第14話 ばれそうになる隠し事色々
すれ違う直前に立ち止まって呼びかけるように声をかけた。
彼女も陽平の存在に気付いたようで、一瞬目が合ったとたんに、やはり同じように立ち止まった。しかし、友だちと一緒だったからだろうか、何もなかったかのように再び歩き出した。陽平はその後姿をただ見送っていただけだったが、もう一度彼女の名前を呼んだ。
「寧々ちゃん。」
すると彼女は友人たちに気付かれないように、腕を背中に回して「バイバイ」の合図をすると、そのまま真っ直ぐに歩いていった。
陽平にもわかっている。寧々が本名でないことも、そのときの客とあまり会いたくないことも。特に友人たちの前では尚更のことだろう。
それでも女々しいことを自覚している陽平は、少しばかりの距離を置いて彼女たちのあとをついていく。その姿はまるでストーカーのようだったかもしれない。
ある店に到着すると、三人組は順繰りにその店に入って行った。陽平がどうしようかと迷っていると、店から一人寧々が出てきた。
「ヨウちゃん。」
「寧々ちゃん。」
やや困った感じの表情を見せた寧々だったが、陽平の腕を引き、裏路地まで引っ張って行った。
「心配してた?」
「もちろん。急にいなくなったから、どうしたんかと思てた。今日ももしかしたらおるかもしれんと思て『ロンリーナイト』に行ったし。」
「そっちはもう契約が終わったって言うたでしょ。もう行かへんから。それに、『ナイトドール』の方は黙って辞めたから、あっちもおしまい。ウチも卒業に向けて就活とかしなあかんし。連絡せんかったのはゴメンやけど、わかってな。」
「うん。わかってるつもり。でも最後にもう一度会いたかった。ちゃんと見送りたいって言うてたやろ。それができひんかったから。そや、そのときに渡そと思てたお土産、今日会えたら渡すつもりやったから持ってんねん。」
陽平はカバンの中から小袋を取り出し、寧々に渡した。
「うふふ。ありがとう。ヨウちゃんらしいな。」
「会えてよかった。もう会えんかな。」
「うん。ヨウちゃんとの時間は楽しかった。お客の中ではヨウちゃんが一番やったで。せやけど、もうウチのことは忘れてな。」
「なんかあったらいつでも連絡しておいで。」
「うん。ありがとう。」
そういい終わると、寧々はくるっと背を向けて先ほどの店に入っていった。陽平はよほど店の中まで追っかけようかと思ったが、さすがにそれは避けるべきだった。本物のストーカーではないのだから。
しかし、心の奥底に仕舞い込んでいた寧々への想いがまたぞろ引き出されていることに気付いた。わかってはいるものの、この抑え切れない衝動はなんだろう。
突然の再会に嬉しさ半分、淋しさ半分の気持ちになった陽平は、いつの間にか『かば屋』のカウンターに座っていた。またぞろ薄暗い影を背中にしょって。割といつもの光景だなと思ったマスターは、そっと一人の世界を許していた。
そこへ入って来たのが秀哉である。
「おお、愛しの陽平さんがおらっしゃるやないか。久しぶりやな。」
「こないだ会うたやないか。」
「もう二週間ぐらいは経つやろ。どや、その後。」
「ああ、何も変わりないで。そっちは話すすんでんねやろ?」
秀哉は空いていた陽平の隣の席にどっかと座り、マスターにビールを注文した。
「今日はな、デートの帰りやねん。来週には鈴ちゃんの家にあいさつに行くことになったから、その打合せも兼ねてな。」
「よかったやないか。オレからの情報は何もないし、そろそろ失礼するわ。」
「そう言うな。ところで最近『ナイトドール』には行ったか?先月ごろ、ここで落ち込んどったらしいやんか。いつものあれやろ?今日はな、マスターからヨウちゃんが一人で来てるって電話もろたから様子見に来たんや。」
「マスターもお節介やな。」
「みんな心配してるんやないか。また例のヤツやろ?」
「ちょっと違うけど。」
「ほななんやねん。」
陽平は手元のグラスを空にすると、お代わりを注文した。
