第15話 窮地のあとの陽平と琴音
翌週も梨香と瑞穂によるお弁当合戦が続いていた。それがわかっているかのように加藤女史も参戦してくる。それがために、陽平の目には単なる女子たちのお弁当合戦のお遊びにしか映らない。そういう風にしか映らないように加藤女史が意図的に参戦しているのであるということを誰も知らない。
そして梨香と瑞穂のお弁当はレベルアップしていた。玉子焼き、魚の煮付け、鮭のムニエル、蓮根の金平など、徐々に手の込んだおかずが登場してくる。
「すごいやん。これ五百円出すから毎日作ってくれへんかな、順番に。」
「そのうち千円でもって言わせてみせたる。それまで待っといてください。」
「しかし、加藤さんの今日のお弁当はシンプルですね。」
加藤女史の今日の献立は、出汁巻きと根菜の煮物、そしておにぎりに漬物が添えてあるだけだった。
「昨日、尾関クンが何を食べたか想像してたらこうなった。」
「なんでそんなことまでわかるんですか。」
梨香が不思議そうに訪ねると、
「それは長年の経験やな。」
微妙な笑顔を浮かべながら視線を陽平に送っていた。何を言わんとしているのか理解ができる陽平には、その笑顔が悪魔の微笑みように見えたかもしれない。
「うん。確かに加藤さんのお弁当が一番美味しかったです。」
まさか直立不動で答えたわけではないが、すっかりビビリ気味の態度に不信感を抱いたのは梨香も瑞穂も同じであった。
その週からは、さすがに昼も夜も彼女たちと同伴で食事をすることを拒んだ陽平だが、またぞろそれを拒んだことが彼女たちの不信感を増徴した。
そんなウイークデーを乗り切った陽平に、週末の試練がやってくる。
先週の京都タワーでのイベントの後からずっと、陽平の脳裏から離れなかったポールダンスのショウ。あれから陽平は、インターネットで京都中のポールダンスショウの開催を検索していた。いやいや京都だけではなく、大阪や神戸、奈良のイベントまで検索している。もはや何かに取り付かれていると言っても過言ではない。
この日も朝から検索に勤しんでいた。
今日は、昼前から京都駅で琴音と落ち合う予定だった。いつものようにランチスタートを想定していた。そんな幾分ゆっくりとした朝、やや遅めのモーニングをトーストとカップスープで満たそうとしていた。
すると、突然呼び鈴が鳴る。
=ピンポーン!=
時計を見るとまだ九時になったばかりだ。
「誰だこんなに早く。まだ宅配も始まってないはずやのに。」
首をかしげながら玄関のドアを開けると、そこに琴音が立っていた。
「おはよ!ビックリした?来ちゃった。」
どこかのテレビドラマで見たことがあるようなシーンだ。
「お、おはよ。どうしたん?」
「えへへ。私の知らない彼女がいたらどうしようと思ったんだけど。」
そう言いながら部屋の奥を覗き込む。
「なんや、そんなことか。それやったら心配ないわ。どうぞ奥の奥までご探索下さい。」
陽平は琴音の手を取って部屋へと招き入れた。その瞬間、少し不安に思っていた琴音の表情がホッとした安堵の表情に変わる。
部屋に入った琴音は、何の疑いもなしにエアコンの効いたリビングへ足を踏み入れた。するとそこに電源の入っているパソコンの画面を発見する。
「これなあに?」
慌ててブラウザを閉じる陽平だったが、すでに検索内容は見られてしまっていた。
「ああ、こないだのポールダンスすごかったから、どんな人がやったのかなと思って。」
またポールダンスだ。琴音はなにやら不安な気持ちがよぎってはいたが、それをすぐに打ち消すように手に持っていた土産を渡す。
「一緒に食べようと思って買ってきたんだけど。もう朝ごはんはすんだ?」
琴音が持ってきた土産はドーナツだった。
