第13話 お弁当大作戦と偶然

一夜明けて、昨夜の缶チューハイのアルコールが少し残ったままの体を無理やり起こす。やや飲みすぎた炭酸と大判の湿布のおかげで、筋肉痛は軽症ですんでいるみたいだ。それでもふらつき加減の体をトマトジュースと味噌汁で叩き起こす。

寝ぼけまなこでケータイをのぞいてみると、琴音からメールが入っていた。

―昨日はありがとう。今日は日曜日だけど会える?―

朝一番からよい知らせだ。これは乗るしかないだろう。

―今起きたばかり。約束どおり映画を見ましょう。―

送信すると、すぐさま返事が返ってきた。

―じゃあ、京都駅に十一時三十分でどう?―

陽平が時計を見ると、あと少しで十時という時間帯。

―オーケイ。今から支度するよ。―

「今から出かけると丁度ランチやな。それも考えとかんと。」

などと独り言をつぶやきながらシャワールームに駆け込んだ。


それから一時間後、陽平は京都駅北口にいた。そこが琴音から指定された場所だったのである。そして約束の時間丁度。琴音が現れた。

「おはよう。昨日はごちそうさまでした。行きたいところがあるの。つれてって。」

琴音は陽平の返事も待たずに、腕をぐんぐんと引っ張って歩いていく。五分も歩くと行き先が見えてくる。

「もしかしてここ?」

陽平が指差したのは、すぐ近くにあるラーメン専門店であった。

近年グルメ番組でも多くの情報が寄せられており、関連商品がスーパーなどにも並んでいる有名な店である。

「うん。なかなか一人では来られないから。お願い、いいでしょ。」

こんな店でいいのなら陽平にとってはお手の物である。有名店だけに少し待つのは仕方がないが、昼時の少し前でもあり、十五分ぐらいで済みそうだ。

待っている間、昨日のことや帰ってからのことを楽しげに話す琴音。彼女にとっても久しぶりの楽しいデートだったに違いない。その笑顔に癒されている陽平もまた、久しぶりのほんわかした気持ちだった。やがてカウンター席に並んでズルズルと麺をすすった二人は、満足した顔で店を出た。

「おいしかった。一度来てみたかったのよね。評判どおりだったわ。」

「ホントは味噌煮込みがよかったんちゃうの?」

「名古屋だったらね。京都はこれでいいのよ。で?映画館はどこかしら。」

京都駅に一番近い映画館は、駅の南側にあるショッピングモールの中にあった。

「十分ほど歩くで。」

「昨日歩いたことを思えば、なんてことないわ。」

「確かに。」

短い言葉の中にも楽しげなリズムが刻み込まれているようだ。

この映画館の所在については琴音も事前に把握していたようで、どの映画を見るのかもある程度調べてきているようだった。

「どんな映画が見たいの?」

「第一候補はこれ、第二候補はこれ。」

そう言って琴音が指差した先には、ホラー系の洋画とベタベタの恋愛系の邦画だった。どっちもあまり陽平が好むジャンルではない。答えに困った陽平は、第三候補としてコメディ時代劇映画を推薦してみたのだが言下に却下され、琴音推奨映画に反対する理由を述べさせられる。

「だってホラーは恐いし、恋愛映画はきっと眠ってまう。」

その理由を聞いた琴音は、有無も言わせずに第一候補のホラー映画のチケットを発注してしまうのである。

陽平はホラーが苦手なのだ。ビデオだってただの一度も借りたことはない。

どうやら琴音のエスの部分が大いに発令されたのかもしれない。琴音は陽平の腕を引っ張って映画館の中に連れ込んでいった。

上映が始まると陽平はびくびくしながら落ち着きなく琴音の手を握り締めていた。場面場面で強烈なシーンがあると、そのたびに琴音の胸に顔を埋めるのである。琴音にとってはそれがいたく気に入ったようで、映画そのものよりも陽平のリアクションを楽しんでいた様子だった。陽平にとっては拷問に近い時間だったが、おかげで二人の仲は急接近したようだ。

