【巡礼者の苦悩】SFPエッセイ033

 時折おれは巡礼者の苦悩に想いを馳せる。

 なにゆえに神は、時として、我々巡礼者の心を試すようなことをなさるのだろうか。

 

   *   *   *

 

 過日、賤が谷を訪れた。

 

 水の上に浮かぶ湖上都市・賤が谷。「谷」と言いつつ、実際にはその小都市は山々に囲まれた湖に浮かぶ島である。一時間も歩けばぐるりを一周してしまえる程度の島の上にできた大きめの城塞都市だ。言い伝えによると、賤が谷全体が、とある旧家の屋敷が拡大したもので、その住人は事実上ひとつの巨大な家族のようなものだという。

 

 彼らは独立宣言をしており「日本国政府には行政機能の一部を暫定的に委託している」と称している。昨今の独立国ブームなどよりはるか以前からそのようにやってきたし、歴史を遡れば、ことさらに独立宣言をするまでもなく、明治政府に対しても、江戸幕府に対しても、この地域を拝領していた轟藩に対しても、一貫して同じ姿勢を貫いてきたという。けれど我々にとってそこは、行田高校の裏手に潜む異界・轟音寺である。

 

 霧たちこめる湖上にかかる長い長い吊り構造の橋を進んでいくと南大三門がその雄大な姿を現しぐんぐん迫ってくる。同行のカメラマンの岸谷が唸り声を上げ、呟いた。「霧崎の門だ」「ああ。霧崎の門だ」我々の間に余分な言葉はいらない。霧崎の門で何が起こったか。出会いがあり、裏切りがあり、詰問と慟哭があった。その全てを我々は共有している。もう一度岸谷が言った。「霧崎の門だ」「ああ。霧崎の門だ」おれも同じ言葉を繰り返した。

 

 我々にとっては「霧崎の門」、賤が谷においては「南大三門」をくぐり、クルマは湖上都市に入る。振り向けば門越しに見える吊り橋の光景も我々にとってはよく馴染んだ背景だ。若き僧侶の「施華逸(せかいち)」が小さき忍びの者「美瑠坊(びるぼう)」と初めて対峙したのはまさにこの場所だった。

 

 かくて我々は轟音寺山域への侵入を果たした。これはつまり、異界への越境を意味する。轟音寺というやかましそうな名とは裏腹に、そこは静寂に包まれた明治維新前を思わせる古い街並みだ。本来の名称である「賤が谷(しずがや)」に含まれる「静か」という音がふさわしい。なぜ彼らは轟音寺などという名をつけたのか。最終回まで観たものだけが知っている。

 

 門を入ってすぐの駐車場にクルマを停め、巡礼者向けの看板を掲げた商家風の建物に入る。のれんを払って中に入ると轟音寺の鮮やかな臙脂の作務衣を着た若い女性がニコニコと話しかけてくる。「ミズタマの方ですか? もしお持ちでなければこちらのガイドをお持ちください。巡礼マップも付いてまぁす!」

 

   *

 

 アニメーション『湖にたちこめる霧の影に月の卵を見た』、略称「ミズタマ」のロケ地として賤が谷が「発見」されたのはちょうど1年前のことである。プロダクション京レックスの鬼才コンビ蒜藻依藻(ひるもよるも)の傑作がOAされたのが5年前、一部の熱狂的な支持に応えて再編集版がOAされたのが2年前。その間、ファンの熱心な捜索にもかかわらず、ロケ地は特定できずにいた。

 

 ところが1年前、賤が谷は忽然と現れた。奇妙な表現だが、そんな場所にあったのならとうの昔に見つかっていても良さそうな場所に賤が谷は見つかった。訪れてみれば、もう数百年も前からそこにずっとあったという風情で、アニメの世界がそのまま現出し、ファンを熱狂させた。巡礼者のブログの写真を見ておれも岸谷も悶絶した。それはまさしく具象化した轟音寺だった。

 

 ところがどうだ。わずか1年で、もうこんな観光客向けのショップめいたものができている。我々は聖地巡礼をしたいのだ。アニメのコスプレをしたおねえちゃんなんかに会いたくはないのだ。だいたいあからさまに女とわかる姿で作務衣を着ている時点で世界観をぶち壊しだ。轟音寺は女人禁制の寺域であり、だからこそ弓藤弥(ゆふじわたる)が……いや、ここからはネタバレになるので書くのはよそう。

 