「今から。ほら、カップスープとトースト。これが今日のモーニング。淋しいもんやろ。ドーナツなんてご馳走やん。琴ちゃんもスープ飲む?」
「うん。」
小さくうなずいてテーブルのそばに座った。
「ごめんね。急に来て。でもこの間からヨウちゃん少し変だったから。それとも私が変なのかな。」
「そんなことない。ボクがおかしかってん。まだ恋人同士が始まったばっかりやのに、いらんこと考えさしたらあかんな。」
琴音は急に陽平に抱きついてきた。
「ヨウちゃんの気持ちが私以外のところにもある。それがとっても不安。何か足りないのかな。正直に言って。」
「琴ちゃんに足らんことなんてなんもないよ。ゴメンな心配さして。」
陽平は琴音の体を抱き寄せて唇をあわせた。そしてそのまま押し倒すように上から体をかぶせていく。陽平は徐々に琴音の体温が伝わってくるのを感じながら、自らの失態を省みていた。
あの日、寧々と偶然にすれ違い、久しぶりに言葉を交わした夜。忘れかけていた想いが再び湧き上がっていたのは事実である。
それはいつものお店の女の子に対する恋心だったはず。しかし、女の子と偶然にも街中で出会ったなんてことは初めてだったこともあり、いつもとは感情が違っていたかもしれない。そのために微妙に陽平を刺激していたのだとしたら・・・。
正直すぎる陽平はウソが苦手だ。だから、腕の中で身を任せている琴音に対しても素直になりすぎている感情がついつい出てしまう。
琴音も一定の理解は示している。互いに三十路に到達し、大人であることを自覚している。大海原のようにとはいかないが、小さなことを気にしないように心がけているつもりだった。しかし、今の陽平の様子は小さなことから大きなことへと進化しつつあるような気がしてならない。
彼女はすでに体を許している。それは大きな賭けだった。陽平の人柄を信じて身を任せたのだ。そして、そのことは今も信じ続けている。いや、信じたいと思っている。
陽平は琴音を引き寄せた。大人同士が密室の中で久しぶりに会うのだ。必然的に行う行為は決まっている。少し不安な想いを持ちながらも、琴音はいつもどおり陽平に身を任せる。少し汗ばんでいる肌にエアコンの涼しい風が心地よかったが、その肌に熱き血潮がたぎる陽平の皮膚が覆いかぶさり、柔肌は再び燃え始める。
琴音は不安な気持ちを吹き消したい想いで陽平を求め、陽平は与えた不信感を拭い去るために琴音を求めた。二人が織り成す肌と肌のふれあいは、荒い息遣いと汗ばむ皮膚が官能の世界と無心の境地を作りあげる。今の瞬間を大切にしたい想いとこれからの時間を考える想いが交錯する。
しかし、陽平の気持ちの中には、一抹の不安があることを払拭することが出来ずにいた。唇を併せても温もりを探っていても、どこかわだかまりのあるぎこちない衝動と同時に、琴音を抱きながらも何度か寧々の顔が浮かんでは沈んでいた。
そんな中、琴音は陽平の中に別の女性像があることを垣間見てしまった気がするのである。
快楽遊戯の時間は終わった。気だるい脱力感が二人を支配していた。
「ヨウちゃん。」
おそるおそる陽平の顔を見つめる。
「私を抱きながら、別の女性を見てた?」
思いがけない琴音の問いかけに、一瞬言葉に詰まる陽平。
しかし、柔肌に埋もれながら寧々の美しい曲線を思い出していたことも事実だ。それは今回に始まったことではなかったかもしれない。それもウソをつけないのが陽平の悪いところである。
「・・・。どうして。」
「ホントのことを言って。」
陽平は今までの自分の事を言って聞かせるしかなかった。
「ボクは今まで友だちと女の子がいる店によく通ってた。惚れやすい性格やからすぐにその女の子のことが好きになった。でもいつも振られてばかり。琴ちゃんと出会う少し前にもおんなじような感じやった。その子は急に辞めたけど、たまたまこないだ道端で会うた。偶然やったし、会ったとき少し話をしただけやった。もう会われへんのはわかってる。それだけやねんけど。」
