【忘れられたリクエスト】SFPエッセイ037

 気がついたらぼくは泣いていた。はらはらと涙を流して。

 

 それは遠く、遠くから聞こえて来た。呼び声のようでもあった。太鼓のリズムのようでもあった。歌声の旋律のようでもあった。そのすべてであり、そのどれでもなかった。耳を澄ますと聞こえなくなり、手元の本に目を落とすと肌を震わすほどに鳴り響くのだった。もちろんそれはぼくの中で響いていたのだ。ぼくはひとつの共鳴板だった。はるか遠くで上がった何者かが距離を越え時を越えぼくを振動させたのだ。

 

   *   *   *

 

 あの頃ぼくはひとりだった。学校に友達はおらず、先生には面倒臭い生徒だと疎ましがられ、親は、親が望んだ学校にぼくが入学できなかったことで「不良品をつかまされた」という風にぼくを見ていた。姉も、妹も、その学校名を両親が誇らしげに口にする学校に通っていた。ぼくがどこの学校に入学したかは話題にもならなかった。事情を知っている親戚は慎重にその話題を回避した。ぼくは学校が嫌いになった。友達も欲しくなかったし、先生の言うことなんか聞きたくなかった。

 

 でも家にはもっといたくなかったから毎日休まず学校に通った。休み時間はイヤフォンをつけてiPhoneで音楽を聴き(ケータイを学校に持ってくるのは禁止されていたが誰も何も言わなかった)、授業中は頭の中でその音楽をずっとリピートしていた。あの頃聞いた音楽をぼくは今でも隅々まで再現できる。休み時間に仕込んで、授業中に再生を試み、休み時間に修正を加えて、また授業中に再生するのだ。

 

 誰も聞かないような音楽を探して、ぼくはぼくだけの鉱脈を見つけた。デッド・カン・ダンス、ディス・モータル・コイル、ハロルド・バッド、カラーボックス。30年も昔の音楽たち。もう今は誰も忘れてしまった音楽たち。世界でぼくだけが聞いている。もちろんそんなわけがないのはわかっている。でもぼくの周りで4ADというレーベルのことを知っている人間は絶対に一人もいないし、ぼくが聞いている音楽を知っている人間も絶対に一人もいないことは確信していた。

 

 J POP! ハ! 群れたい奴は一生そのまま群れに呑まれていろ!

 

 高校2年になって校則が厳しくなってぼくのiPhoneは没収された。でもぼくは親にも言わず、謝りにもいかず、iPhoneを手放すことにした。どうせ電話もかけない。メールもしない。LINEもFacebookも関係ない。ぼくにとってiPhoneは音楽プレイヤーでしかなかったし、その時にはもう、ぼくの頭の中にはアルバムにして100枚近くがいつでも再生できるようになっていたのだ。休み時間には教室を離れ、音楽に最適な場所を求めて校内を探索した。鍵のかかった屋上への扉を開けようと試み、理科実験準備室に忍び込み、階段下の納戸を発見した。

 

 でもとうとう見つけた隠れ家は意外にもまっとうな場所だった、普通の学校ならば。でもぼくの両親がその名前を口にしたがらないこの高校では、誰からも忘れ去られた施設だった。校庭の外れ、まるで見つかるのを恐れているかのように、それはあった。安っぽいつくりの間に合わせの建物。工事現場に一時的につくられる事務所のような外見。地面から少し浮き上がって立っていて、2段ほどあがる。建て付けの悪い引き戸を開けると中は薄暗く、少ない窓から差し込む外光が本棚の列を黒々と浮かび上がらせていた。室内に蛍光灯があったが、冬の夕方を除くとほとんど灯されることはなかった。

 

 図書室には足の悪い司書の女性がいた。無口で無愛想で年齢不詳だった。どこか他の国の人の血が入っているような、目を引く彫りの深い顔立ちだったが、華やかさのかけらもなく、いつも喪服めいた黒い服を着ていた。他にも何人か図書室を利用している生徒はいたが、何回か通ううちにそれは多くても5人程度の限られた顔ぶれだということがわかった。時にはぼく以外誰もいないこともあった。こうして昼休みと放課後のための居場所が見つかった。ぼくはディス・モータル・コイルの『フィリグリー・アンド・シャドウ』を無限再生させながら、今まで触れたことのない本を手に取った。