 しかし我々はそのようなことで波風を立てようとは思わない。かわいい店員から手渡しでミズタマ巡礼ガイド&マップ(「通称・ミズタマップ!」と書いてある)を受け取り、勧められるままに「風炉土(ふろど)の腕輪」を購入した。ちなみに最初期からのファンである我々は「キリカゲ」と呼んでいたので、今なお「ミズタマ」という略称には違和感を覚える。いかにもウケ狙いの略称で安っぽい。「キリカゲ」のほうがはるかに世界観に近いはずだ)

 

 店を出てから岸谷とおれは、ちゃらちゃらしたアニメファンを呪う言葉を交わした。どうして作品世界を大切にしないのだ。轟音寺を轟音寺のままで愛すればいいのに、なぜことさらに安っぽい、巡礼者を小馬鹿にしたようなミズタマップなどをつくり、童貞のオタク(我々のことではない)の心をもてあそぶような生足丸出しのミニ作務衣の女店員などを置くのだ。聖地に浸りきる気持ちに水を差すような真似は一切やめにして欲しいものだ。

 

 しかし、歩き始めるとすぐに我々の心は癒された。「漆牛の松」「二人だけの文箱」「黄泉への小径」、ミズタマップなどに頼るまでもなく我々は作中の聖地を次々に見つけた。プロダクション京レックスは、この土地をそっくりそのまま作品世界として採用したのだ。おいしいところだけパッチワークしたのではなく、施華逸が、美瑠坊が歩いた通りに歩けばその通りの光景が広がっているのだ。

 

 賤が谷、というか、ここからはもう轟音寺と呼ぼう。轟音寺は徒歩で散策するのに適している。中央にそびえる「館」までの階段は非常に急で長いが、登りきって振り返ると日本だろうと世界のどこかだろうと見たこともないような風景が広がっている。「ミズタマ」の、いや「キリカゲ」の中でしか見ることができなかった絶景が眼前に現れる。

 

 その景色に見入りながらカメラを取り出し、岸谷が感に堪えかねたという風につぶやく。「酔待ちの蛇崩(よいまちのじゃくずれ)だ」「ああ。酔待ちの蛇崩だ」おれも答える。岸谷はもう一度しみじみと囁くように言う。「酔待ちの蛇崩だ」「そうだ。酔待ちの蛇崩だ。キリカゲの中でも……」

 

 その時おれの声を遮るものが現れた。「違うわ。ミズタマよ」「誰だ!」

 振り向いて館の方を向き直ると、我々のすぐ後ろに弓藤弥が立っていた。おれも、岸谷も呆然として立ちすくんだ。「違うね。ミズタマさ」と、弓藤弥はアニメの定石通り、いったん口にした女言葉を男言葉に修正して見せた。剃髪した綺麗な頭の形も美少年ぶりもスタイルも作務衣の着崩し方も完璧な弓藤弥だった。

 

「ゆ……弓藤弥」

 岸谷が呟くと一歩、弓藤弥に近づいた。

「よせ!」

 おれも弓藤弥に近づきたかったが、岸谷の行動を見て我に返った。これではまるで観光地化した城の前でコスプレの武将と一緒に記念写真を撮るちゃらいアニメファンと同じになってしまう。

「なぜあたしの名前を知ってるの?……どうしてぼくの名前を知ってるんだい?」

 

 弓藤弥だ!

 これは本物の弓藤弥だ!

 おれは決意して、岸谷の肩をつかむと嫌がるのを無理矢理こちらを振り向かせ、岸谷の目を覗き込むと、このチームのリーダーとしてきっぱりと言い渡した。

 

「岸谷、おまえ、カメラマンだろう。弓藤弥とおれのツーショットを撮れ!」

 

 岸谷の顔が歪み、おれを軽蔑したような表情を浮かべた。

 かまうものか。実在する弓藤弥とのツーショットなんてこの先二度と撮れない。希少な機会を抑えるのがプロというものだろうが。おれが撮れと言ったら撮るんだ。おれはそう厳命し、弓藤弥に向かって「一緒に写真を撮ってもいいですか」と礼儀正しく聞いた。どうしたわけか急に口の中が乾いてしまい、おまけに喉の調子が悪くて声が裏返ったのが残念だった。

「鷹科さん、『はぴ*ゆめ』の鷲倉神社でも同じこと言ってたじゃん」

 岸谷が何か言っているがおれには聞こえない。

 

 時折おれは巡礼者の苦悩に想いを馳せる。

 なにゆえに神は、時として、我々巡礼者の心を試すようなことをなさるのだろうか。

 

(「【巡礼者の苦悩】」ordered by 中嶋 千恵-san/text by TAKASHINA, Tsunehiro a.k.a.hiro)

※注意:このエッセイはフィクションであり、 実在の人物・団体・事件・日本のアニメ及びアニメファン事情などとは一切関係ありません。

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