「それがあのポールダンスの子?」
「うん。」
琴音は一度見たきりなので、寧々がどんな子なのか覚えてはいない。けれど女という生き物は一度嫉妬に芽生えると、その根はずっと根付くものである。
「それを私には置き換えられない?」
「もうすぐそうなる。」
琴音は「今すぐ」という答えが欲しかったに違いない。無言のまま肌のものを身に着けはじめ、あふれ出てくる涙を拭おうともせず、帰るそぶりを見せる。
「待って。すぐにそうなるから。」
そのとき琴音は真っ直ぐにパソコンを指差していた。
「まだ探してるじゃない。」
琴音は別の女性が部屋にいないか確認しに来たのだが、部屋にはいなかったが、陽平の心の中にはいた。それを見つけた時点で今日の目的は図らずも果たしてしまったのである。
駆け足で部屋を出て行く琴音。慌てて服を着て追いかける陽平。しかし、すでに琴音の姿はなく、途方に暮れるしかなかった。
部屋に戻り琴音に電話をかけてみるが、彼女は出ない。仕方なくメールを送るが、やはり返ってこない。
考えてみれば女性側からすれば、これほど馬鹿にした話はないのだ。ずっとではないかもしれないが、目の前の女を抱きながら別の女を想像していたのだから。
翌日、琴音からメールが届く。
―いきなり帰ってごめんなさい。でも悔しかった。あなたがホントに求めていたのは私じゃないって知った時。過去の女性のことはどうでもよかった。でもその女の子は今の話でしょ?思い出の中にしかいない女の子に勝てない私。もう少しだけ泣きます。―
そのメールを見て陽平も泣いた。もう二度と取り返せない大切なものをなくした気がした。そもそも寧々とは嬢と客の関係だけであり、親密だと思っているのは陽平からの一方的な想いだけである。
琴音は・・・。彼女は違う。まだ最近とはいえ互いの意志と好意を確認しあった仲である。その彼女をないがしろにしてしまったのだから、陽平にはそれなりの罰が与えられても仕方がない。
陽平は朝から晩まで泣き濡らし、琴音からの連絡を待った。しかし、この日はとうとう何も音沙汰がないまま暮れてしまった。
月曜日は朝からとんでもない表情で出社する。
一昨日のできごとから立ち直れずに今日を迎えたのである。
その様子を見た加藤女史が即座に陽平を会議室へと引きずり込んだ。
「一体、どうすればそんな情けない顔になるん。例の綺麗な女の子はどうした。まさか速攻で振られたんかいな。あの子、『ロンリー』で見つけた子やろ?何があったんや。」
陽平は土曜日の出来事を、ことこまかに説明した。寧々のことも琴音のこともポールダンスのことも。『ロンリーナイト』でのいきさつも。十数分に亘る陽平の説明は時折り要領を得ず、また戻ってはその先に飛んでいく。加藤女史が理解するのは難解だったが、おおよその展開はなんとなくわかった。
「あのな。その琴音って子もずいぶんな冒険やったと思うで。しかもエエ感じやったんやろ、なんでアホなこと言うかな。そんなん思ってたとしても言わんでもエエことやんか。大馬鹿もんやな。」
「ボクどうしたらエエやろ。」
「そやな、明後日あたりに電話してみることやな。今日やないで明日でもない。明後日やで。それぐらいやったらきっと彼女も落ち着いてることやろう。そのかわり、連絡が取れても最後通告の覚悟はしときや。わかったら、顔洗ってとっとと仕事してこい。」
そう言って陽平を会議室から追い出し、そ知らぬ顔で自分のデスクに戻って行った。
そこへ現れたのが梨香である。陽平のこととなると目ざといのが今の彼女の行動。
「尾関さんどうしたんですか。」