「最後に行ったのは先月や。可愛い子がおってん。でも学生やったからそろそろ就活あるし、近いうちに店も辞めるって聞いてたから、ちゃんと送り出してあげようと思ってたんやけど、急に辞めはってな。なんや虚しなって。でもそれだけやで。」
「ふーん。確かに今までとは違うかもな。ほんで、次の女の子は?」
「いや、もうあそこはオレも卒業や。鈴ちゃんに紹介してもらうまで待っとくわ。」
「そうか。そんなに心配せんでもよさそうやな。」
「ああ、しばらくは大丈夫やで。ちょっと大人しいしとくから。ヒデちゃん、自分のことだけ考えとき。」
陽平は友人として店までかけつけてくれた秀哉の気持ちが嬉しかった。それでも今の混雑した自分の気持ちと状況については、まだ話す気にはなれなかった。特に寧々と会ってしまったすぐ後では。
久しぶりの秀哉との飲み会を、静かに『かば屋』で解散した次の日。陽平は琴音とのランチタイムをいつもの場所で待ちわびていた。クルマを持たない陽平は、駅での待ち合わせがデフォルトなのである。
「おはよっ!」
元気に現れる琴音。
「で?今日はどこのラーメン屋に行きたいん?」
「どうしてわかるの?」
「しばらくあのパターンが続くんかなあと思って。」
「行ったことないんだけど、友達に聞いたことがあって。三条の近くにある小さな食堂の中華そばがたまらないらしいの。」
「なんだ、だったら三条の待ち合わせでもよかったのに。」
陽平は琴音に向かって手を差し伸べた。するとそれに応えるように陽平の手を受け入れる。二人は手をつないで最近往来が始まったシャトルバスへと乗り込んだ。そこから七条までバスに乗り、あとは電車で五分ほどすると三条の駅に到着する。
地下の改札から地上に上がると、最近整備されたターミナルに出てくる。目的の店はその向い側にあるようだ。
少し歩くと古ぼけた看板が見えてきた。まさに昭和の食堂と言わんばかりの表構えである。少し剥げた看板が、いかにも昭和の激動の時代を生き抜いてきた象徴っぽい。
中に入ると古ぼけたパイプ製の椅子に木製のテーブル。壁に貼り付けてあるメニューもそうとう色褪せていた。
二人がテーブルに座ると、年老いた女将が水を運んでくる。琴音の注文は「特製中華そば」に決まっている。陽平は他にカツ丼を追加した。
運ばれてきた中華そばに琴音は大喜び。ノスタルジー感満載の中華そばとカツ丼に舌鼓を打った二人は満足した顔で店を出た。
「さあ、お腹も膨れたし、デートらしく川沿いを散歩しない?」
京阪沿線沿いに流れている鴨川では、暑さが身に染みる季節とはいえ、川面から流れてくるややひんやりとした心地よい風が距離の近いカップル熱の緩衝材となっている。手をつないでいるだけとはいえ、スキンシップとしては密着状態が続いているのである。ついで、川面から流れてくる風が琴音の髪を揺らすと同時に彼女の匂いも運んでいる。
「急やけど、ドライブ行かへん?」
「クルマで来てるの?」
「レンタカー借りるし。」
どうやら琴音も陽平の目的に察しがついているようだ。祇園四条駅まで到達すると、近くにレンタルショップがあり、都合よくコンパクトカーが客待ちをしているところだった。
二人はクルマに乗り込むと、初めてのドライブと洒落こむ事になる。
「どこに行くの?」
「そうやな、とりあえず琵琶湖でも見に行こか。」
京都から琵琶湖までは混んでなければ最短で約二十分。あっという間に琵琶湖最南端がみえてくる。折角借りたのだからと、琵琶湖大橋を目指して湖西道路を北上していく。おおよそ二時間ばかりのコースだ。途中で湖岸べりを歩いたり、道の駅に寄ったり、それなりのドライブデートが楽しめた。そんな折、琴音は、言葉がやや遠慮がちなっている陽平の手を取って、そっと耳打ちをする。
「そろそろ行きましょ。いいわよ。わたしもそのつもりで来てるから。」
