【晴れ男の悩み】SFPエッセイ016

 晴れ男である。生まれついての晴れ男である。幼稚園の入園式から小中学校の入学式、運動会、遠足、社会科見学、写真を見るとすべて快晴である。そういったイベントが延期や中止になったことが一度もない。家族でのおでかけも記憶する限りことごとく晴天だった。動物園、登山、旅行。室内だから天気には関係ないピアノの発表会や、何でもない外食の時でさえ空は晴れ渡っていた。

 

 けれども自分が晴れ男だと自覚するようになったのは高校で卒業アルバムの委員を務めた時のことだ。先生からは「写真館の人が来はる時は、たいてい天気が悪くて何回か流れるもんや。そう思(おも)といた方がええで」とアドバイスされていたが、ただの一度も流れなかった。流れないどころか毎回素晴らしい天気だった。最初のうちは写真館の人が「いやあ、今日はええ天気になりましたな。こんな絶好の天気はなかなかありまへんで」と言っていたが、毎回毎回絶好の天気ばかりなので三回目以降は「今日もいい天気でんなあ」しか言わなくなり、最後の方は「珍しいでほんま、こんなに晴れんの」と、まるで快晴が悪いことのように気味悪そうに声を潜めて言う始末だった。

 

 ある時アルバム担当の先生がしみじみと「今年は晴れるなあ。誰か晴れ男か晴れ女がおるで」と言った。他のアルバム委員たちは「おれは晴れ男ちゃうわ。いっつも降られるもん」「うちも半々やなあ。こないだも台風で買い物に行かれへんかったし」「おれなんか何か予定入れたらたいてい土砂降りやで」などと言い出し、初めて気づいたのだ。自分には「天気のせいで予定が流れた」という体験がないということに。悪天候のため延期や中止になったイベントがあったか、過去にさかのぼって思い出そうとしても一つも思いつかない。晴れることはいいことのはずなのだが、まわりのみんなと同調しきれずひどく居心地の悪い思いをし、つい「おれが晴れ男です」と言い出せず、ただ曖昧な微笑みを浮かべてみんなの話を聞いているだけだった。

 

 以来、さまざまな場面で晴れ男ぶりを思い知ることになる。大学の入学式も成人式も友達と遊びに行く時も海も山も街も全部晴れだった。ありがたい話だ。彼女ができてデートに出かけても晴れ。いいことだ。デートで喧嘩しても晴れ。別に悪いわけではない。写真サークルに入って梅雨の時期のしっとりした風情のある鎌倉を撮りに行く日も真夏のようなかんかん照り。リクルートスーツを着込んでの就職活動も訪問日はすべて雲一つなく晴れ渡り酷暑の毎日だった。日本一雨が多いとされる屋久島に旅行に行った時も地元の人が呆れるくらいにいい天気が続いた。スキー場ではついに一度も雪が降るのを見たことがない。

 

 何度も言うが、晴れることは決して悪いことではない。基本的には「晴れることは良いことだ」と迷わず言ってもいい、はずだ。結婚式がいい日和になった時には彼女に「さすが」と言われた。何年も付き合ううちに、おれが晴れ男だということは彼女にはもうわかっていたのだ。二人にとってここぞというタイミングは全て晴れだったから、つい「おれ晴れ男なんだよね」とカミングアウトしていたのだ。結婚式の日をみごと晴れわたらせることができて、奥さんになる人に「さすが」と言われて悪い気はしない。晴れ男でよかったと思った瞬間だった。

 

 しかしながら、長い結婚生活を経ると話がだんだん変わってくる。今でも「あなたが晴れ男でよかった」と言われる日はもちろんある。だって晴れなんだから、基本悪いことじゃない。当たり前だ。けれど「そこは晴れなくてもいいんじゃないか」という場面でも晴れてしまう。お互いの家で不幸があった時、最初はおれの親の不幸だったので「まったくこんな日まで良い天気にしなくていいんじゃないの」とからかわれたくらいで済んだが、妻の身内に不幸があった時には、まるでおれが葬儀会場に陽気な天気をかついできたかのように恨めしげに睨まれた。睨まれただけで何も言われなかったのがかえって辛かった。

 

 子どもが大きな手術を受けた日も、経済的な失敗で家を引き払わざるを得なくなった日も、離婚の危機で家庭裁判所に足を運んだ日も、全部雲一つない快晴だった。もちろん子どもが回復して退院した日も、新しい仕事を立ち上げた日も、離婚の危機を回避してやり直すことになった日も、同じく快晴なので「いってこい」と言えば言えなくもない。だから、晴れ男であることで何が問題なのか人に説明するのが難しい。どう言えば伝わるだろうか。

 

 例えばこういうことだ。旅行に行くとする。雨の風情が売りの土地や、高温多雨で有名な熱帯雨林の土地だ。それが連日のピーカンだと、どうしても「違うんじゃないか」という気配が出てきてしまうのだ。「来た意味ないじゃん」みたいな感じになって来るのだ。おれだってそう思う。でもその挙句に「誰のせいだ」ということになる。今では妻だけでなくかなり多くの人間が、おれが晴れ男だということを知っているので、なんとなく責められる立場になる。一人一人は軽い冗談のつもりで言っているのかもしれないが、毎回それをやられるのでおれは参る。だんだんダメージが積み重なってくる。食らうたびにじわりじわりと効いてくるボディブローだ。

 

「あなたには欠陥がある。誰もが共通して持っている、当たり前の風情がわからないのよ」

 離婚調停の時期に妻の代理人だった女性から言われた言葉が忘れられない。そんな無茶なことを言われても、と思うが、内心自分でもそれは感じている。「晴れて欲しい時に雨が降ってがっかりする」というよくある(とされている)体験をおれはしたことがない。だからその「がっかり」がどういうものなのか身をもっては知らないのだ。想像することはできる。でも体験としてはない。「落ち込んでいる日の雨」という誰もが持っているらしい経験をおれは知らない。だからウェットな風情や情緒が理解できないのだと言われたら反論できない。

 

 晴れることは悪いことではない。今でも「よっ、晴れ男!」などと喜ばれる日もある。けれど多くの人はおれのことを一種の異常者だと思っている。それはおれのせいではない。おれが天気を左右しているのではない。みんなだってそれは知っているはずだ。たまたまおれが行くところが晴れているという偶然が、かれこれ半世紀以上にわたって続いているだけなのだ。でも最早そんな言い分は通らない。おれは「雨の情緒がわからないやつ」であり、「痛みを共有できないやつ」であり、みんなとは同じになれない異分子なのだ。

 

 晴れ男の悩みである。

 

(「【晴れ男の悩み】」ordered by 佐々木 元康-san/text by TAKASHINA, Tsunehiro a.k.a.hiro)

※注意:このエッセイはフィクションであり、 実在の人物・団体・事件・晴れ男&晴れ女などとは一切関係ありません。

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