「なんでもない。ちょっと女の子に振られただけや。きっとガールズバーかスナックの女の子やで。アタックするんやったら来週辺りがチャンスかもよ。」
「ウチ別に尾関さんにアタックなんかしません。」
プイっとあっちを向いて自分のデスクに戻る梨香だったが、加藤女史から見えない方向に向いた時の彼女は満面の笑顔だった。
そのときのやりとりを瑞穂は知らない。ちょうどトイレから戻ってきた瑞穂が満面の笑顔で溢れていた梨香を見つけたのがそのときだった。
昼になると恒例のお弁当合戦が始まる。毎週月曜日はそのためにあるかのように。
いつものように会議室で三つのお弁当を目の前に座っている陽平。しかし、今日はいつも以上に食欲がない。
先制攻撃を仕掛けたのは瑞穂であった。
「今日は焼肉定食をイメージしたの。ガッツリ食べてね。」
「ウチのはうなぎ。夏といえばスタミナつけなあかんからな。」
最後は加藤女史の出番となるのだが、今回は少し趣が違った。
「今日はアカンな。表に行ってそーめんでも食べといで。今の調子でこんなもん食べたら、吐きよるでコイツ。今日は審査員なし。自分らで食べよ。」
いかにも気力なさげな陽平を再び会議室から追い出すと、お互いに弁当を交換して、ミニマムな女子会ランチが始まる。
ふらふらと会議室を出て行く陽平の姿を心配そうに見つめる梨香と瑞穂だったが、「ほっときなさい」という加藤女史の一言で椅子に座りなおした。
「なんかかわいそう。」
ぽつっとつぶやいたのは梨香だった。
そして水曜日。加藤女史に連絡をするならこの日と指定された水曜日である。陽平は昼休みに電話をかけてみた。授業があったとしても一時頃なら休憩中のはずだ。
「プルルルル、プルルルル、プルルルル。もしもし。」
三度目のコールで琴音が電話に出た。
「陽平です。こないだはごめんなさい。あれから猛烈に反省して、自分を責めて、もう泣きつかれた。今夜、会えるかな。」
「・・・・・・・・。」
「京都駅、いつもの改札出たとこで待ってる。六時にはおるから。」
「・・・・・・・・うん。」
「よかった。声が聞けて。じゃああとで。」
「ヨウちゃん。」
「なに。」
「・・・・・・あとでね。」
連絡は取れた。しかも会ってくれるという。先日の失態をフォローすることができるか。それは全て陽平の釈明遺憾にかかっていた。
どの道今日は朝から仕事が手についていない。加藤女史からも電話してみたか聞かれたし、今日会うことを伝えると、頑張れと背中を押された。
そして時計の針は五時半。明日の予定だけを確認して退社する。その脚は一目散に京都駅に向かった。
いつもの改札口六時少し前。陽平は期待を込めて待っていた。
しかし六時を過ぎても彼女は現れない。
学校の授業は四時半には終わっているはずだ。ジリジリと時間だけが過ぎていく。六時半、七時、七時半。それでも彼女は現れない。
昼の電話では確かに「あとでね」といったはずだ。陽平はその言葉を信じてタダひたすら待つしかなかった。
そして七時半を少し過ぎた頃、ようやく少しうつむき加減の琴音が現れた。
「遅くなってゴメンね。やっぱり来ようかどうしようか迷っちゃって。でもやっぱり来なきゃと思って。」
「来てくれただけでもうれしいよ。」
陽平は手を差し伸べ、つなごうとしたのだが、琴音はそれを拒んだ。仕方なく差し伸べた手を引っ込めると、琴音を導くように先に歩き始める。
「ボクはウソがつけない人やねん。だから何でも言うてまうねん。一昨日も先輩に余計なことは言わんでもええのにって叱られた。知らぬが仏って諺があるんやでって。でも琴ちゃんにウソつくのはアカンと思った。せやから、ごめん。」