「ヨウちゃんって怖がりなのね。」

「なんでわざわざあんなおぞましいもんを見たがるのかわからん。」

「怖がってるヨウちゃんって可愛かったわ。」

「そんなこと言うねやったら、琴ちゃんも怖い目にあわしたろか。」

「たとえば?」

「今からタクシーに放り込んで、どこぞのラブホテルに連れ込んで、へっへっへっへっていう目にあわせたるで。」

「イヤー恐いー、なんて言わないわよ。私ももう三十なんだから、まさか今さらバージンですなんて言わないし。なんなら今から行って試してみる?セックスの相性だって試してみないとわからないでしょ?」

あまりの大胆なセリフに陽平の方がおどおどしだす始末。

「いや、まあ、そんな急に慌てんでも。それに例えばの話やから。」

「うふふ。」

してやったりの顔はまるで勝ち誇った鬨の声をあげているようだった。

「お買い物しましょ。」

そう言って琴音は陽平の腕を組んでスタスタと歩き始める。向かった先は京都駅に併設されている百貨店であった。陽平はこれも苦手なのである。何がって女の子の買い物に付き合うことがである。琴音は欲しいショルダーバッグがあったらしいのだが、一通り見て回ったものの、結局は気に入ったデザインのものがなかったのと陽平の苦笑する顔が目についたため、後ろ髪を引かれることもなく売場を離れた。次いで向かったのは地下の食料品売場である。

「今日はウチに来ない?手料理作ってあげる。」

急な展開に驚く陽平。

「外でばっかり食べてたらもったいないし、それに私の料理の出来具合を見ておいてもいいんじゃない?」

「ボク、遠慮せえへんタイプやけど。そんな美味しい話、すぐに乗ってまうで。しかも料理のあと、違うもんまでご馳走さましてまうで。」

「できるもんならしてみたら。うふふ、できないくせに。で?何が食べたい?」

「そうやな、さしあたりカレーがええかな。」

「ん?そんなものしかできないって思ってる?」

「カレーをなめたらアカンで。作り方一つで結構変わるで。それにカレーにあう味噌汁が欲しいな。」

「なるほど、簡単そうに見えて難しい注文を出したわけね。わかったわ。」

納得したような表情をすると、買い物カゴを片手に材料を物色し始める。

「ヨウちゃんは京都人だから肉はビーフね。味噌は白がいいのかしら。」

「肉はビーフがエエけど、味噌は赤でも大丈夫やで。そっちの方が得意やろ。梅干以外なら何でも食べるで。」

なんだか似たような会話をどこかでしたような。そんなことを思い出していた。

たかが二人分の買い物なんてしれている。ご馳走になるのだからと、代金は陽平が支払った。買い物袋を提げ、二人並んで歩いていると、端から見れば若夫婦の買い物帰りに見えたかも。

「手え、つないで歩いてもエエかな。」

何となくそんな雰囲気を楽しみたかった陽平は、恐る恐る投げかけてみた。すると、琴音は何も言わずに陽平の空席となっている方の手を握った。しっかりとつながれた手は、二人の間でブラブラと揺れながらじっとりと濡れていった。


琴音の住む丹波橋は、京都駅から近鉄電車で十五分ぐらい。まだ夕暮れには早い時間だったので乗客も少なく並んで座れた。電車の中でも手をつないだままの二人は、少しずつ緊張感が高まっているようでもあった。