何か腹の底を見透かされたようで、バツが悪いのはこの上ないが、そこまで覚悟ができているなら話は早い。早速エンジンが火を噴いた。
復路は北陸自動車道を南下してくる。そのまま京都南で降りれば、その辺り一帯がホテル街である。さすがに週末は休憩利用のカップルがそぞろで、空室ランプを探すのも一苦労であったが、頃合のよさそうなホテルがうまく見つかった。
クルマをパークし、手をつないで部屋へ入る。空調が行き届いており、冷たい風が二人を一瞬クールダウンしてくれる。
「一週間って長いな。めっちゃ待ち遠しかったで。」
「私が?それとも体が?」
「両方。」
陽平はそのままベッドに押し倒し、強烈な口づけをお見舞いする。それを待っていたかのように応戦する琴音もまた、この時を待っていたのかもしれない。
「でも、今日はシャワーを先にね、お願い。」
陽平は琴音の体をそっと離し、琴音の服のボタンに手をかける。
「大丈夫よ、自分で脱ぐわ。ヨウちゃんも自分でね。」
割と素っ気無いやり取りだが、自分で脱ぐほうが効率的でしかも早い。ややあっけらかんとした表情の陽平の方が遅れを取る始末。
そんな陽平の手を取ってシャワールームに入り、二人で洗いっこ。されどそこからすでに二人のプレイは始まっているのである。
飛沫を浴びながら皮膚と皮膚との触れ合う刺激を楽しみ、生まれたままの体で互いの秘部を慰めあう。一週間のインターバルをもらっている陽平は、早々に一回戦の勝負を決め、すぐさま琴音のリクエストに応えるように二回戦、三回戦への連投体制に入る。
今日は安全日ではないらしく、リスクの高い処置は避けられたが、延々二時間に亘る密着ゲームは無事に終了した。
精魂尽きはてた陽平は、息を荒げながら冷蔵庫から取り出したドリンクを一気に飲み干し、もう一本を琴音に渡す。
「なんだかこの間と少し違ったわね。なんだかわからないけど。」
「そうかな。琴ちゃんの体に溺れてるだけのような気がするけど。」
「うふふ。」
さては満足したのだろう。琴音の笑顔はいつになく満面だった。
しかし、琴音を抱きながらも昨日会った寧々のことが頭をよぎったことは事実である。そのことを見透かされたような気がして、少し申し訳ない気持ちになった。
ホテルを出た二人のクルマは京都市内を目指して駆けていく。
クルマを返したあとは、次なる大人の時間となる。
陽平は特に何の考えもなく『かば屋』へ足を運んだ。いつも通りのつもりだったのだが、店に入るなりマスターに声をかけられて、ふと我に帰る。
「よう、いらっしゃい。今日はデートかい?」
それを聞いて安易にこの店を選んだことに、今さらながら後悔した。
「ああ、まだヒデちゃんには内緒やねんけど。」
「ほう。ヒデちゃんには内緒やねんな。わかった。」
マスターも心憎い配慮を忘れない。
「常連さんなのね。」
「うん割とね。」
店の隅っこのテーブルで居酒屋ディナーを楽しんだ二人だったが、その二人をそっとみつめる二つの目があったことは、後日陽平の知るところになるのである。
ほろ酔い加減で店を出ると、京都駅まで並んで歩く。チカチカと光る京都タワーの赤い灯りが情緒的な夜の風景を彩っていた。
琴音は近鉄で、陽平は地下鉄でそれぞれの帰路につく。
陽平は「明日も会える?」って聞いたのだが、朝から学校の掃除があるらしく、それに駆り出されるらしい。仕方なく、また来週の土曜日に会う約束をして、改札口まで見送った。そのとき琴音が言ったのは、
「次はヨウちゃんの部屋でね。」
大変だ。帰ったらアパートの大掃除だ。そう思いながらも、電車の中ではニヤついた顔のままであったろう。
そして月曜日がやってくる。
仕事そのものは普段と変わりなかった。秋仕様のパンフレットやチラシの校正がほとんどだった。
思いもよらぬ衝動のときは昼休みにやってきた。
「尾関さん、今日のランチは会議室でね。」
梨香と瑞穂が両手に弁当箱を抱えて陽平の前に立ちふさがっていた。
「ああ、今日だったの?例のお弁当合戦。」