「わかってるの。男の人にとって思い出の人ってずっと心の中に残ってるんだよね。だからふとしたことで比較しちゃうんだよね。昨日、今日とずっと考えたんだけど、私たちまだつきあいだしたばっかりだし、まだあんまりお互いのことよく知らないんだよね。それなのに自分のことだけ見て欲しいってわがままだったよね。」
「そうやない。つきあったばっかりやし、琴ちゃんのことだけを見てなアカンかった。ボクが全部悪いねん。でも凄い反省したし、今度こそ琴ちゃんのことだけ見ていきたい。」
「ありがとう。ヨウちゃんは優しいね。」
気がつくと二人は始めてのランチデートで来たラーメン店の前に立っていた。
「食べる?」
陽平が店を指差して誘うと、
「うん。」
琴音は陽平の後について店に入っていく。
横並びのカウンター席に案内された二人は、以前に食べた同じラーメンを注文する。待っている間、中々次の言葉が出てこない。
「また土曜日に会えるかな。今日と同じ場所に待ち合わせで。」
「うん。」
「じゃあ十時に。」
「うん。」
琴音の発する言葉は極端に短い。何か言葉を選んでいるようでもある。
運ばれてきた、あの時と同じラーメンを無言のまま食べる二人。まだわだかまりが残っているようでもあり、何かを探っているようでもある。
ほぼ同時に食べ終えた二人は、温まったお腹を抱えて店を出た。そしてそのまま駅へと戻るように歩いていく。そして待ち合わせた改札口まで来ると、
「ごちそうさまでした。今日はこのまま帰るね。土曜日十時。今度は遅れないようにするわ。ありがとう。」
そういい残してスッと背を向けた。改札口に陽平を残したまま、琴音の姿は小さくなっていく。
その時、陽平は自らの目を疑った。目の前を数人の女子大生とおぼしき集団が歩いている。その中に寧々の姿を見つけたのだ。即座にその後を追いかけるように踏み出した右足。しかし陽平はその右足を引っ込めた。今は追ってはならぬ。そう思ったからである。
「きっと他人のそら似や。そんなあっちこっちで偶然があるはずないやろ。」
忘れようとしていた、忘れなければいけない偶像。そして追うことを思いとどまった足。またしても陽平は恋のジレンマに陥るのである。偶像か現実か。本来なら答えは決まっているはずなのに。
そして土曜日の朝を迎える。
今朝は琴音の訪問はない。彼女も要らぬことをしたものだと後悔していた。見なくてもいいモノを見てしまったし、開けてはいけないパンドラの箱を垣間見てしまった。そんな感覚だった。
約束の時間。その少し前に琴音は現れた。今までと同じように見目麗しき様相で。
「おはよう。」
「うん。」
「どこへ行きたい?」
「水族館。」
京都には近年、新しくできた水族館がある。
海からは程遠い立地であるにもかかわらず、大きな水槽を抱いた水族館は、目新しいこともあってか、もっか連日大人気である。
「今日は手をつないでくれる?」
陽平は誘うようにして左手を差し出した。琴音もそれに応えるように右手で受ける。
時間はたっぷりとある。急ぐ必要はない。陽平は皮膚の感触や指のありかなど思い出すように琴音の手の温もりを確かめていた。
大阪にある水族館と比べるとやや小ぶりの建物であり、展示されている魚なども少ない。けれども涼しい館内は、熱い二人が寄り添っても違和感を覚えない空間となっている。
さほど魚類にくわしくない陽平は、逐一説明書きを読みながら琴音との会話を楽しんだ。期間限定ということで、小さな爬虫類たちを展示していたが、琴音はどうやら苦手なようだった。
ゆっくり回ってたところで二時間もあれば見終わってしまう。
それがちょうどランチタイムを迎えるころになっていた。
京都駅の向かいにあるホテルに和食処があり、陽平はその店を予約していた。昼の会席コースである。琴音は黙って陽平についてゆき、すべてを陽平に任せた。
