“水星”と“土星”の一幕
「おい、マーキュリー」
ダークマター内にて、それは突として起こった。突然話しかけられたということと、背後に立ったという気配に気がつかなかったせいで、マーキュリーは口から心臓が飛び出そうになった。「うわあ!」と大声で飛び退きつつ振り返ると、険しい表情をしたサターンが立っていた。
「……サターンですか。一体何です?」
サターンは両眼を閉じた。紫紺色の瞳が隠れたと思った瞬間、再び開かれた。
「お前に頼みがある」
いかなる時でも厳しい表情と態度を崩さない彼は、いつもと同じように人に媚びない声音で、短く言った。
「私に? ……へえ、珍しいですね。私でいいんです?」
「むしろ、いつもへらへらと締まりのない顔で笑っているお前こそが適任だ」
「なんかさらっとひどいこと言われた気がしますが、いいでしょう。で、なんです?」
こんな風に直接自分を探して直接頼み事をするなど、まず無いことだ。どういう風の吹き回しかという疑いよりも、好奇心のほうが勝った。
サターンはすぐに答えずに、また瞼を下げた。「んー」という低い唸り声のような音が、きっちり結ばれた口の隙間から漏れてくる。
普段彼は、“間”を置くことをしない。すぐにはっきり物を言う。こんな風に逡巡するとは、よっぽどのことが起きない限り考えられなかった。つまり、そのよっぽどのことが起きたということだろう。非常事態の予感がし、マーキュリーの背は自然と伸びていた。
言いにくいことを絞り出して言う時と同じく、サターンの眉間には皺が寄っていた。と、ふいに、唸りがやんだ。彼は真っ直ぐにこちらの目を射貫いてきた。
「俺に、笑顔を教えろ」
社員同士の会話が、廊下の向こうから聞こえてくる。なぜかそちらのほうが、よく耳に届いた。
「聞こえなかったのか。笑顔を教えろと言っている」
サターンの目がわずかにつり上がった。マーキュリーは口をぱくぱくとしていたが、肝心の言葉が出てこなかった。頭の中で聞いた言葉を変換するも、なかなか正解と思える単語まで行き着かない。
「えがお……。えがおって……笑顔……?」
ピッと脳内で音がし、ようやくその単語が出てきた。同時に、何を指し、何を言われたかも、理解した。
「……う、うわっはっははは!!! く、くるし、お腹、おな、いた、あっははははははは!!!」
笑顔。人が笑った顔。どんな生物でもするであろう基本的な表情。だが、サターンに限ってはそうでないと、初めて顔を合わせた時から思っていた。笑顔とは無縁で、笑顔を見せるという考えそのものにも至っていない人なのだろうと。
そんな人が今、自分自身とかけ離れた“笑顔”というものを、教えてほしいと口に出してきた。
「ひ~むりむり待って待って苦しいくる……あ失礼しました、本当にすみません」
笑いが止まらなかった。止めることなど出来ないと思っていた。その笑いは、サターンの表情を見た途端、痕跡も残さずに消え失せた。
絶対零度の空気を纏っているサターンを、両手でまあまあと牽制しながら、一歩分距離を取る。
「で、なんでまたそんな頼みを? その……くっくくく……失礼、笑顔なんて」
「引き受けるか引き受けないのかどっちだ」
「も~せっかちですねえ。一応聞いときますけど、これって業務になるんですか?」
「なるはずがないだろう。個人的な頼みだ」
「えー……。ま、そうなるか。なんで急にこんなこと言い出したか気になりますが……」
「誰がお前に言う?」
薄らいだと感じた凍てつく空気が復活し始めた。理由は言いたくないらしい。隠せるものなら隠したいのだろう。が、それは出来ない。
「はいはい言いませんよねそりゃ。けど、大体わかります。どうせあなたのことですし、社員に目つき怖いとか雰囲気恐ろしいとか言われてるの聞いたんでしょう?」
社員がそうやってひそひそ話してるところを、何度か見聞きした。サターンが急にこんなことを言い出す理由などこれが最有力候補だろうし、逆にこれ以外は思いつかない。
「……」
「そんな、人を何人も殺したことがありますみたいな目で睨まないで下さいよ~。で、逆に、いつも笑顔を絶やさない私のような人がトップだったら良かったのにとかも聞いたんじゃないんですか?」
これも実際に聞いた話だ。悪い気はしなかったが、積極的に実現してほしいとは考えない。自分が背負うには、荷が重すぎるからだ。つまるところ、面倒臭い。
「……」
