【クスクスの暗号[ブザーが鳴って8]】SFPエッセイ039

 もしやと思って調べてみたら、まだ〈クスクスの暗号事件〉がどう始まったかという話をしていなかった。事件そのものはご承知の通り、多くの人が命を落とし、深く傷つき、また取り返しのつかない対立を生んだヘヴィな事件だが、その始まりは滑稽な顔つきをしていた。あんなに痛快なエピソードを書き漏らすとはおれも焼きが回ったものだ。この話はいささか品位に欠ける爆笑系の話なので、そういう話が苦手な上品な方は覚悟の上お読みください。あるいは読み進めないほうがいい。あらかじめ忠告しておく。ここから先を読んだ人が不快または嫌悪を感じようとおれは一切責任を負わない。以下は自己責任で。

 

   *   *   *

 

 ブザーが鳴った。

 磨りガラスに「古道具店兼探偵事務所」と記したドアを開けると、おれの前にはつむじ風がいた。小さいが破壊力満点のつむじ風がおれを見上げてにらみつけていた。

 

 おれのオフィスはエレベーターなしの徒歩5階にあって、大抵の人が肩で息をつきながら現れる。けれどこの依頼人は違った。息ひとつ乱れず、頬を赤らめるでもなく、ましてや汗を浮かばせもせず、意気軒昂に活力を漲らせて登場した。小柄なご婦人で、白地に花柄の刺繍が施された可愛らしいワンピースを着て、レースの髪飾りをつけて、握り手に細かな細工の施されたステッキを振り回していて、だいたい150歳くらいに見えた。そして傲然と言い放った。

 

「道をお開けなさい!」 

 

 確かにおれは彼女の通路をふさいでいたと言えるかもしれない。それは認めよう。けれどここはおれのオフィスだ。そしてブザーに応じてドアを開けたのだ。道を開けろと怒られる筋合いはない。とはいえおれは争いを好む性格ではない。黙って脇に身を引いた。おれのオフィスを訪れたことがある人にはわかるだろうが、ドアを開けてから奥に通じる通路はあまり幅が広くない。そしておれはこの通りやや大柄だ。ドアを開けた瞬間には小柄な老婆、失敬、老婦人が目に入らなかったくらい身長差がある。依頼人がおれのことをステッキで叩きながら「道を開けなさいと言ってるでしょうが、場所ふさぎが!」と言ったのはそういうわけだ。

 

 勧める前にソファに腰掛け、ステッキの持ち手部分をおれに突きつけて彼女は言った。

「あなたが探偵ですか」

「はあ、一応」

「一応とはどういうことです!」

「探偵をやってます」

「探偵なら探偵だと言いなさい。“一応”は要りません!」

「え? ああ、はいはい」

「はいは一度でよろしい!」

 

 同じことを二度繰り返して言うのは小さい頃からのおれの癖だ。もう治ったと思っていたのにまた出てきた。どうもやりにくい。

 

「盗んだのは誰です!」

「は?」

「誰が盗んだのかと聞いているのです!」

「あの、何か盗まれたんですか?」

「新聞を読んでいないのですか!」

「ああ、すみません。ここでは新聞、取ってないんです。家ではちゃんと……」

「公爵夫人のおまるです」

「こうしゃくふじんのおまる?」

 

 〈公爵夫人のおまる盗難事件〉について、おれはその時初めて知った。世の中では大変な話題になっていたのも関わらず、だ。NHKのニュースでさえも婉曲に「歴史的価値のある装飾品」として紹介されたほか、この一週間、ワイドショーは各局とも面白おかしく紹介していたらしい。後で教えてもらったところによると、ある晩、公爵夫人のおまるが盗難されたというニュースが流れるやいなやネットを通じて一気に世界中に拡散して、中でも日本では公爵夫人のおまるの想像図の画像が投稿されたり、公爵夫人がおまるを使っている様子の想像図が投稿されたり、公爵夫人と公爵がおまるを使って──まあ、詳細はいいか──ストーリーマンガが投稿されたり、ルパン三世ばりの創作ストーリーがツイッター上に何本も連投されたり、その時点ですでにまるまる七日七晩以上も祭り状態となっていたらしいのだが、おれは全く知らなかった。

 