「そうよ。」
陽平の背後から加藤女史が現れて、彼女の手にも弁当箱が抱えられていた。
「ええ?加藤さんも参戦するんですか?」
これには梨香も瑞穂も想定外だったようで、二人とも驚きの表情を隠せない。
それでも四人揃って会議室を占領し、まずは梨香の弁当から開いていく。
中身はハンバーグに肉じゃがにウインナー。割とお子様向けのおかずが並んでいる。
続いて瑞穂の弁当を開くと、中にはエビフライにグラタン、そしてオニオンリングが入っていた。まるで洋風ランチを想像させる出来栄えだ。
陽平はそれぞれを少しずつ口に運び、「うん、どっちも美味しいよ」と甲乙つけがたき返事をしていた。
最後に加藤女史の弁当を開くと、そこにはこんがり揚がった唐揚とキラキラ光った人参と蓮根の金平、つやのあるオクラのおひたしにケチャップ入りの玉子焼きが入っていた。
「おお、さすが年の功。できばえは一番ですな。」
コツンと陽平の頭を突いた加藤女史は、梨香と瑞穂にアドバイスを送る。
「ねえ、二人とも尾関クンの食事スタイルを見てきたんでしょ。それにしては茶色いものばかりね。」
「だって、尾関さんが食べたものこんな感じでしたよ。」
「確かに佐々木さんのはお昼のランチっぽいし、中浜さんのはビールのおつまみにぴったりね。でもね、私はこの一週間、尾関クンが何を食べたのか知らないけど、好みだけだったらあなたたちより確実な情報源を調査したわよ。」
「どこですか?」
「尾関クンがよく行く居酒屋、『かば屋』よ。土曜日の夕方に行って来たわ。」
一瞬、陽平の体が硬直する。
「尾関さんどうかしましたか?」
緊張感漂う陽平の様子に気付いた瑞穂が問いかけたが、
「別に何も・・・。さすが情報を入手しただけあって、加藤さんの弁当がやっぱ一番美味しいかな。」
加藤女史はそれ以上何も言わず、ただ陽平をじっと見ていた。
「加藤さんのはともかくとして、ウチと瑞穂のとではどっちが美味しかったですか?」
「うーん。どっちも美味しいけど、瑞穂ちゃんのおかずは冷凍食品っぽいな?」
「えへ、ばれた。」
「その分、梨香ちゃんのは不揃いのハンバーグといい、ちょっと甘すぎる肉じゃがといい、足の太さがバラバラのタコウインナーといい、苦労したやろなと思わせる。」
「ううう、それって褒めてます?」
「まあ今回は梨香の勝ちでええわ。次は負けへんで。早速今夜にでも『かば屋』に取材に行って来よ。」
「ええ?まだ続くん?」
「瑞穂ったら負けたまんまで悔しいから。」
「そやで。もう一回やるで。また来週の月曜日な。」
そういい終わると瑞穂は梨香の弁当を、梨香は瑞穂の弁当を食べ始めた。加藤女史は自分で作った弁当を二人のやり取りの合間に食べてしまっていたので、結局陽平の分がなくなってしまい、コンビニでサンドイッチを買ってくる羽目になったのである。
サンドイッチを食べ終わった後、加藤女史から誰もいなくなった会議室に呼び出された。
「ほんで、『かば屋』で一緒におったあの綺麗な女性は誰?楽しそうやったなあ。」
随分と意地悪そうな顔をしている。
「いや、し、知り合いの親戚の子ですねん。たまたまコッチに出張やったから、晩飯だけ一緒に食いましてん。」
「へえ、そんな子がなんで友だちには内緒なん?」
「げっ、そんな話まで聞いてたんですか。」
「うん。キミのすぐ後ろの席やったからなあ。」
ああ、あの時のマスターのセリフ。
「ほう。ヒデちゃんには内緒やねんな。」
その意味がようやくわかった。マスターは知っていたのだ。加藤女史がすぐ後ろにいることを。そのことを黙っていたのもマスターの悪戯だったのだろうか。
「あああ、まだ知り合って間がないんです。初デートやったんです。まだ何にもしてませんし、また会えるかどうかもわかりませんし・・・・・。」
答えがしどろもどろになっているのが自分でもわかる。
「あの子らには黙っててあげる。あんじょうモノにしいや。健闘を祈る。」