琴音のアパートは駅から徒歩十分もかからぬ場所にあった。

「すぐにエアコンかけるから、しばらくは暑いの我慢してね。」

「どうせなら、二人で汗だくになるっていうのはどう?」

陽平は琴音を引き寄せ、軽く唇にキスをした。

「試してみる?って言うたのは琴ちゃんやで。」

「でも、外から帰ってきたばっかりで汗かいてるし。」

これはおおよそOKである返事。それを確信したのか、先ほどよりも深く唇を吸い、さらにはその祠の奥に佇んでいた女神にも挨拶を施す。

琴音の女神はそれに応えるように陽平を迎え入れた。ネットリとした感覚と、エアコンから吹き出てくる涼しい風が二人の緊張をほぐしていく。

ゆっくりとシャツのボタンを外していくと、そこにはたわわな丘陵が形づくっていた。着やせするタイプなのだろう、思いのほかのボリュームに陽平の勢いは更に増していく。

「シャワー浴びてからじゃダメ?」

懇願するように訴えかけた琴音であったが、それを拒否するように彼女の腕をカーペットに押さえつけた。観念した琴音は陽平のなすがままに力を抜いていく。シャツ、スカート、ストッキングの順に脱がせたあとは、陽平も自らシャツをはいだ。汗ばむ肌同士が密着すると、「ぬちゃっ」という音をたててお互いの肌を呼び込み合う。やがてたわわな丘陵を包み込んでいたブラを剥がすと、可愛い石碑を称えた小山が露呈されていく。唇をあわせながらその石碑を弄び、自らはベルトを緩めていく。

お互いに残り一枚になったとき、陽平が確認するように琴音の耳元でささやく。

「押し倒してから始まる恋があってもええやんな。」

「試してみたらって言ったのは私よ。」

そして陽平は最後のものを剥ぎ取ると、自らも全てをさらけ出した。

すると琴音は率先して陽平の矛先を確認するかのように祠の中に受け入れた。陽平も琴音のクレバスを探し当て、その手前に鎮座する小さな標石に挨拶を施すのである。

クレバスの奥にある洞窟はすでに鍾乳洞のようにビタビタに濡れていた。琴音の祠の中で絶好調の勢いを増した矛先は、思わず噴き出しそうになるのを何度も踏ん張って、更に奥を攻め立てていた。序盤の攻撃で力を使い果たすわけにもいかず、双方で仕切り直しのタイミングを計る。

少し部屋の温度が下がってきたものの、互いの体温は逆に上がっていく。汗ばむ肌はさらにヒートアップし、ぬるぬるとした感触がまるでローションでも塗ったようなエロチックな肌触りを呈し、互いに獲物を狙う猛獣の目つきに変わってくる。

「いくよ。」

「うん。」

ここからが第二幕の始まりである。矛先を鍾乳洞の中へ侵入させたとたん、祠の中の女神が祝詞を唱え始め、陽平の中の狼が唸りをあげていく。大きく、やわらかな丘陵は陽平の手の中で縦横無尽に踊らされ、頂点の石碑は飛び出すかのように硬く直立している。時折り歯をあてながら刺激を送ることを忘れない。

第二幕はお互いの戦術を探るかのような攻防だった。しかしながら第三幕において陽平は攻撃の戦法を変えてきた。スルスルと琴音の背後に回ると、後ろから腕を羽交い絞めにし、下から突き上げるように洞窟の奥を掘削する。矛先の当たる角度が変わったためか、女神が唱える祝詞のトーンが変わった。さらには体を直立させたまま背後よりたわわな丘陵を攻撃することで再び祝詞のトーンが変わる。

しかし、琴音においても受身ばかりで満足するはずもなかった。追撃のリズムが緩くなったチャンスを逃すはずもなく、体を入れ替えて上から覆いかぶさった。ここからは第四幕の始まりである。陽平の上にまたがった琴音の目は、まさに女豹の輝きを放っていた。厚みのある陽平の胸に爪を立て、ロデオマシンの如く激しい動きを加えていく。身動きの取れない陽平は、幾度か白旗を掲げそうになったが、上手く腰を浮かしながら最終決戦を逃れていた。

互いの息遣いがやや穏やかになったとき、最終の第五幕が始まる。再び体を入れ替えて、上からの攻撃態勢に入る陽平オフェンス隊は、ゆっくりと粘液の刺激を楽しみながら、琴音の両足を抱えて、下半身の自由を奪う。

さらには上半身の肌が擦り切れるほど密着した状態のまま上下運動を繰り返し、最終放銃の狙いを定めていた。

「さすがに中はまずいかな。」

「いいけど、勇気ある?」

最後まで攻撃的な挑発を受けて、それに受けてたたぬ訳のない陽平であった。勢いに任せてラストスパートとなるマシンガンを打ち込んでいくと、最後の照準が決まった。女神様の祝詞も最終章を迎えて激しいトーンとなり、それが最高音にたっしたとき、陽平の銃弾が激しく放たれた。


