第12話 失意と忘却と
その日ははからずも急激に訪れる。
翌日の土曜日は、寧々を訪ねに『ナイトドール』へ向かう予定の日である。
少し寝坊気味の朝も体調が悪いわけでもなく、散歩がてらに近所のたこ焼き屋でひと船買って帰り、遅めのモーニングとした。夜ならばビールなのだろうが、午前中のうちは炭酸飲料でのどを潤す。
午後に入るとエアコンの効いた部屋で少し昼寝をしたら、夕方には運動不足の体を奮い起こすように半時間ほどジョギングしてみる。しかし、京都の夏はうだるような暑さと湿気で、あっという間にTシャツがベチョベチョになるほど汗をかいてしまう。
部屋に戻ってシャワーを浴びて、新しいシャツを着て、お土産をバッグに仕舞い込み、軽くコロンをつけたらお出かけの準備は完了する。
「昨日の寧々はカッコ良かったなあ。」
などと昨夜の舞台でのダンスを思い出しながら余韻に浸っていたのだが、浮かれた気分は一時間後には見事に打ち破られる。
『ナイトドール』の開店時間に合わせて部屋を出た陽平。電車を乗り継いで、目的の駅に到着する。そこからは徒歩五分ほどで店に着く。
いつものように駅のトイレで口臭予防液のうがいをし、バッグの中身の土産を確認したら、颯爽と階段を昇るのである。
ドアを開くと見慣れたボーイが立っていて、陽平を見つけると店内へ案内する。
「今日は誰を指名しますか?」
ここではわかっていてもそれを聞くのが仕事らしいので、いつもどおりに「寧々さんを」と答えたのだが、次に彼が発した言葉は陽平が思いも寄らぬ言葉だった。
「今日は寧々さんいません。」
堅実な陽平のことだから、部屋を出てくる前にもちろんHPの出勤情報はチェックしていた。そこに寧々の出勤予定があることを確認してから部屋を出てきているのである。
「えっ?でもHPでは休みになってなかったですよね。」
「急に来られなくなったので・・・。他の女の子ならいますが。」
陽平の頭の中には嫌な予感が走っていた。近々辞めるかもしれない。そんなセリフを聞いたばかりだ。
「じゃあ今日は帰ります。」
そうボーイに伝えると、急ぎ早に『ナイトドール』を後にした。自分には辞める日を教えてくれると約束してくれていたはずだ。だけど、何の連絡もなかった。
陽平は思い出したように寧々にメールを送る。
―どうしたの?今日は体調不良?―
きっと休んでいるだけだ。そう思いたい陽平は祈る気持ちでメールを送るしかなかった。しかし、五分たっても十分たってもメールは帰ってこない。
やり取りしていたのはショートメールだったため、その番号は直接寧々の電話番号になっている。今までは彼女のプライベートの一線を越えないようにと、電話をかけたりすることは自ら戒めていたのだが、突然のアクシデントに気持ちのやり場を失った陽平は禁断の番号を打ち込んでいく。
==プルルルルル、プルルルルル==
発信音はなれども、寧々は出てくれない。もう一度メールを送ってみる。
―まさか飛んじゃった?もう会えないの?―
やはり何分たってもその返事は返ってこなかったのである。
陽平は茫然自失のまま帰宅するしかなかった。
昨日、妖艶なまでの美しいダンスを見たばかりである。そのときの興奮冷めやらぬまま突入した今夜。そして寧々はいなかった。連絡も取れない。陽平の胸の中に強烈な風が吹きぬける。今の陽平にはその気持ちをぶつける先がない。秀哉には聞かれたくない話だし、加藤女史にも話せない。もちろん梨香や琴音などに話すことはもっての外である。
ただその脚は自然と『かば屋』に向かっていた。
店に入るとカウンターの隅を陣取り、炙りたらことモズクとハイボールを注文してケータイを取り出した。寧々からの返信がないかもう一度確認したのだが、電話の痕跡もメールの返信も何もなかった。
「おう、どうしたんや。やけに塞ぎこんでるやないか。」
マスターが陽平に声をかけたのだが、
「別に何にも。ちょっと一人にしといてもらえます?」
素っ気無い返事を返すしかなかった。
今、陽平の頭の中では『ナイトドール』での寧々の言葉と『ロンリーナイト』での妖艶なダンスが渦巻いていた。
