【水蜜桃を頬張る】SFPエッセイ043

 いま『理不尽な進化』(吉川浩満/朝日出版社)という本を読んでいて、大変に面白いのでSFPエッセイを利用して簡単に紹介することにしよう。何が面白いかというと何から何までなのだけれど、簡単に言えば「なんでみんな進化論っぽい言葉を使うのが好きなんだろう?」という話で。「激変する環境を乗り切る生き残り戦略」だの「そのままでは淘汰されるぞ」だの「創業以来の優れたDNA」だの「進化し続けるブランド」だの「生存競争に問われる適応力」だの。

 

 要するに「環境の変化に適応できる優れたDNAを持つものが勝ち上がる」というイメージが氾濫している。そして、それはダーウィンが『種の起源』に記した進化論とはまるっきり反する内容だというのである。なぜそんな間違いが起きたのか。この本には、それを分析するために進化論をめぐるありとあらゆる情報が記されていてそれがことごとく面白いのである。何を読んでも面白いということはつまりそれが進化論好きが多い理由そのものなのではないかとも思うのだが、まだ読んでいる途中なのでこの本の結論はわからない。

 

 ぼくの心を捉えたネタをいくつか紹介しよう。

 

 例えば生物種の大量絶滅は過去にざっと20回はくだらないということ。有名なのは一番最近の6千5百万年前の隕石衝突で恐竜が絶滅したとよく言われる白亜紀末のものだが、それ以外にも代表的なものだけで「ビッグファイブ」と呼ばれる大量絶滅が5回あって、最大は2億5千万年前のベルム紀末に生物種の96%が滅んだというのだ。どうです、ビッグファイブですよ? 面白いでしょう? ミッキーとミニーとドナルドとグーフィーとプルートみたいで。

 

 例えば今までに99.9%の種が絶滅しているということ。そして現存する0.1%の種は別に優秀だから生き残っているわけでもなければ、強いから生き残っているわけでもないということ。6千5百万年前の天体衝突が恐竜絶滅の引き金になったことはよく言われるが、では恐竜がその後に繁栄する哺乳類より劣っていたから滅んだのかというと全然そうではなくて、隕石衝突前の1億5千万年にわたり恐竜は圧倒的に優勢で繁栄していたのだ。

 

 考えようによっては、隕石衝突前までは「恐竜こそが全ての種の中で圧倒的に優れていた」ともいえる。でも、本を読めばわかるように、それもまた意味のない判定だ。すごく乱暴にまとめてしまえば、「全ての種は絶滅する運命にあり、現存する種は、たまたま運よく滅びなかったから現存している」という身も蓋もない言い方になる。

 

 でも、それこそが本来のダーウィニズムだというから面白い。ダーウィン自身は「強いから生き残る。優れているから生き残る。よりよい方に進化する」なんて一言も言っていないのだ。

 

 そこで思うのは「進化」という訳語は不適切だということだ。「進退」という言葉があるように、「進化」はよりよい方向に前進的に変化することで、「退化」というのは悪しき方に変化することを意味している。でも本来の「evolution」は「外に(今とは違う状態に)展開する(変化する)」というような意味合いであって、そこには「いい」とか「悪い」とかいう意味は本来なかった。言ってみれば「展回論」くらいが妥当だったのではあるまいか。

 

 例えば「適者生存」。適者とは生存した(生き延びた)者であり、生存(生き延びる)とは適者が残る現象である。単なるトートロジー(同語反復)に過ぎないのだ。なのにそれを「適者が生き延びる」という法則だと勘違いしたり、「生き延びたのは適者だ」と証明したつもりになっていたりする。言葉のマッチポンプ現象が起きているのである。

 

 こんな調子で次から次に刺激的なネタがどんどん出てくる。いろんなことを考えさせてくれてワクワクする。何より面白いのは進化論という幻想の上でみんなが右往左往している滑稽な様だ。人類って本当に愚かだ。世界はたったいま神の手によって創られたのだということに気づかず(あるいは気づきたくないのかもしれない)、6千5百万年前だの2億5千万年前だの大騒ぎしている。

 

 いま目の前に水蜜桃がある。その曲線は柔らかく肌触りは艶めかしく熟れて色づき頬張れば甘く汁気に満ちている。赤ん坊の頬にたとえる人もいれば、女性の臀部やもっと秘められた場所にたとえる人もいる。水蜜桃は人類を(とりわけ男性を)挑発しかぶりつかせ、その種をあちこちにまきちらしてもらえるように進化したのだと大真面目に言う人もいる。

 

 けれど事実は違う。世界はいまあるような姿で、たったいま生まれたのだ。これを読んでいる人が「そんなわけはない。少なくともこの文章を最初からここまで読んできたじゃないか」と言うのもわかる。本当はそうではない。「『この文章を最初からここまで読んできた』という一連の記憶とともにたったいま世界は神がお創りになった」のである。

 

 水蜜桃の種があって、地に落ちて、やがて芽が出て茎が出て葉を広げ幹を伸ばし樹木となり花を咲かせ受粉し結果したと人は考えたがるが、そしてそう考えるのはとても魅力的だし、緻密で筋道が通っていることは認めるが、それもこれも「『種に過ぎなかった水蜜桃が発芽して実を結ぶまで』という一連の認識とともにたったいま神がお創りになった」のが正解だ。

 

 中には「いや。神が天地創造をしたのはン千年前だ」などと唱える者もいるが愚かしい限りだ。時を超え、全てをお創りになる力のある神がなぜたった一回、数千年前に作ったきり放ったらかしにするなどという中途半端な愚行をなさるだろうか。「ただいまの会」の教義にあるように、神はたったいま天地を創造してされたのだ。そして一瞬ごとに創造し続けておられるのだ。

 

 そう。常に世界は生成され続けていると言い換えてもいい。種の姿の水蜜桃の世界があり、発芽した水蜜桃の世界があり、葉を開く水蜜桃の世界があり、未熟な水蜜桃の世界があり、もぎたての水蜜桃の世界があり、熟して崩れる水蜜桃の世界があり、その全てを神がたったいまお創りになったのだ。創り続けておられるのだ。どうしてそんな簡単なことがわからないのか、人類は愚かだ。

 

 え? 天地創造はずっと続いているのかって? 当たり前じゃないか。その前には何もなかったなんてことがあるとでも思っているの? 君が生まれてからこの瞬間までの記憶も全て繋がっているだろう? その全ての瞬間を神が創造されたと言ってるんだよ。一瞬前が無だなんて馬鹿げたことだ。では神がいつ頃から創造を始めたのかって? さあ。いまぼくらが属している世界に限って言えば138億年前くらいなんじゃないかな。

 

 「ただいまの会」のマークが水蜜桃をモチーフにしている理由もまた「神がそうお創りになったから」と答えるしかないのだが、本当は違う。創始者のぼくの大好物だからだ。水蜜桃を頬張りながらぼくは思う。人類はこの一瞬一瞬天地創造の瞬間に立ち会っていることをもっとかけがえのない素晴らしい出来事ととらえるべきだと。「ただいまの会」ではみなさまの入会を心よりお待ち申し上げています。

 

(「【水蜜桃を頬張る】」ordered by 中嶋 千恵-san/text by TAKASHINA, Tsunehiro a.k.a.hiro)

※注意:このエッセイはフィクションであり、 実在の人物・団体・事件などとは一切関係ありません。

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