それを食べ終わると、琴音は陽平に次の行き先を再度リクエストした。
「京都駅の屋上テラスに行きたい。」
京都駅の屋上には展望台があり、通常は屋上テラスと呼ばれている。
もちろん京都タワーほどではないが、中々の高さを誇り、ここからも京都市内が一望できるのである。
天気もよく陽射しが強いこの時期。あまり多くの訪問客はいなかった。
先んじて展望台に臨み、遠くを見つめる琴音。そのあとをそっと追いかける陽平。
あと少しで追いつこうとしたとき、琴音がくるっと振り返った。そしてゆっくりと陽平に歩み寄る。
「ヨウちゃん。今日はありがとう。でもね、やっぱり今のままじゃつきあえない。ヨウちゃんの中に存在する不思議な女の子に勝てない自分が悔しい。今日は一生懸命私を楽しませてくれた。私もヨウちゃんの気持ちに応えようと思った。でも・・・・、あのとき他の女性の面影を思い出しながら私を抱いていたことはやっぱり許せない。正直に、素直にウソを吐かなかったことはヨウちゃんの優しさ。でもやっぱり知らなくてもいいことは知りたくなかった。」
すでに琴音の目からは溢れんばかりの涙が零れ落ちている。
「ヨウちゃんのことは好き。この人ならと思った。『ロンリーナイト』の奇跡って本当にあるんだなと思った。私が期待しすぎてたのかな。だから今日でお別れ・・・。本気だったから・・・。だから今日でお別れ。短い間だったけど、楽しい思い出をありがとう。」
そういうと琴音は陽平の言葉も聞かずに、すぐそばを通り抜けて階下へと走り抜けていく。突然のことに、呆然と琴音の後姿を見送るしかなかった陽平の顔もまた、とどめない涙で溢れていた。こぶしは潰れんばかりに握り締められ、朽木が倒れるように膝から崩れ落ちた。しばらくは膝を着いたまま泣いた。周りに多くの人はいなかったが、誰の目線も気にすることなく泣いた。
熱い陽射しは容赦なく陽平の背中を焼き続けていた。
我に返ったとき、陽平は傍らのベンチで呆然と座っていた。目線も虚ろで、ぽかんと口を開けていた。まるで痴呆症患者のようだった。
誰かから通報を受けたのだろうか、お巡りさんがやってきて陽平に声をかけた。
「大丈夫ですか。」
まだ意識はしっかりしていた。
「大丈夫です。」
そう応えてふらっと立ち上がり階段へ向かおうとすると、お巡りさんが陽平の腕を取って引き止めた。
「危ないですよ。そんなにふらふらしていると。」
「大丈夫ですから。」
陽平はお巡りさんが掴んでいる手を振り払って階段を駆け下りた。そこには普段どおりの賑やかな人通りが喧騒として流れており、陽平だけが澱みに佇むはぐれ者のように映った。
たった今、群れからはぐれた孤独な獣は、目的もなく彷徨うしかなかった。
何とかコンビニで買ったペットボトルを片手にふらふらと彷徨ってはいたが、行き着いた先はなんと職場であった。誰かいるのだろう。照明もエアコンもついている。
陽平はそんなことはお構いなしに自分のデスクへと向かって行った。そして両腕に顔を埋めたまま動かなくなった。その肩を叩いたのは・・・・・。
「おい尾関クン。今頃何しに来たのかな?」
真っ赤に腫れた目で見上げると、そこには加藤女史が腕組みして陽平を見下ろしている。
「ああ、帰ります。すみません。」
陽平としては、今のタイミングではあまり会いたい人ではなかった。
「真っ赤に目え腫らして何言うてんねん。どうせまた振られてきたな。」
当たっているだけに言い返せない。
「加藤さんこそ何してるんですか。今日は土曜日ですよ。」
「尾関クンが残してくれた原稿の後始末やんか。それより例の綺麗な彼女、どうなったんや。ホンマに振られたんか。」