 というのも、このところおれは骨董市で販売するための品物を製作するのに忙しかったからだ。古道具のパーツを素材にして創作するオルゴールや鳩時計や一輪挿しは、いまやわが古道具店の大ヒット商品だった。なぜか海外からの観光客に圧倒的にウケがよく、骨董市に持っていくと確実に売れてしまうのだ。週末の骨董市で売りさばくために、だからおれはせっせと制作せねばならず、正直、事件のニュースとか探偵業とかはどうでもよくなっていたのだ。風合いの良い古道具を仕入れ、埃や汚れを拭い取り、物によってはネジや釘を外し、接着剤を溶かし、ほぞや溝をゆるめばらばらにし、ムーブメントを取り付け、新たな姿に生まれ変わらせ、そして骨董市で売って売って売りまくることにしか関心がなくなっていたのだ。

 

 それでも老婦人から事件のあらましを聞き出し(なぜか途中何度も怒られたのだが、なぜおれが怒られなければならないのかさっぱりわからない)、探すべきものが北アフリカのなんとかいう少数民族が使うおまるだということがわかった。「写真はありますか」と聞いたら「おまるを写真に撮る馬鹿がいますか!」と怒られた。これは怒られた理由がわからなくもない。苦労してその形を聞き出したところ、ネット上に氾濫したイラストとはずいぶん違って、木製で箱状で素朴な外観のおまるのようだった。ただしその価値は数千万円を下らないという。なんとかいう少数民族の族長から、大正時代の日本の公爵家の幼い令嬢に贈られたものだったからだ。「なんでそんなものを」と尋ねたら「無礼な! 汚らわしい!」と怒られた。怒られた理由は全くわからない。

 

 他に言うことも思いつかないので「なるほどなるほど」と適当に相槌を打ちながら、おれは傍の木箱を手に取った。落ち着かなかったからだ。老婦人の前に黙って立っていると、先生に叱られて立たされている小学生みたいな気分になるのだ。オルゴールの共鳴箱用に買った木箱の表面を、固く絞った布で軽く拭い、少しだけ湿気を与える。こびりついた埃や汚れを落とすにはわずかな水分が必要なのだ。表面をぬぐったが、古そうな木箱は意外に汚れていなかった。内側の側面を拭うと、平滑な印象とは裏腹に、意外なくらいべったりとした汚れが付いていた。おれは汚れた布を見つめ、一旦洗い場に持って行こうかどうしようか考えた。

 

 かたーん!と派手な音を立てて老婦人がステッキを取り落とした。見ると老婦人は全身をぷるぷると震わせ、険しい顔つきで一点を凝視したままの状態で、ぴくりとも動かなくなっていた。それが何を意味しているのか、その時のおれにはわからなかった。今のおれにはわかる。当たり前だ。でもその時のおれにはわからなかった。だからおれは木箱と布を置き、老婦人とおれを隔てていた作業台を回り込み、彼女の足元に倒れているステッキを拾ってやった。老婦人は顔面を紅潮させ、正面を睨みつけたまま喘ぐようにして怒鳴った。

 

「なぜそれがそこにあるのです!」

「なんですって?」

「なぜわたしのおまるがそこにあるのです!」

「はい?」

 おれは後ろを振り返り、作業台の上の木箱と汚れた布を見て、全てを理解した。

 

 老婦人のステッキで少なくとも30回はなぐられた。一打ごとに「盗人!」「けだもの!」「変態性欲者!」「スカトロジスト!」など多彩な罵り言葉を浴びた。身長差のせいで主に腹から下にたくさんのあざと、左手の薬指の突き指と、左頬の切り傷を受けた。ようやくステッキを押さえ込み、先週末の骨董市で手に入れた経緯を教えて納得してもらうまでにいくつかの古道具も粉砕された。でもとにかくその場は収まった。元公爵令嬢はおまるを(少しきれいになったおまるを)取り戻し、おれは意外なくらいの礼金をもらうことができた。

 

 さて。ということでこの話は終わりだ。この時点ではまだひとつの馬鹿げた小さな事件が解決しただけだと思っていたが、もちろんこれは始まりに過ぎなかった。後に〈クスクスの暗号事件〉として知られることになる事件はこうして始まった。おまるからクスクスへ。言ってみれば、食べて排泄するという流れを逆行する長い長い旅の始まりだった。始まりと終わりのどちらが上でどちらが下という話ではない。人は滑稽と悲惨を並べると滑稽を軽んじ、悲惨を重く見がちだ。でもおれは、誰もが重苦しい顔をして語りたがる悲劇の顔つきをした〈クスクスの暗号事件〉が、喜劇的な〈公爵夫人のおまる盗難事件〉で始まったことこそが大事なのではないかと思うのだ。

 

(「【クスクスの暗号】」ordered by 山口 三重子-san/text by TAKASHINA, Tsunehiro a.k.a.hiro)

※注意:このエッセイはフィクションであり、 実在の人物・団体・事件・Living Gallery & Space MAREBITOなどとは一切関係ありません。

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