今までにも色んな女の子の話を聞いてきた。店に無断で辞めてしまうことを「飛ぶ」というらしいが、過去にもいきなり飛んでしまった女の子を何人か見てきた。そんな女の子の多くは期待して入って来たものの、結局は固定客がつかないために稼ぎが少なかったり、客や店との間でトラブルがあったり、親バレしたのが原因だったり。
そんな子の多くは、大概予告もなしに急に店に顔を見せなくなる。もっといえば普通に円満退社する子の方が少ないという。
唯一の救いは、前回までのような猛烈な恋をしていなかったと自覚していること。ため息は出るものの泥沼の中でもがく程の傷心までには至っていなかった。
しかしながら、恋に落ちていなかったわけではない。あわよくば寧々の恋人になりたいと思っていたのは事実である。ちょうど今時分が陽平にとって恋多きタイミングであったのが救いになったかもしれない。琴音との約束がなかったら、きっと気持ちのゆとりは全くなかったことであろう。『かば屋』の片隅で静かにハイボールを三杯空けた陽平は、やがて落ち着きを取り戻し、それでも言葉少なに店を出た。
基本的には心の奥底にぽっかりと穴を開けたまま・・・。
陽平は帰宅後、その日のうちにもう一度HPを見直して、寧々の出勤予定表を確認した。そこに記載されている予定表では月曜日も水曜日も出勤することになっていた。それだけを確認すると、気持ちはすでに月曜日に向かっていた。
「月曜日、もう一回行ってみるしかないやんな。」
それだけつぶやくと、ひっそりとベッドの中の暗闇へ沈んで行ったのである。
翌朝、彼が一番にしたことはなんだっただろう。
もちろん、ケータイのチェックである。自分が寝ている間に電話やメールの着信がないか確認することである。
しかし、陽平の期待に沿うような答えはなく、ただ平面な画面だけが嘲り笑っているかのようだった。
その日は休みだというのに、何もする気が起こらなかった。朝から茹だるような暑さの中、ただガンガンにエアコンを効かせた部屋の中で何をするでもなく、ただぼんやりとベッドの上で天井ばかりを見つめていた。
「寧々にとって自分は一体何者やったんやろ。やっぱ、ただの客やっただけなんやろか。最後の日は教えてくれるっていうてたのに。」
なんだかそう思うと悔しくなってきた。結局彼女に一方的に入れ込んでいただけのマヌケだったのか。それなら今までとなんら変わりはないではないか。
そんなことを繰り返しつぶやきながら悶々としていた。ここまでは今までの陽平と全く同じである。しかし今回の陽平は少し違った。今までならただ落ち込むだけで、数日間は全く持って気力も何もない人間となっていたのだが、この日の陽平は午後には少し自分を取り戻していた。
「もう一回メールしてみよ。電話はきっと出てくれへんよな。店のブログになんか書いてあるか見てみよ。」
しかし、結果的に陽平が望むような結果はどれも果たしてくれなかったのである。そしてまたぞろベッドの上でゴロゴロしていただけだった。
何もしないうちに夜を迎えた陽平は、いつの間にか部屋が真っ暗であることに気付いた。外はすでに街灯が灯り、向かいの家のリビングも白く蛍光灯が光っていた。
たいして腹も減っていなかったのだが、気分転換にとカップ麺だけを胃の中に放り込んでみたものの、気分が変わるわけでもなく。結果的にこの日は一歩も外へ出ずに過ごした。
翌朝は寝覚めが悪かった。
寝たのか寝てないのかわからぬまま夜を明かした。まだだるさの残る体をたたき起こして出勤しなければならない。サラリーマンの悲しさでもある。
ボーっとした頭で出社した陽平は、いの一番に加藤女史に呼び止められた。そしてそのまま給湯室へと拉致される。
「おはよう。で、金曜日はどないやった?エエ子おったか?回数通わな二回目の出会いはないで。はよう連絡取れるようにならんと。」
「はあ。」
朝から気力のない陽平は、加藤女史の先制攻撃に耐えうるだけの忍耐力がなかった。
「どないしたん。なんかやらかしたか?」
「別に。今日はちょっと気分が悪いんですわ。仕事はちゃんとしますさかい、今日は定時で帰らせてください。」
「はあ。寝冷えか?クーラー効き過ぎてんのとちゃうか?」
そういえば昨日は一日キンキンに冷えた部屋でボーっとしていたのだが、エアコンの温度なんか気にもならなかった。
「すんません。」
そう言うと、もう少し話を聞きたかった加藤女史は陽平を捕まえようとしたが、その手をすり抜けるようにして自分のデスクに座り込んだ。そして第一声がやはり溜息だった。