加藤女史は深くは追求せず、そのまま背を向けて自分のデスクに座った。
心臓が止まりそうだった。
その週の土曜日。
約束は京都駅、いつものところで十時の待ち合わせ。どうやら陽平のアパートで昼ご飯を作るというのが彼女のプランらしい。
この日のために大わらわで部屋を片付けた陽平は、今も頭の中で片付け損ねたものがないか思い出している。陽平の部屋を訪れた女性など久しくいない。前に付き合っていた子は結局一度もこの部屋には来なかった。
陽平のアパートは地下鉄の北山駅近くにあった。そこから徒歩で五分ほど歩くのである。
ここまでくると知り合いもいないので、手をつないで歩いても全く人目が気にならない。スーパーに立ち寄り、買い物を済ませた後、ドアを開けて琴音を引き入れることに成功すると、すばやく彼女の体を抱きしめて唇を奪う。その瞬間に彼女の体温がじわじわと伝わってくるのがわかる。
「あとでね。」
陽平の体をゆっくりと離して、早速台所を物色する。
「何を作ってくれるんかな?」
「ナポリタンよ。但し名古屋のね。」
名古屋メシは最近メディアでも多く取り上げられており、中でもあんかけスパというのはテレビのおかげで一躍有名になった。
手際よく料理を作る傍らで、それを邪魔するかのように擦り寄っていく陽平。そのたびに優しい叱咤を送る琴音。その様子はまるで新婚夫婦のようだ。作り慣れているのか、三十分足らずで仕上げた料理は美味しく二人の腹の中に収まった。
食事が終わると普通の恋人同士なら誰もが行うイチャイチャタイムが始まる。キスの味もケチャップ味だったかもしれない。
またもや一週間の禁欲を強いられていた陽平は、誘蛾灯に吸い寄せられていく虫のように琴音の体に吸い付いていく。琴音もそれを待っていたかのように受け入れる。そして蜜のような甘い饗宴が開かれるのである。
一通りの演目が終わっても二回戦への挑戦は踏みとどまった。一日はまだ長いのである。しかも琴音が持ってきたカバンの大きさから察すると、今日は泊まっていくつもりなのだろう。料理をしている時には、すでに部屋着に着替えていたのである。
二人はまったりとした時間を過ごしていた。気だるい脱力感を味わいながら。エアコンが効いている部屋の中では、生まれたままの姿でいる二人には軽いシーツが必要だった。その中で互いの体温と肌の刺激を感じながら抱きあっている。
やがてウトウトした眠気が陽平を襲い、琴音の胸の中で静かに黄泉の彼方へ落ちて行った。自分の胸の中で静かな寝息を立てる陽平をマリア様のような気持ちを持って見つめていた琴音であったが、生理現象だけは無視できなかった。陽平の頭をそっと枕の上に置くと、すり抜けるようにベッドを出た。
不浄を済ませた琴音は、来ていたシャツを羽織り、部屋の中の探索を始めた。久しぶりに見る独身男性の部屋は、普段から好奇心の旺盛な琴音の興味を大いにくすぐった。陽平も気をつけたもので、見せたくない本やビデオなどはすでに屋根裏に押し込んであったのだが、不意に琴音の目に留まったものがあった。それだけならなんてことないものなのだが、そこにあることが不思議なシロモノであった。
見つけた場所は本棚である。仕事関係の本やサッカーの本などが並んでいる中に、唯一不可思議なものがあったのである。
それはレトルトカレーだった。「チョコレートカレー」と書かれてある箱が、他の本と一緒に肩を並べていたのである。不思議に思った琴音はそれを取り出すと、まだ中身が入っていることを確認した。
「なんだろうこれ。初めて見た。」
そのときは単にそう思っていただけなのだが。
しばらくすると傍らに琴音がいないことに気付いた陽平が起きてきた。そして、シャツ一枚だけを羽織り、本棚を眺めている琴音を発見した。そして琴音が手にしているものが何かわかったとき、「あっ」という声を出してしまった。
「何これ?」