「あらこれも図星ときましたか! くくくくく、よーくわかりました。よし、わかりました! お引き受け致しましょう! 笑顔レッスンのスタートです! 私も幼少の頃、師範からそれはそれは厳しいレッスンを受けたものです……。笑顔のレッスン。響きは美しくても、その実態はこの世の地獄! それを耐え抜き身につけたこの成果、今こそご覧に入れるとき!」
両腕を広げ、天に向かって上げると、ばっといういい音がした。その様子を見たサターンは、眉一つ動かさなかった。
「ご託はいい。とっとと始めろ」
「……決めさせて下さいよせっかくの機会なのに」
十字斬りで切り捨てられた心地だ。マーキュリーは大人しく、上げた腕を落とした。
「もうわかりましたよ、始めますって。じゃ、とりあえず口角を上げてみて下さい」
実は上手いこと笑顔が出来ているなら、儲けものだ。そうでないなら、どれくらいぎこちないかにもよる。自分も昔、笑顔がぎくしゃくした子だったと、マーキュリーは思い出した。その状態からここまで来たのだ。ある程度手強くても構わない、覚悟は出来ている。
「……」
なぜかサターンの表情は変わらなかった。眼差しは依然として刃物のように鋭く、口角は真っ直ぐより少し下がった状態のまま。
「あの、口角を上げて下さいと言ったんですが?」
こうです、と、マーキュリー自身も軽く口角を上げる。「はあ?」とサターンの眉がぴくりと動く。
「わからないのか。上げている。今もだ」
サターンは指さした。角の立つ目、寄った眉、かすかに下に曲がった口角のパーツがつけられた自分自身の顔を。
「……は?! はあ?! 嘘! 嘘だ!!!」
逆に無表情か厳しげな表情でなければ、この顔はなんだというのだ。目の前に立つ人間が今浮かべている表情を、どう笑顔と形容すればいいのだ。
「何が嘘だ。つくづく失礼な言動をとる奴だな」
それとも笑顔に見えていないのは自分だけで、他の人から見たら何の問題も無く顔が笑っているように見えているのだろうか。
とまで考えが至った瞬間、サターンの顔がわずかに変化した。目や眉、口の動きなどだ。位置を絞って、よく見ててもわかるかわからないかくらいの変化だった。本人がさっきの表情を笑顔だというなら、今の表情は真顔に戻ったのだろうか。
「くっ、これは強敵の予感……」
マーキュリーは訝しむサターンを引っ張り、会議室に連れて行った。
この会議室はセプテット・スターのみが使うことを許されている特別会議室であり、許可無しに一般社員が入ることは禁じられている。要するに、この部屋には他に誰もいない。
「何をするつもりだ。こんなところまで連れてきて」
「あなたはまず顔の筋肉を全部ほぐすところからです! それでどうにか愛想笑い程度はいけるはず!!!」
完璧な笑顔を見せるまでの過程というのも存在する。マーキュリーも、マーキュリーに笑顔を教えた先生も、その過程を超えた末に、完璧と評される笑顔を習得した。
自分なりに、その過程を得る様子を、他の社員やセプテット・スターの面々に見られたくないだろうという気遣いからだった。それを察したのか、サターンは不服げだったが、黙った。
「いいですか! まず頬を膨らませて…………」
少々の時間が経過した。他に誰もいない会議室で、マーキュリーのぜえぜえという息切れの音のみが反響していた。
「はあ、はあ……。ほ、ほぐすだけでここまで体力と精神力消費するとは思ってもみませんでした……」
心が折れる寸前までいった。わざとではないのかと疑わずにはいられなかった。
「え、これ本当に業務にならないんですか? 給料出ないとやってられないですぶっちゃけ」
「だから出ないと言っている」
「顔だけじゃなく頭も固いんですね全く。まあ知ってましたけど。はい、ではやってみましょう! こうです! 私の顔を真似して、さあ!」
まず自分が笑顔を作り、お手本を見せる。マーキュリーの顔を、観察するようにじいっと眺めたサターンは、一旦頭をもたげ、そして上げた。
「…………」
全身の細胞の隙間に、氷が駆け抜けていった。
「……ははは、まじかよ……」
片手で顔を覆う。おかしくないはずなのにおかしさがこみ上げてきてしょうがない。なのに実際に吐き出される笑い声には力がこもっていない。
「……サターン、よく聞いて下さい。あなたは、絶対に笑ってはいけない人間です」
「どういう意味だ」
予想の斜め上どころではない。“予想外”というものの範囲を突き抜けていった。だからこそ、お世辞など全て抜きにして、伝えなくてはならない。一緒に働く立場としての義務だ。
「はっきり言います。あなたのその笑顔見たら、軒並み人、死にます。悪い意味で。とっっっても悪い意味で」