「はあ。」
肘を立て、その上にアゴを乗せ、面倒臭そうに目の前のパソコンの電源を入れる。とにかく決まっている就業時間内は仕事をこなさねばならない。今日中に仕上げなければならない原稿は二つ。その一つ目に取り掛かると、無言のままキーボードを叩き始めた。
鬼気迫る勢いの姿に、加藤女史も梨香も黙ったまま見ているしかなかった。
正午。仕事に区切りがついたものからランチタイムに入る。
ところが気が滅入っている陽平は中々区切りがつかない。いつまで経ってもパソコンとにらめっこしていた。それを見かねた梨香が声をかけてくる。
「尾関さん、まだひと区切りつきませんか?」
「うう、ありがとう。でもボクのことは気にせんとお昼いっといで。」
後ろから瑞穂が梨香の袖を引いている。
「梨香、行こや。尾関さん終わりそうにないし。」
瑞穂に催促されて渋々その場を立ち去る梨香だったが、その様子を見ていた加藤女史が梨香を呼び止めた。陽平からは見えないように、また聞こえないようにひそひそと耳打ちしている。加藤女史から何かを受け取った梨香は瑞穂と二人、事務所を出てランチに出かけた。二人を見送ってから陽平のそばまでやってきた加藤女史。
「いつまでかかってんの。さっきから見てるけど、一ページも進んでないやんか。どうせまたなんかあったんやろ。おねいさんが聞いたるから話してみ。」
といわれて話せる雰囲気にはならない。しかも話せるような内容のものでもない。
「大丈夫ですから。今日だけですから。」
以前のような沈んだ恋煩いでないことは自分でも自覚できている。何が納得いかないのか自分でもわからないだけなのである。ただ時間が過ぎることだけを待っている今日の陽平にとっては、終業時間までは単にもがき苦しむだけの時間となっているだけなのだ。
もはや呆れたような表情で立ち去る加藤女史。自分のデスクに戻ってお弁当を広げ始めた。二十分ほどして戻ってきた梨香と瑞穂は、どこで買ってきたのか、両手にお弁当を抱えて陽平のそばまでやってくる。
「尾関さん、お弁当買って来ました。一緒に食べませんか。」
「うう。食欲無いんだ。ごめんね。」
「折角買ってきたんだから食べましょうよ、三人で。どれでも好きなの選んでいいですから。味噌汁もありますよ。」
瑞穂も笑顔で投げかける。
「食欲無いんだ。」
すると、その様子を見かねた加藤女史がすっ飛んできた。
「こらあ、陽平!同じ事務所の若い女の子たちが心配して買ってきた弁当なんや。偉そうにしとらんと、ありがたくちょーだいせえ。」
頭から超ド級の雷を落とした。
見ると梨香も瑞穂もべそをかいている。その姿をいじらしいと思った。
「ごめん。キミらに心配かけて。頼もしい後輩やな。」
梨香と瑞穂に手を引かれ、接客用のソファーに腰を下ろした。梨香は買ってきた弁当を広げ、瑞穂はお茶の用意をする。
「さて、どれがいいですか?唐揚?野菜炒め?それとものり弁?」
「ボクはどれでもエエで。キミらが買ってきたんや、キミらから選び。そうや弁当代、ボクが払うわ。なんぼやった?」
すると梨香は陽平の耳元でそっとつぶやいた。
「軍資金は加藤さんからもらいました。内緒なんですが加藤さんの奢りなんです。」
それを聞いた陽平は、そっと加藤女史のほうへ振り返ってみたが、彼女はそ知らぬふりで、自分の弁当を頬張っていた。
「加藤さんって、なんでも気が利くんですよね。ウチらも加藤さんみたいなデキル女になりたいな。」
意外にも、そうつぶやいたのは瑞穂だった。とうとう彼女も加藤女史の一派になってしまったようだ。
何やら胸の奥に詰まっていたものがほどけたような気持ちになった陽平は、少し笑顔を取り戻し、三人で仲良くお弁当を食べた。実際に食欲のなかったのは事実であり、無理やり胃袋へ押し込んだことに変わりはなかったのだが。
ひと悶着あったランチタイムだったが、その後の陽平の仕事は午前中とは見違えるほど、とまではいかないまでも、なんとか二件分の原稿を仕上げた。加藤女史のOKとその上の課長のOKも取り付けた。メールで送信したあとは、クライアントの部長なり課長なりの判断を仰ぐだけである。
そして時計を見上げると、終業時間はやや過ぎていたが、予告どおり、「お先に」と言い残して事務所を出た。行き先はもちろん『ナイトドール』である。