全精力を使い果たしたかのように力尽きる陽平。まだ延長戦も辞さないゆとりの笑みを見せる琴音。対照的ではあったが、満足度は同じだったようだ。

先に声をかけたのは琴音だった。

「いきなりだったから少し驚いた。でも後悔はしてないよ。試してみたらって言ったのは私だから。どうだった?」

「素敵な時間をありがとう。ここから落ちてく恋もあるな。ボクと正式につきあってくれへん?こんなことしてから言うのもなんやけど。」

琴音は黙ったまま陽平の唇をむさぼった。互いの粘液を交換するように女神と達磨が絡み合う。そんな時間が静かに過ぎていく。


やがて起き上がった二人は、手を取り合って浴室に入る。並んで交互にシャワーを浴びた。すっかり汗が落ちたころには、部屋の中のエアコンもようやく落ち着いた冷気を満遍なく送り出せる様になっていた。

「さあ、カレー作らなきゃ。」

「手伝おか?」

「大丈夫。」

もうそのころにはカレーの出来栄えなんかどうでも良くなっていた。

料理が出来上がるまで、陽平は部屋のテレビを見るフリをしていた。番組の内容など頭に入っていなかったし、先ほどまでむさぼるように求めていた琴音の匂いを思い出していたのである。

やがて部屋中にカレーの香りが充満し始めるころ、陽平はようやく泡沫の夢から醒めた。陽平にとっても琴音にとっても異性との交わりは久しぶりだった。互いの燃えるような肌の感触を味わった二人は、ついぞ目線を合わせることに躊躇していた。

出来上がったカレーを食べながら、やや遠慮がちの会話だったのが、

「ホントによかったんかな。ついつい襲ってしまったけど。」

「私が誘ったのよ。楽しかったし、うれしかったわ。これだけ誘っていて指一本触れられないって女としてはかえって屈辱ものよ。」

「このカレーめっちゃ美味い。また作ってな。」

「うん。それに正直に言うと、実は今日は安全日。ちょっとヨウちゃんの気持ちを試しちゃったの。ごめんね。」

「おかげでちゃんと付き合う気持ちになったし。」

とにもかくにも結ばれた二人。しかし、これが波乱万丈の始まりだとは、誰が思ったことだろう。


食事も終わり一息ついたあと、テレビを眺めながらゆったりとしたひと時を過ごした二人だったが、大相撲の千秋楽のニュースを見て、今日が日曜日であることを思い出した。

「そろそろ帰るわ。今日はホンマにありがとう。これからもよろしくね。」

「うん。こんどはヨウちゃんの部屋に行きたいかな。」

「綺麗にしとかな。掃除が終わるまで二年ぐらいかかりそうや。」

「じゃあ、掃除しに行ってあげる。」

「今の所それは遠慮しとこ。また連絡する。おやすみ。」

陽平はドアを出る前にキスをねだり、琴音はそれに応えるように唇を提供する。別れの嗜みは程よい大人加減だ。

帰りの電車の中で一人ほくそ笑む陽平。まだ始まったばかりの恋である。しばらくは誰にも内緒にしておこう。そう思った。

電車の揺れるリズムが痺れた体に心地よかった。



そして嵐を呼ぶ一週間が始まる。

会社では梨香と瑞穂のちょっとしたチキンレースが始まっていた。そう、あの急きょ瑞穂の思いつきで始まったお弁当合戦である。さすがに就業時間内にはなかったが、昼休憩には早速陽平の元へと取材に訪れていた。