サターンの瞳孔が開かれる。巧妙に隠しているようだが、わかる。紫の瞳の中に、動揺の色が混じっている。
「でもある意味良かったじゃないですか! 宇宙全体で見ても希少な存在ですよ、笑ってはいけない人間って! 凄い! さすが現ダークマターを統べる者! いや~私にはとても真似できない! 素晴らしい!」
拍手しようとしていた手が、空中で停止した。
「冗談ですから本当にその目はやめて下さい。さっきの笑顔よりよっぽど恐ろしい」
サターンの険のある目は、普段でも充分迫力があるが、それはいつも、全力時の何%かにとどめられている。本気で睨んだときの目は、通常の比ではない。それを知っている訳は、100%の時を見ているからだ。
全てのきっかけとなった、ハルが引き起こした、あの出来事の時。その時のサターンの顔を間近で見てしまった人達は、自分も含め、あまりにも哀れすぎる。
サターンの目つきが少し鋭さが減った。視線を下げ、はあ、と小さく息が吐かれる。椅子に座り、額に手をやったまま、動かなくなる。
「……上が怖がられているようでは、組織全体の士気も下がる。では、どうすればいいというんだ」
どうしたのか尋ねようとしたとき、呟かれるように、にしてははっきりとした、強く堅い心が見て取れる声が聞こえてきた。
「あ~なるほど。気にしてたのそっちか。てっきり人気のほうかと」
聞き返すように、サターンが視線を上げた。そんな彼に、マーキュリーは気づかぬうちに軽く笑っていた。
「大丈夫じゃないですか? あなたは仕事ができる、頭の回転も行動も決断も早くていつも適切、統率力も指揮能力も高い。他にも、上に立つ者として必要な素質を、ホラーな笑顔を覗いて軒並み高水準で所持している。つまりまあ、カリスマ性があるってことです。気にする必要ないですって」
指を折って数えながら羅列していく。聞いていたサターンは、顔を伏せた。
「……そうか」
どう感じたかは本人のみぞ知る。が、下らないとか言ってこない辺り、少なくとも聞きたくない台詞ではなかったようだ。マーキュリーは、少し安堵した。
「まあそれでも気にするんでしたら、好きなことをするのが一番ですねえ。楽しいと思うことしてたら、勝手に笑えますよ。趣味とか」
「そんな時間はない」
ですよねえ、と頷く。サターンの趣味とはなんだ。言ってみただけで、この男に趣味があるとは想像もつかなかった。そのサターンは、椅子から立ち上がった。
「時間と手間を取らせてしまい、すまなかった。……あと、礼を言う」
「はいはい、気にしないで下さい」
素直に礼を告げられると、嬉しいよりも前に不気味だ。払いのけるように、片手をゆるゆると上下に振る。
「っていうかそこで素直にありがとうって言えないのもあなたらしいですねえ。あ、でも知ってますか? そういう素直じゃないところ、実は影で結構人気あるんですよ? なんか逆に守りたくなるとかって言っているの、よく耳に入ってきますもん」
わざわざ怖いという意見のみ気にしてこんなことを頼んでくる辺り、もう一つの噂については何も思っていないようだ。
決して鈍感ではないので気づいてるはずだが、不要と判断して、頭から捨てているのだろう。実は、目つきが怖いけど顔立ちが整ってて格好いいとか、硬派なところが素敵とか言われていることに。
「心底下らないな。不要な情報を持ってくるな」
そう言われているときのことを思い出して吹き出しかけた時、察したのか、サターンはばっさりと言い放った。
「俺は、誰かに守られることをよしとするような、低い矜持など持っていない。子供に守られているような、どこかのロボットと違ってな」
平時の顔は鉄仮面で、変わるときといったら怒りや苛立ちといったときのみ。そのサターンは、ハルのことを話すとき、殊更、目つきが険しくなる。持っている雰囲気そのものが鋭くなる。
「はいはい、むきにならないで下さいよ。別に私が言ったわけじゃありませんのに、全く。っていうか別に良いじゃないですか、守られても。それと弱いはイコールではありませんよ~?」
「どうだか、な。それは奴が、いい証明を見せてくれるだろう」
サターンが奴と呼ぶ、頭部がテレビの形をしたロボット。それはまだ捕まっていない。理由は、当人の性能による力と、守られるという状況に、身を置いているからかもしれない。
そう言おうとしたが、結局マーキュリーは、言わないでおくことを決めた。
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