琴音としては普通に疑問を投げかけただけだったのだが、後ろめたい因縁のある陽平にとっては不祥の状況に思えたのである。あまりなうろたえ方に不信感を抱いた琴音は、こんどはその意志を持って問いただした。
「何これ?」
「カレーやん。面白そうやから買ってみた。」
そう、それは寧々とお揃いで買ったカレーなのである。二人して味を評価しようと言っていたにもかかわらず、まだ食べるに至っていなかったカレーである。
「何か思惑のあるカレーなの?」
「別になんもないよ。珍しいカレーやから飾ってただけ。」
言ってることに不思議はないのだが、説明している声がしどろもどろな感じがする。
「ねえヨウちゃん。昔の女性のことなんてなんともないわ。だから思い出があるならあるで、それでいいのよ。」
「いや、ホンマになんでもないねん。一人で食べよと思てたのが見つかったから、ちょっと狼狽してしもただけやし。」
琴音はそれ以上の追及を諦めた。今はそれをする時期ではないと判断したのである。
「それはこっちにおいといて、ちょっと外へ出よ。夜の買い物しに行こ。」
「うん。」
納得はしなかったが、妥協はした。琴音も大人なのである。
琴音は夜の食事も作るつもりだった。泊まるつもりで来ているのだからさもありなん。
「何が食べたい?カレーじゃないものにしてね。」
「カレーはこないだご馳走になったからな。そんなら今日は唐揚にしてもらおかな。肉じゃがでもエエかな。」
「じゃあ両方ね。大丈夫よ。わたし、料理は得意なんだから。」
材料は鶏肉と牛肉とジャガイモと人参、あとは玉ねぎと糸こんにゃくを仕入れたら準備は万端である。ビールは冷蔵庫にたくさん冷えたのがあるので、ここでは買わない。買い物をすることで琴音の気持ちも少しはやわらいだ。やっぱり女の子には笑顔が一番お似合いだ。陽平は琴音の手をしっかりと握り締め、現在進行形の幸せをかみ締めていた。
得意というだけあって、琴音の料理は抜群だった。アルコールも入り、まさに若夫婦の夜の宴といった風景だった。
都会の夜は明かりが多くて、晴れていても夜空に見える星の数は少ない。それでも大きな月が出ているときは、白く輝いて京都タワーの赤い灯りと絶妙なコントラストを描いてくれる。そんな風景が陽平のリビングから垣間見えるのである。
女性はみんなロマンチストだ。そんな風景を見ながら陽平にもたれかかる琴音。昼間の不信感などどこかに吹き飛んでいた。
やがて最終電車の時刻が迫るころ、琴音は部屋の電気を消した。そして一枚一枚服を脱いでゆき、一糸まとわぬ姿となると、月明かりだけが琴音の姿を映し出す。
「あなたが好き。」
そして全てを委ねるように陽平に体を預けた。
陽平は琴音の肩をそっと抱いて、耳元でささやいた。
「ボクも好きや。今日は来てくれてありがとう。」
ぎゅっと琴音を抱きしめて唇を重ねた。夜の宴はここから始まるのであった。
翌朝、陽平はシャワーの音で目覚めた。
琴音が使っているのだろう。自分は寝ぼけまなこでキッチンに向った。ポットに湯を沸かし、トーストを二枚焼き始め、フライパンに玉子を四つ落とした。ボウルには水で晒したレタスをちぎり入れ、ミニトマトのヘタをとってちりばめた。
テーブルに皿を並べ終わる頃、琴音がシャワールームから出で来た。
「おはよう。もしかしていいタイミングで出てきた?」
「ああ、ベストやな。コーヒーと紅茶とどっちがお好み?」
「朝は紅茶の方がいいかも。」
「ティーバッグしかないけどな。」
二人の会話もすでに他人同士のものではない。
「今日はどこに行きたい?」
「週末しか会えないのよ。二人でゆっくりしてたいわ。」
「昼まではゆっくりしよ。ほんで近所に美味しいお好み焼きの店あるから、ランチはそこな。ほんで食べ終わったら京都タワー行こ。上まで行ったことある?」
「ないわ。」
「ほな決まりね。」
