【どうにも許せない】SFPエッセイ009

 どうにも許せないこと。

 

 つきつめて検討して吟味して、それでもどうにも許せないことなど、そんなにはないものだ。たいていのことには情状酌量の余地がある。あるいは認めることはできないにしても、「まあそういうこともあるだろう」と一定の理解はできる。多様性の観点で言えば大抵のことはアリになる。ただし、そこまでつきつめずに言えば、いわば、直感的感覚的に受け入れられないことは確かにある。探せばいくらでも見つかる。ぱっと浮かぶだけでも無数にある。とりわけ──これは自分がもう歳を取ってしまったせいかもしれないが──世の中の動きについていけないことが増えている。

 

 例えば禁煙運動。

 自分もかつては喫煙者であった。喫煙していた当時はタバコをやめられるとは全く思えないくらいだった。ふとしたはずみからタバコから遠ざかり、離れることができた。気がつけばもう30年、ただの一本も吸っていない。最近ではタバコを吸う人と同席するのが苦痛になってしまった。食事の席での煙は不快だし、翌朝、衣類や髪についたタバコの臭いをかぐと呪ってやろうかと思う。でもそれ自体はどうにも許せないというほどのものではない。むしろ、近年の喫煙者への迫害の方がどうにも許せない。千代田区ではとうとう路上喫煙者を市民が逮捕して警察に突き出してもいいという条例が通った。その立場もわからなくはないが、そんなやり方をしていては危険な対立と分断を生むことになる。すでに大阪都ではレジスタンス的な喫煙結社が生まれたと聞く。このまま対立を深めることは極めて危険である。どうにも許せない。

 

 例えばネオバイコロジー。

 1980年代に生まれた「殺人装置としての自動車」という概念はいったん下火になったかに思われたが、2020年代になって息を吹き返し急速に社会に広まった。確かに1980年代においては「クルマは年間1万人の命をコンスタントに奪い続ける装置である」という考え方は衝撃的だった。しかしその後、自動車メーカーも努力を重ね、また道路交通法の改定のおかげもあって年々その死者数は減少に向かっていた。あのまま進めばおそらくそんなに大きな問題にはならず、モータリゼーションはわが世を謳歌したはずだ。けれども2019年のあの悲惨な原子力災害のあと、放射線障害で亡くなる方の数が年間数十人に達した時、「放射線障害の年間数十人より自動車の年間数千人の方がはるかに危険だ」という、数字遊びめいた言説が広まるや自動車産業は一転して苦境に追い込まれた。その結果が現在の“自然環境と人の命にやさしい”自転車ブーム、ネオバイコロジーだ。かつて自動車のために用意された道路はいまや自転車に埋め尽くされている。それがいけないという気はない。けれども私のような年寄りが自動車を運転しているとしばしば自転車族の嫌がらせを受けることになる。車体は足蹴にされ(ネオバイコロジストに言わせると「モーターンキック」という方向転換のテクニックということになる)、「殺人車」というステッカーを貼られ、まわりでクイーンの「バイシクル」の替え歌を大合唱される。あれはたまらない。ドライバーの誰かが(それは自分かもしれない)がアクセルを踏み込んでネオバイコロジストどもを殺戮する日は近い。どうにも許せない。

 

 例えばTHE ZONE。

 あれは何年前のことだったろうか。生物学会にとどまらず世間を騒然とさせた論文偽造事件は一つの細胞をめぐるものだった。まさかあんなバカバカしい捏造騒動の果てに本当に死者の再生技術が誕生しようとは当時は想像もできなかった。あの年、日本ばかりか全世界を巻き込んでのくだらない騒ぎとなった事件の検証過程で、問題の細胞にはとんでもない性質があることがわかってしまったのだ。既知のいかなる細胞とも違う性質を持っていて、端的に言えば死者を再生させる効果があることがわかってしまった。しかも、その利用法が馬鹿げている。一定の濃度の溶液を生前に飲んでおくだけで効果があったのだ。おかげで従来なら死んでいたはずの人がどんどんよみがえるようになってしまった。その後の研究で、もっと面倒な手続きを経ればすでに死んでしまった者ですら蘇らせることが判明してしまった。

 

 その結果どうなったか。

 捏造そのものは事実だったにもかかわらず、その科学に対する裏切り行為への追求は止み、医療科学研究機関とプロジェクトを推進した大学院生グループは一躍時の人となった。どうにも許せない。社会的にも大きな影響があった。人が死ななくなったことにより、かつてなら殺人罪を問われたような事件が障害程度の扱いになってしまったのだ。どうにも許せない。そして〈蘇生者〉の人口がだんだん増え始めた。〈蘇生者〉に関してさまざまな意見があることは承知している。否定肯定とも激烈で、妥協案の模索も多い。その結果、事実上の隔離エリアとしてTHE ZONEが生まれた。オフィシャルなものではなくたまたま一定のエリアが〈蘇生者〉が多く暮らす住区になっていったのだ。どうにも許せない。

 

 個人的に〈蘇生者〉たち一人一人に対して含むところはない。けれど自分の家がTHE ZONEに含まれてしまった者の立場はどうなる! 何らかの説明会や補償を経てならともかく、ただ単に「あのへん、〈蘇生者〉が多いよね」という印象だけで決めつけられてしまったのだ! あろうことか、THE ZONEに暮らす人は全員〈蘇生者〉なのではないかという目で見られるのだ! どうにも許せない。

 

 繰り返すが〈蘇生者〉に対して含みはない。確かに四肢の一部を欠いた者や、全身火傷を負った者、吹き飛ばされた顔の半分から今なお血膿を流している者と道ですれ違うのは正直言ってつらい。痛々しいし、正直に言えば気持ち悪いしこわい。孫も泣く。どうにも許せない。見た目には区別がつかないほとんどの〈蘇生者〉については特に何も言うことはない。甦れてよかったと思う。けれど〈蘇生者〉ではないのに〈蘇生者〉扱いされて構わないかというのは別問題だ。どうにも許せない。何が許せないのかわからないが、自分を〈蘇生者〉扱いするものも許せないし、なし崩しで決めつけられたTHE ZONEというものも許せないし、もっと言えば蘇生技術そのものも許せない。

 

 いったい社会はどこに向かっているのだろう。ついていけなくなっているのは、自分の歳のせいなのだろうか。でもどうにも許せないことは確かにあるのだ。家人に蘇生ドリンクを勧められて、いまそれを机の傍に置いて飲もうかどうしようか迷っている自分も許せない。どうにも許せない。

 

(「【どうにも許せない】」ordered by 阿藤 智恵-san/text by TAKASHINA, Tsunehiro a.k.a.hiro)

※注意:このエッセイはフィクションであり、 実在の人物・団体・事件・禁煙運動・モータリセーション・STAP細胞などとは一切関係ありません。

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