「尾関さん、もうちょっと詳しいこと教えてください。肉と魚とどっちが好きですか?」

「瑞穂、先に行って一人だけ聞くのはずるいで。そこは公平にしてもらわな。」

「こっからは情報合戦やねんから、取材すんのに公平とかはないで。で、どっちが好きですか?」

これには陽平も閉口する。

「ボクのためにお弁当作ってくれるんはうれしいけど、こないだ梅干以外やったら何でも食べるっていうたやん。あとはなんでもええねんで。」

「でもね。できるだけ尾関さんの好きなもん入れた方が有利やないですか。ジャッジは尾関さんがするんやもん。」

確かにそれはそうかもしれない。しかし、陽平は彼女たちのお弁当合戦にあまり巻き込まれたくはないのである。なにかしら嫌な予感がしているからに他ならない。

するとそこへ加藤女史が割り込んできた。

「あんたら、もうちょっと大人になりなさい。情報の取り方が間違ってるわよ。」

「え?どう違うんですか?」

「それは自分で考えなさい。そんなとこまで教えたら、自分らのためにならへんでしょ。」

すると、梨香がガッツポーズを作りながら、

「わかった!尾関さん、一緒にご飯食べに行きましょ。堀川沿いの五条近くの角の何とか食堂。」

「ウチも行く。」

「あかんで、これはウチが思いついた作戦やから、瑞穂は別の作戦を考え。」

そう言い放つと、梨香は陽平を連れて部屋を出て行ってしまった。残された瑞穂は何やら思案をしていたが、やがて何かを思いついたのか、インターネットでいろんな検索を始めていた。

「よし、これで行こう。」

納得したのか、瑞穂は鼻歌を歌いながら自分のランチを仕入れにいくのだった。


梨香が陽平を連れてきた食堂は『堀川食堂』という昔ながらの食堂だった。たくさん並んだおかずの中から好きなものを選んで、自分なりの定食を組んでいく方式である。近年この方式を取り入れた全国チェーン店が増えているようだが、この店は年寄り夫婦が昔から営んでいる店である。年寄り夫婦の経営だから、おかずも昔ながらのラインナップが多い。かしわと野菜の煮物や焼き魚、それにひじきや肉豆腐など。トンカツやうどんまでそろえられているのが大食漢にはうれしい品揃えだ。

「さあ、好きなもん食べてくださいな。今日はウチの奢りですから。」

「いや、自分で食べるもんは自分で払うよ。賄賂みたいなんもろたら公平やないやろ。」

そう言って陽平は配膳盆を手にする。そして、焼き鯖、冷奴、ごぼうの金平を乗せていく。あとはご飯と味噌汁があれば、焼き鯖定食の完成である。

「そんなラインナップ見るために連れて来たん違いますけど。こんな平凡なんやなくて、もうちょっと特色のあるおかずを選んでもらえませんか。」

「そんなこと言うたかて、ここにあるおかずなんて特徴あるもんないやろ。」

「それもそうやな。そやけど明日もおんなじもん食べたりせえへんでしょ。そやから明日もここでランチしてくださいね。」

「たまにはラーメンとかナポリタンとか食べたいねんけど。」

「ほら。」

梨香が指差した先には、紙に書かれたメニューが張られており、

「ラーメンもナポリタンもあるでしょ。」

陽平の顔は一気に諦め顔になった。陽平のいいところはこんなことで怒ったりしないところである。争いごとの嫌いな陽平は今までも温和に生きてきた。ケンカだってほとんどしたことがない。無理やり引っ張ってこられても中々断れないのも陽平の性格からきているものである。


ランチが終わると事務所に帰ってくるのだが、梨香は瑞穂の澄ました表情に焦りを覚えた。本来ならば、どんなものを食べたか聞いてくるはずなのに、である。

瑞穂は梨香に不思議なくらいニコニコとした笑顔を送りながら、自分の仕事へと向かって行った。その姿を見て疑心暗鬼になるのは梨香である。すぐさま加藤女史に瑞穂の昼休みの動向を聞きに行ったのだが、