 

 ニュースで見たり聞いたりするテロだの公害だの不況だの戦争だのには何の興味もなかったけれど、本の中に出てくるテロや公害や不況や戦争は他人事ではなかった。ぼくはテロに巻き込まれ、あるいはテロをしかけて失敗した。公害はぼくの身近な人間を蝕み、ぼくの会社を破滅に導いた。不況は惨めさと屈辱をつきつけ、ぼくを犯罪者に仕立て上げた。戦争はぼくをいっぱしの兵士に仕立て上げ、赴いた戦場は膠着して感情を摩滅させ、やがて犬死に追いやった。

 

 何かが、ぼくの中で鳴り始めたのはその頃からだった。それは4ADのアルバムとは違う何かだった。テロで殺されたぼくが訴える痛みや無念だった。テロに失敗した悔しさや自暴自棄だった。公害に健康を損なわれた憤怒と無力感だった。破滅の絶望であり、自死への誘いであり、呪詛の思いだった。兵士の誇りであり、よくわからないものに騙された怒りだった。それらが音楽のように鳴り始め、響き始めた。

 

   *   *   *

 

 その日、ニュースで一人の日本人の死について見たとき、ぼくはいつも通り自分には関係ないと思った。連日連日大騒ぎしている大人たちは、嘘の塊に見えた。大騒ぎしなくちゃいけないと決まっているから大騒ぎしているだけだ、本当は大してなんとも思っていないくせに深刻な顔をして深刻ぶっているだけだと感じた。だから頭の中でフルボリュームでデッド・カン・ダンスの『スプリーン・アンド・アイデアル』を鳴らして授業をやり過ごし図書室に向かった。

 

 泣きはらした目でぼくを見ると、司書は壁沿いの席の一つを指さして言った。

「いつもあそこに座っていたわ。彼のお気に入りの席だった」

 何のことかわからず黙っていると司書は軽く首を振り、それからまるで自分に言い聞かせるように言った。

「座ってみてくれる? そこで、この本を少し読んでくれる?」

 ぼくは誰だかわからない人のお気に入りの席に着き、南米が舞台のルポルタージュを開いた。

「卒業の随分前にね、その本をリクエストしたのよ、彼。でも届くのに時間がかかってね、間に合わなかった」

 

 少し読み始めてわかった。これは今朝、日本人が殺された地域のルポだ。彼はその地域をしばしば訪れて活動していた。土地の子供たちに勉強を教え、寄付を集め学校をつくり、貧困を脱するための産業を創り出していた。彼がついに手にすることがなかったこの本は、土地の良きガイドになったかもしれない。でも実際には、彼はこれを読むことがなかった。読むことがないままその土地に赴き、人質になり、命を落とした。

 

 ぼくには関係ない、深刻ぶった大人たちの遠い事件だったものが、いきなりぼくに関係してきた。この同じ椅子に座った人の身に起きた出来事になった。音楽が鳴り始めた。聞いたことのない異国の音楽。交わされる異国の言葉。雑踏の音。リズムと旋律。遠くで誰かの声。体が震え始め、本の文字が歪み始めた。どこかから語りかける声が聞こえてきた。

 

「わたしもすっかり忘れていたわ」喪服の司書の声はだんだん遠くなっていた。「彼は覚えていたのかしら」

 覚えていたよ。メイさん。思い出してくれてありがとう。頭の中で声が言った。気がついたらぼくは泣いていた。はらはらと涙を流して。

「どうしたの? ああ、いけない!」司書は温かみのある笑みを浮かべ、ぼくに謝った。「ごめんね。怖がらせちゃった?」

「違うんです」ぼくはしゃくりあげながら言った。「あなたはメイさんって言うんですか?」

 司書は笑みを浮かべたまま言葉につまり、ぼくを見つめた。

「いいえ」用心深そうに彼女は言った。「さつきよ。わたしをメイと呼んだ人は一人しかいないわ」

 

(「【忘れられたリクエスト】」ordered by 澤田 健一-san/text by TAKASHINA, Tsunehiro a.k.a.hiro)

※注意:このエッセイはフィクションであり、 実在の人物・団体・事件などとは一切関係ありません。

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