPエッセイ045

 先生、トイレに行ってもいいですか?

 この一言がどうしても言えなかった。

 そういう記憶をお持ちの方も多いのではないだろうか。

 私自身がそうだった。そして数々の思い出したくもない悲劇が繰り返された。

 けれどここではあえてそこには踏み込むまい。

 今日は、なぜこの一言がどうしても言えない一言になってしまうのか、という問題について考察したい。

 

 まず一つ目は行き過ぎた協調主義である。

 状況を考えてほしい。「先生、トイレに行ってもいいですか?」と言う問いかけがなされるのはどういう時か。授業中である。誰の言葉か。生徒である。授業中に生徒が口にする言葉である。他には考えられない。例えばタクシーの中で運転手が言うことはない。いや。乗客が知り合いの大学教授で、運転手が急な腹痛に見舞われたら言うかもしれない。待て待て待て。この例はナシだ。いまのはナシ。タクシーの運転士のことは言わなかった。例えば家でおじいちゃんが孫に向かって言うことはない。うん? そうでもないか。たとえばおじいちゃんが患者さんで、孫がお医者さんになってごっこ遊びをしている最中に、演技であれ実際の欲求のためであれ、おじいちゃんが孫に向かって言うかもしれない。ナシだ。これもナシだ。例えば、果物屋の店先で……。

 

 もういい。そんなことはどうでもいいのだ。「先生、トイレに行ってもいいですか?」というのは授業中に生徒が言う言葉なのだ。それに決まっているのだ。疑うこと自体が馬鹿げている。馬鹿馬鹿しい。どうして他のシチュエーションを検討する必要があろうか。いや、ない。

 

 授業中である。先生が何かを教えている。みんなはそれを聞いている。その状況下で「先生、トイレに行ってもいいですか?」と口にするのは授業の流れを遮ることを意味している。授業は席について、静かに聞くものだと教わっているし、事実みんなもそうしている。その状況を破るのには勇気がいる。なぜならそれは一人だけみんなと別なことをして、全体の調和を破ることになるからだ。授業中に他の人と違うことをしてはならない。行き過ぎた協調主義である。

 

 二つ目に権力構造に基づく強者と弱者の関係が考えられる。

 これが崩壊学級で、授業中にもかかわらず全員がわあわあ勝手にしゃべっていて、椅子から立ち上がり教室内や、教室の外へ勝手に歩き回っているような状況なら、いちいち先生に許可をとるまでもない。そんな極端な例を考えるまでもなく、たとえば休み時間ならいちいち許可をとるまでもなく勝手にトイレに行けばいいのだ。そもそもトイレに行くというのは自然の欲求であるからいちいち許可をとるようなことではないはずだ。本当ならこのセリフは「先生、トイレに行きます」でいいはずだ。だってそうだろう。「先生、トイレに行ってもいいですか?」と聞いて「ダメだ」と言われても我慢できるものではない。限界がある。いずれ決壊する。熱い小便が太ももをつたい、緩んだ大便が下着の中に広がる。本来許可をとるタイプの問題ではないのに、あたかも許可を申請し、許可を与えられて初めて実行できるかのように思わせるいわば権力構造に問題がある。強者としての先生と、弱者としての生徒という構造だ。

 

 三つ目に排泄にまつわるネガティブイメージの問題が挙げられるだろう。

 そもそも男子生徒はうんこだのしっこだのちんこだのおしりだのという言葉が大好きで機会を見つけては連呼する生物だが、それは「そういった言葉は恥ずかしい言葉なので、人前で口にすることが禁じられている」という前提に基づいており、あえてその禁を犯すからおかしくて笑えるのである。これが日常的なあいさつ程度の言葉だったらわざわざ口にしてゲラゲラ笑ったりすることはない。元来、下ネタというのはそういうものなのだ。裏返して言えば、協調主義的、権力構造が支配する授業中において口にするのがはばかられる話題だという暗黙の了解があるのだ。

 

 四つ目はジークムント・フロイトが唱えるところの小児性欲という視点も欠かせない。

 小児性欲において、口唇期、肛門期、男根期、潜伏期、性器期と発展するとされているが、子どもにおいては排泄と性はだいたい同じ領域と認識され混じり合っている。これは先ほどの排泄に関する言葉を口にすることが憚られるという現象をさらに上回るタブーとしてのしかかってくる。授業中に「先生、トイレに行ってもいいですか?」と問うことは協調を踏みにじり、排泄のタブーと性のタブーを二重に犯しながら権力構造にお伺いをたてるという極めて困難な作業を意味するのだ。

 

 五つ目として大便と小便の持つ相対的価値の破壊力の問題もとりあげておきたい。

 しばしば指摘されることだが、男子生徒は学校のトイレで小便はできても大便はしたくないという心理的問題がある。女子の場合は比較的緩和されるが、やはり近い感覚を持つ者もいるようだ。しかし女子は個室に入るのが当たり前であり、そのことは特に意味を持たない。だが、事態は男子生徒においてより鮮明である。なぜなら男子の小便は小便用の便器を用いてなされ、個室に入るのは大便をするときに限られるからだ。大人になっても男性と女性の決定的な差として「男は用をたす前に大便をするか小便をするか決めている。女は必ずしもそうとは限らない」という問題があり、これは性差に基づく課題へのアプローチの違いを論じる上で極めて重要なテーマなのだが、今回は割愛する。

 

 小学校のトイレに戻ろう。つまり男子は個室に入った時点で小便のみではなく大便をするのだと高らかに宣言したことを意味する。それで何が問題なのか。大便をするために大便用の個室に入って何が悪い。大人の皆さんはそう言うかもしれない。けれども男子生徒においてこれは決定的な差がある。個室に入った瞬間にからかわれ馬鹿にされるのだ。「やーい、あいつうんこしてるぜ」「うんこたれうんこたれ」「うんこくさいおならぷー」うるさいっ!当たり前だろう。大便をするのだ。放屁もすれば悪臭も漂う。当たり前ではないかっ! おまえらがそんなことを言うから数多くの男子生徒が学校で便器以外の場所で脱糞するという悲劇に見舞われるのだ! くそったれ。

 

 くそったれ? 誰だ! くそったれといったのは誰だ! おれはくそったれじゃない。くそったれなんかじゃないっ! 好きでくそをたれたわけじゃないんだ。おまえらがひやかしたりするからいけないんだ! おまえらがそんなこというからうんこたれになったんじゃないか! おまえらのせいだ。おまえらのせいなんだぞっ! ちきしょーーーーーーーーーーーーーーーーっ!

 

 はあはあはあはあはあ。

 

 ああお腹痛い。先生、トイレに行ってもいいですか?

 

(「【先生、トイレに行ってもいいですか?】」ordered by 冨澤 誠-san/text by TAKASHINA, Tsunehiro a.k.a.hiro)

※注意:このエッセイはフィクションであり、 実在の人物・団体・事件・精神分析学。ジェンダー論などとは一切関係ありません。

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