【33年前】SFPエッセイ008

 33年前の今ごろ、ぼくは東京にいた。神田にあるY-ホテルに泊まり、S予備校の年末の冬期講習を受講していたのだ。今はどうか知らないが、当時のY-ホテルは古びていて薄暗く、階段は無駄に広く、部屋も一人で使うにはやたらがらんとしていて、クローゼットは開けたてする度にきしんだ音をたて、扉は少しずれて傾いており閉まりが悪かった。部屋にはテレビが一台あったけれど、ぼくはほとんど見なかった。受験生だからということもあったが、もともとぼくはあまりテレビを見る習慣がなかった。

 

 友人二人も一緒で、同じホテルにそれぞれ一部屋ずつ取っていたが、夕食を一緒に取りに行くとき以外、ほとんど行き来もしなかった。今から考えるとそれは不思議な話だ。高校三年生が親元を離れてはるばる東京まで出てきて放置状態だったのだから、もっとデタラメな不品行の一つもすればいいのにと思うけれど、そういう青春ドラマ風の「武勇伝」はない。薄暗く、よく言えば重厚で、正直な感想を言えば陰気なホテルの一室で課題に取り組んだり、持参した参考書をめくったりしていた。全国的には「デルタン」と呼ばれていた英単語の参考書を、関西人のぼくたちは「シケタン」と呼んでいた。数ヶ月後、大学に入ってからそういう地域差の話題でひとしきり話に花が咲くのだが、その時のぼくはまだ知らないので黙々と「シケタン」のページを繰っていた。

 

 部屋にいても眠くなるばかりなので、部屋の外に出ることにした。陰気なだけでなく暖房のせいで頭のあたりばかりやたら暑く、眠気を誘われてしまうのだ。夕食くらい一緒に食べよう、というので落ち合う時間を18時と決めていたのだが、約束の時間にはまだずいぶん間があった。フロントに鍵を預けて出るのが億劫で、建物の中をうろうろすることにした。降りる方に見るべきものがないのはわかっているので、無駄に広い階段をのぼり、上の階をめざすことにした。友人二人が上の階にいるので、ひょっとしたらばったり落ち合うかもしれないと少し期待していた。かなり期待していた。なぜなら、部屋を出た時に誰かに見られているような気配を感じて、気味悪く感じたからだ。けれど一つ上の階の廊下も、下の階と同様、誰もおらずしんとしていた。

 

 もう一階上に登る。そこにも重々しい石造りの床と壁と天井と暗い色調の木で飾られた腰板や巾木、そして擦り切れたカーペットが薄暗い照明の中に静まり返っていた。さらにもう一階。同じような風景。さらにもう一階。そのあたりでぼくは不思議に思い始めた。階段はまだ上に続いていた。外から見た建物はそんなに高くは見えなかった。どこまで続くのだろう? もう一階昇る。まだ続いている。もう一階。おかしい。

 

 その時、客室のドアが開く音が聞こえた。ぼくは思わず傍にあった壁面のくぼみに隠れてしまった。客室のドアが開いた。それはちょうどぼくの部屋があるのと同じ位置のドアだった。出て来た若い男を見て目を疑った。貧相に痩せていて、髪は伸び放題にばさばさと長く、つまらなさそうに口を尖らせ背を丸めたその男は、部屋に鍵をかけると辺りを見回し、階段に近づいてきた。一瞬下の階を見やったがそのまま昇り始めた。やがて階段の下の踊り場に同じ男が姿を現し、この階まで昇ってくる。陰気な廊下を眺めわたし、それからまた階段を昇り始める。再び下の踊り場から男が登場する。階段の上に消えていく。それは、ついさっきまでのぼくの姿だった。

 

 この後の記憶ははっきりしていない。少女が登場した。引きずり込まれるように彼女の部屋に入った。少女は聞き取りにくい声でぼくが体験した現象(確か「オンブル・ロンブル」と彼女は呼んでいた)について説明をしてくれた。それから何かを整える必要があると言い、気がついたら二人とも服を脱ぎ捨てベッドに入っていた。彼女と性交渉をして、そのまま眠りについたところでドアを叩く音に気付き、起き上がるとそこは自分の部屋で、友人が夕食に誘いに来ていた。全て夢だったのかと、あわてて下着を確かめたが夢精の跡はなかった。長々と射精をしただるい感覚がはっきりと残っていたが、それもこれもみんな夢のせいだったかもしれない。今でもふと思うことがある。33年前のあの出来事は本当に起こったことなのだろうか。やはり夢だったのだろうか。夢だとしたらどこからが夢なのだろうか。あるいは。

 

 あるいは、ぼくはまだその夢から覚めていないのではなかろうか、と。

 

(「【33年前】」ordered by 岡 利章-san/text by TAKASHINA, Tsunehiro a.k.a.hiro)

※注意:このエッセイはフィクションであり、 実在の人物・団体・事件・YMCAホテル・駿台予備校などとは一切関係ありません。

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