京都の朝はすでに三十度近くまで上がっている。朝からエアコンをフル回転させなければ、とてもじゃないけど、くっついてなんかいられない。それでも今の二人なら、汗をかきながらでも互いの肌と肌を確認しあうことであろう。
まだ若い陽平の肉体は、昨夜の激しい宴から数時間しか経過していないにもかかわらず、新たな刺激を求めていた。しっとりとした粘着度の高い琴音の肌は、猛獣と化した陽平にとっては格好の獲物となっていた。
今の陽平は琴音の体に溺れている。虜になっていると言ってもよかった。数年来、風俗以外で異性の体を嗜めなかった陽平にとっては、まさに溺れるべくして溺れているのである。
しかし、二人の初夜以降、最低限の礼儀だけは忘れなかった。しかもそれが後々功を奏するのである。
明るいステージでの演舞が終わった二人は、外出の用意をして暑熱極まりない街路へと出て行く。目的は陽平行きつけのお好み焼き屋である。
「いらっしゃい。お二人さんこっちね。」
顔なじみの女将がカウンター席を指差した。足早におしぼりと水を持ってくると、親しげに陽平に話しかける。
「こちら、ヨウちゃんのいい人?」
「うん。まあね。琴音さんっていうねん。よろしくね。」
「琴音です。」
「やっとヨウちゃんにも春がきたんか。ほんなら、お祝いせな。今日は半額でエエで。」
「なんや、お祝いって言うといて半額かいな。ただにしときいな。」
「もちろん彼女の分はタダやで。今からせえたい世話になるんやからな。」
「おばちゃんがやのうて、ボクがやろ。」
「あんたが世話になるんやったら、その分ウチの世話すんのが楽になるからやんか。」
「うふふ。まるで夫婦万才を見てるみたい。面白いのね。」
琴音はこの関西人同士のやり取りが面白くてたまらないのである。
「琴ちゃんの分、タダやって。一番高いの食べたり。」
「じゃあわたしはミックス玉。」
「ボクのんは豚モダンで。ビールは瓶一本でエエで。」
「あんた聞いたか、ボクやて。可愛い彼女がおったらちょっと上品になるんかな。」
他の客も巻き込んで、店の中は賑やかこの上ない雰囲気だった。
やがて熱々の円盤が目の前に運ばれてくる。関西人はコテで食べるというが、別に決まりがあるわけではない。小分けして皿に移して食べればよいのだ。一部シェアできれば、お互いの味も交換できるのである。そんな関西の味を十分に楽しんだ琴音は満足気だった。
「ごちそうさまでした。」
琴音が女将にあいさつすると。
「あんじょう、よろしゅうたのんます。また来ておくれやす。」
女将の元気な声が返ってくる。
冷たいビールと熱々のお好み焼き。日曜の昼間に味わう最高のランチだった。
食べ終わってから一時間後、二人の姿はすでに京都駅にあった。
目的は京都のシンボルともいえるあのタワーの展望台に上ること。琴音は初めてだと言うが、陽平でもまだ三回目ぐらいだろうか。
一階の売場で展望台へのチケットを購入し、ビルの屋上まではエレベータで上り、そこから先は専用のエレベータに乗るシステムである。東京タワーやハルカスなどと比べると、小さい建物なのかもしれないが、この辺では最も高い建造物の一つである。
展望台のフロアへ上がると、広い空間が目の前に現れ、窓の外には京都市内を一望できるパノラマが展開されている。
二人は備え付けの双眼鏡から、さらに遠くの景色を手元に引き寄せた。
「あっちにハルカスが見える。コッチには大阪城が見えるらしいけど、今日は曇ってるから見えんな。」
「ほんとね。でもあれが大阪城じゃない?」
などと楽しそうな会話が弾む。琴音はスマホを取り出して記念撮影。果たして背景の景色まで写ったかどうかは疑問だが。
一通りぐるっと一回りすると、東西南北の景色が堪能でき、五山の送り火の山々や京都御苑、三十三間堂や本願寺などが一望できる。陽平も琴音もさしずめ神社仏閣にさほどの思いはないが、鳥瞰図のように見渡せる景色には満足したようだ。
「お茶しにいこか。この下にあったやろ。」