「知らないわよ。」

の一言で一蹴されてしまった。先制攻撃を仕掛けたつもりが後手の線でかわされた、そんな感じなのだろうか。

夕方を迎えると、瑞穂が陽平の今宵の予定を聞いてくる。

「尾関さん、今夜は空いてます?美味しい日本酒飲みに行きません?」

その様子を見ていた梨香がさっそく駆け寄ってきた。

「もしかして二人で行く気?」

「ランチは梨香が二人で行ったやろ?」

それを言われると返す言葉もない。

「わかったけど、色目を使うのは反則よ。」

「大丈夫。助けてって大声上げて抱きつくから。」

「こらこら。加藤さんも一緒に行ってもらったら大丈夫やろ。」

「あかん。私だけの情報やし。秘密漏洩には最新の注意を払っとかんと。」

ニンマリした顔の瑞穂。してやったりの表情だ。


仕事がはけると、帰り支度を済ませた瑞穂が陽平を誘いに来る。

「さ、行きましょ。」

「どこへ?」

「内緒です。」

瑞穂は澄ました表情のまま事務所を出て、すぐさまタクシーを拾った。ドアが閉まると同時に行き先を運転手に告げる

「河原町七条まで。」

「えっ?すぐそこやん。歩いてでも行けるで。」

「遠いとこへ行ったと思わせたいんです。これも作戦なんですから、機密事項ですよ。」

陽平はなんだか空恐ろしい感じになってきた。

着いた先は会社から一キロも離れていない場所だった。河原町七条の二本ほど西側の細い通りを入ると、こじんまりした店があった。表の看板に地ビールのテナントがぶら下がっている。中に入ると小さなテーブルが二つ、あとは五、六人ほど座れるカウンター席があるのみである。

「ここはたくさんの種類のおつまみがあるんです。さあ、何を注文します?もちろん私の奢りですから、遠慮なく。」

「あのね、自分の飲み代ぐらい自分で払うし、キミの飲み代だってもってあげるよ。昼間だって梨香の分までボクが払ったんやから。昼も夜もキミらに付き合うとったら、毎日二人分の食事代がかかってまうやんか。お願いやから今日だけにしてや。」

「じゃあ、明日からは割り勘というルールに決めましょう。その方がすっきりしていいですから。」

「うー。明日も続くんかこれが。溜息しかでんわ。」

それでも陽平は、一番ノーマルなビールと唐揚、イカ刺しにナスの煮浸しを注文した。

「なるほどなるほど、そういう路線なんですね。」

大したものを注文したつもりは無いが、それでも梨香の反応と違うことに感心した。

「いったいどういう経緯でお弁当合戦することになったん?」

タンブラーを傾けながら逆取材をする陽平。

「やっぱり女の子は料理ができなアカンでしょ。ウチの方がデキルってことを梨香に思わせたかったからかな。」

瑞穂は口からでまかせを言うのが得意のようだ。適当なことを言って、後でその全てが繋がるのだろうか。

「ウチもはよ彼氏みつけて、お弁当とか作ってあげて、ピクニックでも行ってみたいな。」

「瑞穂ちゃんやったら、すぐに彼氏みつかるやろ。」

「ホンマにそうなったらええですね。」

陽平はもう一杯だけ飲んで、今日は帰ろうと言った。

「これ以上飲んでまうと、どっかイカンとこへ連れてってまいそうやし、今日は帰ろ。」

「そうですね。初日からそれはまずいですもんね。」

「それに、軽くビールやったら、もっと事務所の近くでもええやん。」

「いいえ、ここで飲んで、どんなものを食べるかが重要なんです。」

やや睨みつけながら主張する瑞穂の目が据わっていた。

「わかったけど、タクシーはもったいないで。」

店を出た二人は駅に向かって並んで歩く。目の前に京都タワーの灯りが見える。

まだしばらくは蒸し暑い夜が続くのだろうな。それでも火照った顔には少しばかり涼しくなった夜の風が気持ちよかった。

翌朝、出勤するとともに梨香が飛んできて、陽平と瑞穂に昨夜のことを根掘り葉掘り聞いて回ったことはいうまでもない。


梨香のランチ攻めと瑞穂のビール攻めは木曜日まで続いた。さすがに割り勘という訳にもいかず、そろそろ家計簿的に失神しそうな具合になってきた頃、琴音からメールが入る。

―土曜日会える?―

梨香や瑞穂と比べると琴音は大人の女性に見える。実際、琴音の方がかなり年上なのだが、最近のお弁当合戦のお遊びにしても、やはり子供じみた様相が垣間見られるからでもある。

