【007の殺しの酒】SFPエッセイ032

 007の生みの親である冒険小説家のイアン・フレミングはベストセラーの書き方を尋ねられて「いつも次のページがめくりたくなるように書けばいい」とうそぶいたそうだ。実際にはジェームズ・ボンドのシリーズはそこまでスリリングではないし、そこまでドライブ感たっぷりというわけではない。美食に言葉を費やし始めるとやや過剰になるし、ギャンブルの解説などもルールブック並みに詳しく書き込んでしまう。読み手は退屈して投げ出しかねないところが散見する。

 

 事実、初期にはぱっとしない売り上げだった。にもかかわらずジェームズ・ボンド物には早い時期から映像化の話が出てきてシリーズ化が進み、徐々に売れ始め、長期にわたって映像化が進められている。映画化第1作『ドクター・ノオ(日本公開時のタイトルは『007は殺しの番号』)』の公開が1962年。そして23作目の『スカイフォール』の公開が2012年なので、ついに半世紀を超え、その後も新作が生まれ2020年には25作目『ノー・タイム・トゥ・ダイ』の公開を控え、安定してヒットし続ける人気シリーズとなっている。

 

 初代ジェームズ・ボンド役のショーン・コネリーは、いまでこそ押しも押されぬイギリスを代表する俳優の一人となっているが、『ドクター・ノオ』の時点ではほぼ無名の新人だった。二枚目というにはいささか癖のある風貌、スコットランド訛りを直す気は無く、ボディビルで鍛えたマッチョな身体はスーツが似合わなかった。若い頃から頭髪は薄く、ジェームズ・ボンド役では32歳にしてかつらをかぶらされた。それ以前の映画では、よくてちょい役という扱いだった。

 

 無名で扱いづらいキャラクターで、しかも原作のボンドの描写とはかなり風貌が違ったにもかかわらず、イアン・フレミングはショーン・コネリーを気に入った。スコットランド訛りを変える気はないとショーン・コネリーが言い切るのを聞いて、原作でもボンドをスコットランド出身にしてしまうほどの入れ込みぶりだった。一部マニアの間で『007の殺しの酒』として知られる作品を、ショーン・コネリーのためだけにイアン・フレミングが書き上げたという話は、確証はないがほぼ事実だとされている。

 

 小説『007の殺しの酒』は私家版としてしか作成されなかったと言われ、しかも現在に至るまで公式には、現物は確認されていない。全編ショーン・コネリーのために書かれた当て書きで、この本の中でだけ、外見的な特徴も全てショーン・コネリーに合わせて書かれている。幻の小説でありながら極めて評価が高く、作中の幾つかのフレーズはそのままショーン・コネリーの口癖になったという噂もある。

 

 今回YouTubeで公開された映画版『007の殺しの酒』がこの幻の小説をベースにしているのか、ただ単にタイトルのみを利用しているのかはわからない。ただ出演しているのは紛れもなくショーン・コネリー本人であり、時期的にはジェームズ・ボンド物から離れていたはずの1977年に完成した作品だ。(この年、商業映画としてショーン・コネリーが出演しているのは『遠すぎた橋』のみである)。ちなみに公式シリーズでは3代目ボンドのロジャー・ムーア主演『007 私を愛したスパイ』が公開された年でもある。

 

 映画版『007の殺しの酒』の中でジェームズ・ボンドはカリブ海に浮かぶリゾート地でグラマラスな女性(もちろん東側のスパイだ)を監視している。そしてドライ・マティーニではなく珍しく強いラムを飲み続ける。ロンリコ151として知られる75.5度の強烈な酒だ。おそらくこれが「殺しの酒」だということなのだろうが、映画の中でははっきりとは語られない。

 

 映画の終盤、女スパイは印象的な言葉を吐く。「あなたたちは敵を必要としているのよ。もしも私たちがいなかったら中国と張り合うでしょう。中国が敵にならなかったらムスリムを脅威に位置付けるでしょう。それも叶わなかったらよくわからないテロリスト集団を設けるはずよ。なぜなら、あなたたちは殺しの酒を飲んでいるから」

 

 この動画をアップしたのが何者か、いまなぜこのタイミングでアップしたのか、その正体も意図も不明である。ただ唯一の手掛かりらしいものが、あるにはある。

 

 同じシーンの続きの場面だ。女とボンドはベッドの中にいる。ボンドは毛むくじゃらの胸毛を見せつけて裸の上半身を起こし、女の顔を覗き込みながら言う。「飲んでない奴がいるのかい?」それから声の調子が変わる。声から張りが消え、けれど間違いなくお馴染みの老優の声で言うのだ。「それでも愛し合うことはできる。悪い酔いを醒ますまで」そして二人は抱き合いエンディングになる。

 

 もともとのセリフが何だったのか、確認する術はない。

 

(「【007の殺しの酒】」ordered by 中嶋 千恵-san/text by TAKASHINA, Tsunehiro a.k.a.hiro)

※注意:このエッセイはフィクションであり、 実在の人物・団体・事件・007シリーズなどとは一切関係ありません。

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