その瞬間、陽平は加藤女史に抱きついて泣き叫びたい気持ちになったのだが、さすがにそれは控えた。それでも今日までに至る顛末をアッチコッチ道を外れながらも話していくと、
「アホか。そんなもん当たり前や。そんだけ気持ちが隠されへんドあほう、初めて見たわ。せやけど、それがおまいさんのエエとこでもあるけどな。まあ、エエ勉強したと思て、さっさと諦め。」
女という生き物は、過去の恋愛をスパッと捨てられるらしいが、男の場合はそうは行かぬ。いつまでも女々しく引き出しにしまっておくのが性分なのである。
加藤女史もそんなことはわかっている。まさか今日の日のことを予測していたわけではあるまいが、出勤していたのも一種の運命。とっととデスクを片付け始め、陽平を連れて飲みに出かけることにした。
行き先はやはり『かば屋』だった。
「おう、おねいさんいらっしゃい。なんだこぶつきか?」
いつの間にか加藤女史もこの店の常連客となっているようだ。
「マスター、この子はウチの子供やないで。どっか隅っこの方あいてる?」
マスターは店の奥のテーブルを指差し、
「またコイツの難題でっか?例の。」
マスターも陽平の失恋話には慣れたもので、あとは任せたとばかりに自分はとっとと奥へ引っ込んだ。
「陽平、さあ彼女のことを忘れるために飲もう。よかったな今日が土曜日で。明日一日潰れてられるで。」
食欲があるわけではない。飲みたいわけでもない。しかし、目の前に出されているビールのジョッキは、渇いている陽平の体を潤すには不足のないものだった。一気にジョッキを空にした陽平は、結局のところひたすら飲むしかなかった。泣きながら愚痴りながら。その様子は近年見たことのない荒れようだった。
陽平も本気だった。だからこそ自分自身が許せなかった。彼女に非はない。まぬけな自分を責めるしかなかった。
泣きながら飲み続けた陽平もジョッキが七つ目あたりに到達した時、寝息をかいて、つっぷしたまま動かなくなった。その姿を黙って見守る加藤女史だった。
陽平の目が覚めたとき、あたりはすでに暗くなっていた。目の前には加藤女史が慈愛の目で陽平を見下ろしている。
「目が覚めたかな?ええ夢見てたな。さあ、ここからは現実の世界やで。あんたが過ごしてきたこの数週間の出来事はみんな夢やってん。あの綺麗な人も夢の中の人やってん。夢やったら覚めたらしまいやろ。」
果たしてそんなことがありえないことは陽平にもわかっている。ただ、加藤女史の思いやりがうれしかった。
しかし、その現実を目の当たりにした瞬間、頭痛を覚えるとともに嘔吐感ももよおしてきた。慌ててトイレに駆け込み、何度か憤りを吐き出すと、目の前がチカチカ光っている。
マスターは水の入ったコップを持って来て、
「ヨウちゃん。あんたこのおねいさんに感謝しいや。ずっといてくれたはったんやで。」
「すみません。」
「キミはウチの大きな戦力やからな。早急に立ち直ってもらわな困るさかい。出すもん出して少しはスッキリしたやろ。」
「はい。」
とはいいながら、全く持って気分は悪い。再度トイレに駆け込んで、胃の中を空っぽにしてから出てきた。それを三度繰り返した。
「会員カードはまだ持ってるか?落ち着いたらまた行っておいで。ほんで、その子のこともキャバの女の子のことも、みんな忘れて新しい恋を探しておいで。今日はここまで。あとは真っ直ぐ帰りや。」
加藤女史はすくっと立ち上がり、勘定を済ませて店を出た。
陽平もマスターに礼を述べて店を出る。夜風は相変わらずぬるい空気を運んでいるだけだった。
もう諦めるしかないのだろう。そう思うしかなかった。
吹っ切る決心を余儀なくされた土曜日。
とはいえ、女々しい男は直ぐには立ち直れない。
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