―一日空いてるよ。―

と返すと、すぐさま次の返事が届く。

―じゃあ、京都駅に十一時半集合ね。―

今度はどこのラーメン屋なのだろう。などと思いながら顔がニヤつく。

それを見逃さなかったのが加藤女史だった。しかも彼女はその事をすぐに追及しない。それよりも金曜の夜のスケジュールを確認するのである。

「尾関クン、明日は金曜日やけど、例の店行くの?」

はっきり言って『ロンリーナイト』のことなど忘れていた。けど、加藤女史の一言で思い出してしまったのである。そう、寧々のことも・・・・・。

アパートに帰ると、陽平は机の中にしまいこんでいた寧々への最後の土産を取り出した。それはあの日、渡そうと思って渡せなかったチョコレートケーキの缶詰である。この缶詰を眺めていると、やはり寧々と過ごした『ナイトドール』での時間が思い出される。あの美しい肢体とやや冷ややかに見える目線。見事な曲線を描く丘陵とほのかに桃色を呈している石碑。そして妖しげな匂い。

琴音とのこともあり、忘れていたはずの思い出が脳裏の奥からにわかに現れ始めた。そうなると、その残像はなかなか消せないものである。この打ち消しがたい残像を完全に抹消するためには、もう一度完全不在確認を取りに行くしかない。それは『ナイトドール』ではなく『ロンリーナイト』なのである。

「明日行って、もう痕跡が無いようなら、きっぱり諦めよう。そしてこれは琴ちゃんにあげることにしよう。」

この考えと方向転換が陽平の想いを狂わせることになるのだ。


そして金曜日、昨日確認した例の土産をカバンにつめてアパートを出た。

仕事に出かける人波も、会社の仕事もいつもどおり動いていた。もちろん、ランチに誘う梨香も朝から約束と取り付けに来たのだが、陽平はそれを断った。

その理由は、夜の瑞穂との約束ができないため、公平性にかけると思ったこと。

さらにはラボに用事を作って、その帰りに『ロンリーナイト』に向かう予定としたいこと。

一つ目の理由については、口を尖らせた梨香であったが、ラボに行ってそのまま友人との会食があるから瑞穂とのビールも行かないと説明し、それなら仕方がないと渋々納得したようだ。二つ目の理由については、仕事上なんとでもできることなので、午後の三時にラボ行きが決定した。

そして、その様子を見ていたのが加藤女史であった。もちろん、俯瞰で見ているだけで、何かを陽平に伝えるわけではない。

ラボの用事は簡単に終わった。いくつかのトリミングに対しての注文はあったものの、さほど難しい注文でもなく、画像処理で可能なレベルである。最終決定は来週として、百枚ほどの画像をセレクトしたら陽平の仕事は完了である。

時刻は午後五時半。会社に直帰の連絡をして、一路『ロンリーナイト』へ向かうのである。


もう何度目だろう。このドアをくぐるのは。物慣れた受付を済ませると、いつもどおり最初のテーブルに着席する。今宵も初めて見る顔ばかりだ。

お決まりのツーショットタイムに入ると、今宵最初のパートナーとなった彼女を連れてステージのすぐ前のテーブルを陣取った。しかし、今宵の陽平の目的は女の子との出会いではない。ステージなのである。入店する際にもらった最新のステージプログラムをわずかな灯りを頼りに記載されている進行表を食い入るように調べた。けれど、向こう一ヶ月の間、ポールダンスのショウは予定されていなかった。

目的を果たした陽平は、次のセットに入ることなく店を出た。

やはり寧々のことは忘れられないのだろうか。

とぼとぼと下を向きながら歩いていると、前から賑やかな三人組の女の子たちとすれ違った。その右端にいた女の子を見たときに陽平は仰天する。

「寧々ちゃん・・・・・。」



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