タワーの根元に当たるところにスカイラウンジがあり、昼はカフェ、夜はバーとして営業している。周囲にあるビルの屋上よりも少し高い位置にあるので、展望台ほどとはいかないが、それなりの景色は楽しめる見晴らしである。
「なんやったら晩御飯もここで食べよか。」
「いいわよ。それまでは何をして過ごす?」
「ちょっと買いたいもんあるからつきあってくれる?」
ビルの地下には家電量販店があり、陽平は新しい掃除機が欲しかった。
「これから琴ちゃんが来てくれるようになるんやったら、本格的に掃除機を買っとかないかんなと思って。」
「それって、私に掃除させようとしてる?」
「ま、まさか。自分でするがな。」
展望台で興奮した気持ちが安らぐ頃、ちょうどコーヒーカップも空になる。慌てる必要もないが、長居する必要もない。早速陽平の新しい掃除機を探しに行くことになった。買い求めるものが決まっているのだから勝負は早い。それでも結局のところ、琴音が掃除することもあるかもしれない。などという理由で、琴音が使いやすい割とコンパクトなコードレス掃除機に決まった。
さて、どこで夕食を摂るかということになるのだが、このビルの屋上では、この時期ビヤガーデンが開催されている。陽平はそれを提案すると、琴音は一も二にもなくその案を受け入れる。
やや邪魔っけな荷物を持って再び屋上へと昇っていく。すでにオープンの時間は過ぎており、軽やかなBGMが適度な音量で流れていた。なにげに確保した席がステージの近くだったことは気付いていなかったのだが、展望台でもカフェでも窓際だったことから、すでに京都の傍観については意識が薄れていたからに違いない。
二人揃って一杯目のジョッキが空になった頃、急にステージでのショウが始まった。まずはフラダンスのチームが南国をイメージさせた。次の演目はマジックショウだった。ステージに近いテーブルだったので間近で堪能できた。だんだん楽しくなってくる。その次はピアノソロの演奏だった。少し照明を落としてムードを演出していた。演奏が終わると同時にピアノが舞台袖に引き下がると、次に陽平には見覚えのある装置が登場してきた。
「これって・・・。」
そうつぶやきながらステージを眺めていると、BGMとともに踊り子が数人出てきて、華麗なステップを刻みだす。中央にそそり立っているのは二本のポールだった。そう、ポールダンスだ。思わず目をみはる陽平。その異様な集中力に違和感を持つ琴音。陽平はもちろんのことながら寧々の姿を探した。
ポールに絡みつくダンサーは全部で五人いた。かわるがわる身を翻しながらポールを上り下りしている。ずっと正面を向いているわけではないし、かなりエキゾチックな化粧を施しているため、中々顔が認識できない。それでも食い入るように彼女たちの化粧の下の顔を必死で探ろうとしていた陽平だったが、彼女たちの中に寧々の面影を見出すことはできなかった。
「どうしたの?またこの間の知り合いがいるの?」
「いや、いるかなと思ったけどいなかった。」
陽平の返事はさも残念そうな口ぶりだった。琴音はそれが気になった。
結局、二人が食事を終えるまで三時間ほど費やしていたが、ポールダンスの講演はその一回だけだった。
お腹も膨らみ、アルコールも回ってきたし、そろそろ宴が終わる時間だ。少し気まずい雰囲気になっていたのは琴音だった。女の感というのだろう、ポールダンスに対する陽平の執着が気になっていた。
言葉少なになっていた琴音に「来週も合おうね」と約束をとり、駅で別れた。
別れた後で、琴音の口数が減っていたことに気付いた陽平だったが、メールで「今日もありがとう、おやすみ」とだけ送ったにとどめた。
奥歯にモノが挟まったような・・・。
そんな表現がぴったりとはまってしまう夜だった。
この夜の出来事が、大きな岩をもそぎ落とす楔となるのである。
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