【小さなあしあと】SFPエッセイ034

 そして今日も、小さなあしあとを見つける。

 

 いま私が暮らす「ハウス」のすべすべとして温かみのある木製の床材にくっきりと、間違えようもなく、くっきりと。我が家では子供が生まれると記念に足型をとったものだ。赤ん坊の足の裏に絵の具をペタペタと塗って紙に押し付けて。その足型を思い起こさせる小さな可愛いあしあと。

 

 これは幻覚なのかもしれない。ということを思いついているから、まだ私にはそれなりの正気が残っている。そう思っていいのだろうか。あしあとはただ、いつもとても自然な様子でそこにある。朝起きて、プロックが調理する朝食を食べ終え、資料を読みながら食後のコーヒーを飲んでいる時など、ほんのすこし先の床に、それは見つかる。よちよち歩きを始めたばかりの赤ん坊の足くらいの大きさで、裸足の足裏のあとがくっきりとついている。

 

 初めてそのあしあとを見たとき、私は泣いた。自分でも理由はよくわからない。たぶん、それは私自身の子供のあしあとのように見えたからだろう。もちろん、そんなことがありえないことだというのはわかっているのだが。私の子供達は三人ともとうに成人して、それぞれの家庭を持って生活をしているし、何より、彼らはここからは遥か遠くに暮らしている。子供達も、孫たちも、ここに来ることはない。ありえない。

 

 にもかかわらず、そのあしあとは、長男が初めて歩くようになったとき、家の中にペタペタと残したあしあとそっくりだった。子供を産んだばかりの当時、私は育児に専念していた。夫は訓練に明け暮れていたので、私は息子と二人きりで一日中家で過ごしていた。

 

 振り返ればあれは、信じられないくらい幸せな日々だったと思う。その時には不満も不安もあったけれど、あんな風な、あたたかい毛布に包まれたような特別な時間を過ごすことは二度とあるまい。

 

 朝は早くから起きて子供の相手をしながら食事を作り食事を食べさせ洗い物をし洗濯をし遊んでやりまた食事を作り食事を食べさせ洗い物をし掃除をし昼寝をさせ本を読み遊んでやり食事を作り食事を食べさせ洗い物をし風呂に入り遊んでやり声に出して本を読み寝かしつけ自分も寝た。完璧な日々だった。

 

 そしてその頃、床をピカピカに磨きあげようとすると必ず、小さなあしあとを見つけた。歩き始めたばかりの小さな息子の小さなあしあとを。とたとたと不器用に歩いたことがわかるあしあとを見つけると、私は思わず声を立てて笑ったものだった。

 

 何年も経って、子供達の独立を待ってから夫婦で探査船に応募して合格し、亜光速移動中のどこかで地球とのコンタクトが途絶え、空間ばかりか時間も超えてしまい、予定した惑星かどうかも不明のままこの星に着いて、計画通りに「ハウス」を建造し、研究活動を開始した。それなりの成果を上げて地球との連絡方法を模索し始めたところで不慮の事故が発生して夫を失い、私も大きな怪我をして「ハウス」から出ることができなくなってしまった。幸いなことに食料と水だけは一人では消費しきれないくらいふんだんにある。エネルギーも2つの恒星から十分にもらっている。孤独だ、ということを除いては私が生きる上で困ることは何もない。

 

 初めてあしあとを見つけたのは、夫が死んでからもう何年も経ってからだった。ある朝、床を掃除しようとして見つけた。ほんの数歩分のよちよち歩きのあしあとがついていた。見つけて、思わず泣いて、そのままにした。翌朝それがなくなっているのに気づいたときには、孤独のあまりとうとう幻覚を見るようになったのだと思った。次に見たのはそれから何カ月もたってからだったが、やはり幻覚なのだと自分に言い聞かせた。次に、ひょっとするとこの惑星には、私以外の住人がいるのかもしれないと思いついた。

 

 惑星の住人が人間にそっくりな足を持つヒューマノイドである可能性は低いと気づいてからは、その生命体がなんらかの形で私の精神に働きかけ、懐かしい記憶を思い出させているのではないかと考えるようになった。孤独に苦しむ老いた個体を慰めるため、無条件に幸せだった日々の記憶を、小さなあしあとを通じて見せてくれているのではないかと。その考えは悪くないように思えたが、この惑星に住人がいて、そのような能力を持っているという確率は天文学的に低かろう。やはりこれは、孤独が私に懐かしい幻覚を見せているのだと考えるべきなのかもしれない。

 

 でも、もしかしたら。と私は夢想する。これは本当に息子の、あるいは子供たちのあしあとなのかも知れないと。この星には奇妙なことがいろいろある。時間の流れも地球とは違う。因果律が逆転するように感じることもあるし、そもそもそんなロジックが通用しないように感じることも多い。「ここ」は「ここ」とは限らないし、「いま」も「いま」とは限らない。それならば、あの時の息子たちのあしあとがここに出現しても不思議はない。

 

 生まれ故郷を百光年も離れ、一人きりで暮らす体の不自由な年老いた女が、遥か昔にお腹を痛めた子供の赤ん坊時代の記憶だけを心の支えにして生きている。それが正解なのだろうということはわかっている。わかっているが、それだけではないと信じている。なぜなら私はあしあとを写真にも記録したし、ある日などはあしあとが進んでいく様を動画にもおさめた。そこには誰もいないのに、あしあとが、とたとたと危なっかしく進んでいくのを、私は微笑ましく見守った(本当なら、その時、悲鳴をあげるべきだったのかもしれないが、私は笑い声を立てないようにするのに精一杯だった)。

 

 そして今日、あしあとは外に向かっていた。体が不自由になってからもう何年も外に出ていないが、私は今日、あしあとに従って外に出ようと思う。だから、これは最後の挨拶になるかもしれない。プロジェクトチームのみなさん、連絡が取れなくなって残念でした。夫と私は所期の予定通り、新鉱物の発見に成功しました。このデータをなんとかして届けたいと考えています。

 

 地球に残してきた家族のみんな。おばあちゃんは元気に過ごしました。おじいちゃんは少し早く亡くなったけれど、最後までとても元気に、例のばかばかしい冗談をいつも言っていたよ。最後の朝もラッシュアワーの電車に乗るのはうんざりするとか言いながら家を出て行ったよ。おじいちゃんらしいね。

 

 おばあちゃんはこれから外に出ます。これまでこの星には何も危険はなかったけれど、おばあちゃんの身体は思うように動かないので、あるいはこれが最後のメモになるかもしれません。でも悲しまないでください。おばあちゃんは外に何が待ち受けているか楽しみなのです。もちろん、あしあとなんてどこにもなくて、外にも誰もいないかもしれません。でも、外に出たらそこには惑星の住人がいるかもしれません。こんな小さなあしあとをつける小さな可愛い住人かもしれません。

 

 そしてひょっとすると、そこには時と場所を超えて、足型を取った頃のお前たちがみんないるかもしれません。そうしたらおばあちゃんは泣いちゃうのかな、笑っちゃうのかな。面白そうでしょ? それでは行ってきます。みんな、元気でね。ドアの外で会えるといいわね。

 

(「【小さなあしあと】」ordered by 松田 仁-san/text by TAKASHINA, Tsunehiro a.k.a.hiro)

※注意:このエッセイはフィクションであり、 実在の人物・団体・事件・惑星探査計画などとは一切関係ありません。

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