【ラクダは本当に友だったのか。】SFPエッセイ006

 都心部のターミナル駅から特急電車で二駅ほど離れた(つまり各駅停車だと五、六駅ばかり離れた)場所にその店はあった。沿線に住んでいた私はしばしば途中下車して店を訪れた。いつも待ち合わせの人でごった返している駅前の広場を離れ、しゃれたブティックや菓子店などが並ぶ道を歩き、やがて店がぽつぽつと住宅街の中に点在するようなエリアのビルの五階に上がる。今はもう使われなくなった古い手動シャッター式のエレベーターを恨めしく睨みながら階段で上がる。ミラージュというのが店の名だった。

 

 バーテンダーは物静かな男で、誰が何を話しかけても「はい」としか言わない。注文を受けても「はい」しか言わないし、ジョークを言っても目元で笑いながら「はい」と言う。長い身の上話を聞かせても要所要所で「はい」と相槌を打つだけだ。時には興味深そうに。時には深刻そうに、ただし「はい」とだけ。絶妙なタイミングで。

 

 メニューはシンプルだし、説明を要するようなつまみもない。会計の数字も紙に書いて手元にさっと出すだけだ。お世辞も愛想も言わない。天候の挨拶すら口にしない。ましてや彼自身がどういう人間なのか、自分語りをすることなど一切ない。けれど店を訪れる客の多くは、彼が「はい」以外の言葉を一切口にしないことに気づいていなかったと思う。身の上話をした客など、きっと「今日はバーテンさんといっぱいおしゃべりした」と思っていたのではなかろうか。言ってみれば彼の「はい」は会話が成立するほど表現力豊かで、芸術的な領域に達していたと言っていい。

 

 ラクダさん、というのが彼につけたあだ名だ。と言ってもそれは私の心の中だけのニックネームで、他の人にこのあだ名について話したことはない。命名の理由は簡単だ。バーテンダーの左胸ポケットにいつもボールペンがささっていて、そのクリップの部分に小さなラクダの飾りがついていたからだ。ラクダに容貌が似ていたわけではない。けれどもいったんラクダさんだと思うと、その物静かなたたずまいも、哲学者めいた風貌も、なんだかラクダという動物にぴったりな気がしてきたものだった。

 

 私が最もラクダさんとしゃべったのは、リーマン・ショックの後の、あのどたばたした時期だった。取引先が経営破綻し、その余波で私の小さな会社もあえなく倒産した。私は仕事を求めて一日中知人を訪ねて回り、誰にも相手されずへとへとになって帰途につき、家に帰って家人に会わせる顔がなく、ふらふらとミラージュに立ち寄った。

 

 あのころ店で飲みながら自分が何をしゃべっていたのか、不思議なほど思い出すことができない。自分の辛い境遇についてしゃべったとは思えない。惨めすぎて口にできなかったからだ。かといって馬鹿話ができる心境でもなかった。おそらく電車の中吊り広告で見た事件の話や、昔観た映画のことなど、どうでもいいことをしゃべっていたのだと思う。だから何も思い出せないのだろう。あのころ私はまさに「今日はラクダさんといっぱいしゃべった」と感じて店を後にしていた。私が何を話しても微笑みながら興味深そうに頷いて聞いてくれる、頼りになる相談相手の親友を得たような思いだった。

 

 半年ほどして仕事が見つかり、殺人的に忙しくなり、終電で帰るのがやっと、という日々が訪れ(それでも私は仕事があって働けることが嬉しかった)、自然に店から足が遠のいた。ある年末のこと、仕事納めをして電車に乗ったのが珍しく早い時間で、ふと思い立って途中下車してミラージュに向かった。ふうふう息を切らせながら五階までたどり着くと店はもうなかった。それこそまるで蜃気楼のように。一瞬呆然としたが、気を取り直してすぐさまiPhoneを取り出した。店が移転しただけかもしれないと思いついたからだ。駅名と、ミラージュという文字を入れて検索した。

 

 逮捕、国外追放、テロリスト、スパイ、工作員といった言葉と並んで、過激な活動で知られる組織の名前や、聞いたこともない部族の名前が並んでいた。目を疑いながらその一つを読むと、彼は青衣の民として知られる北アフリカの戦闘的な民族の出身で、不法入国してあの店のバーテンダーを務めていたとあった。まさか。彼は会話に応じ、すらすらと日本語でメモを書いてよこした。外国人などということは考えられない。しかし記事を読む限りどうやらそれは本当らしかった。どういう目的でどういう活動に従事していたのかは不確かだが、国際的なテロ組織とつながりがあることが判明し、入管法違反の罪名で逮捕され、強制的に出身国に移送されたというのだ。ネットではさまざまな憶測がなされていたが、どれも眉唾めいていて信じる気にはなれなかった。けれども一番信じられないのが、彼が特異な文化を持つ沙漠の民で、日本人ではなかったということだった。

 

 黙って微笑みながら「はい」と応じ、グラスをみがき、酒を注ぎ、つまみを差し出し、私たちの愚にもつかない一人語りに耳を傾けるふりをして、彼は何を感じていたのだろうか。何を企み何を実行しようとしていたのだろうか。あるいは誰かからの指示を待ってそこに潜伏していたのだろうか。私にはどうしてもそんな風には思えない。私たちの言葉に真剣に耳を傾け、やわらかくうなずきながら絶妙なタイミングで「はい」と言っていたではないか。

 

 今度こそ本当に呆然としながら階段を降りつつ私はそんなことを考えていた。今でも彼が何者だったのか私には見当もつかない。

 

 ラクダは本当に友だったのか。時折そんなことを考える。けれどそもそも彼はバーテンダーで、私は勝手に喋り散らす客でしかなかったのだ。それでもひとつだけ確かなことがある。人生の中でも最も辛かったあの時期をミラージュとミラージュのバーテンダーが支えてくれた。その事実は変わらない。ラクダは本当に友だったのか。決まっているじゃないか、と私は心の中で自分に言う。あれ以上の友を持ったことがあるか、と。

 

(「【ラクダは本当に友だったのか。】」ordered by 山口三重子-san/text by TAKASHINA, Tsunehiro a.k.a.hiro)

※注意:このエッセイはフィクションであり、 実在の人物・団体・事件・トゥアレグ族などとは一切関係ありません。

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