開店直前のHP情報でも、今宵の寧々は出勤予定になっており、望みを持って店に向かって、ただひたすら歩いた。
やがて見慣れた景色を背景に店への階段を昇る。すでに開店時間は過ぎていた。店内に鳴り響いている大音量のBGMが店の外までこぼれている。
意を決してドアを開けると、いつものボーイが待ち構えていた。
「いらっしゃい。今日は誰を指名されますか?」
いつものボーイなので、陽平が誰の客であるかは知っているはずなのだが、冷静沈着な彼の表情からは何も読み取れなかった。
「寧々さんいますか。」
のどの奥から絞り出すような声で訴えかけたのだが、帰って来た返事は。
「寧々さんは今日もいません。次はいつ来るかわかりません。他にも可愛い女の子いますよ。寄っていきませんか?」
しかし、今の陽平にはボーイが話しかけた後半のセリフは、もう耳に届いていなかっただろう。「次はいつ来るかわかりません」という言葉だけが、陽平の頭の中で谺のように連呼していた。
「やはり・・・・・。」
陽平が予想していた最悪の事態である。言葉を失う陽平。今宵はもう『かば屋』へ行く気力もなく、とぼとぼと肩を落としてアパートへと帰って行った。
部屋に帰るとパソコンの電源を入れて『ナイトドール』のHPを開いてみた。出勤情報には相変わらず寧々の名前が掲載されているが、もはやそれが現実化することはないのだろう。その現実をしっかりと受け止めるしかなかった。恋はしていたが陥落していなかった陽平は、今回に限っては気持ちに踏ん切りをつけた。
最後に『ロンリーナイト』で見た笑顔とウインクはサヨナラの合図だったのかもしれない。そう思うことにした。そう自分に言い聞かせた。
「今回は通った回数が少なかったからな。」
やっとの想いで振り絞った言葉だった。
翌朝、寝覚めは良かった。
昨日訪れた『ナイトドール』での現実が、ひとつの区切りとなったのである。
心の奥底にやりきれない想いはあるけれど夢は夢、もっと現実を見なければ。そう思い立ったのである。
その支えになったのは、この土曜日に約束されている琴音とのデートである。神社仏閣巡りとはいえ、二人きりになるのである。その事を思い起こした途端、寧々の事については考えないようにできた。
出社すると加藤女史がいつものように待ち構えていた。
「おはよう。で?今日の調子は?」
「おはようございます。今日は大丈夫です。ありがとうございました。」
陽平も素直に礼を述べた。
そして今回は自ら梨香と瑞穂のところへ赴き、
「昨日はありがとう。お礼に今日はランチ奢るで。」
その言葉に梨香も瑞穂もあふれんばかりの笑顔になった。
「よかった。尾関さんの神妙な顔なんて似合わへんし。ご馳走になります。」
瑞穂も笑顔だった。
梨香はというと、やや押し黙った感じで、ささやくような声で、
「なにも聞かん方がええんですよね。」
「うん。何にもないし、大丈夫やから。それより、美味しいランチの店、ちゃんと探しといてな。ほなあとで。」
昨日とは打って変わって元気な声で、颯爽とデスクへ向かう陽平。梨香も瑞穂もその後姿を見送っていたのだが、急に瑞穂が梨香につぶやいた。
「尾関さんって案外いけるかも。ちょっと可愛いとこあるし。」
すると梨香がそれに応戦するように、
「順番はウチが先やからな。」
瑞穂はその言葉を無視して自分のデスクに戻っていった。
二人とも土曜日のデートのことは何も知らない・・・。
そしてはからずも金曜日がやってくる。
すでに琴音との待ち合わせ時間や場所についてはメールなどで連絡を取り合っており、あとは明日が来るのを待つだけである。
今週のうちに完了すべき仕事はすでに陽平の手を離れていた。今日は残業する材料もなく、かといって早く帰ったところで、テレビを見て過ごすだけなんてつまんない。
そこへやってきたのは梨香と瑞穂だった。
「お疲れ様でーす。今日は予定あるんですか?例のお店に行くんですか?」
『ロンリーナイト』のことを知っている二人の矛先はいつもそこに行き着く。
「今日は行かへんよ。」
「じゃあ、ウチらと飲みに行きませんか?」
先に口火を切ったのは瑞穂だった。一体何に火がついたのだろう。梨香と瑞穂がやけに積極的に接近してくる。特に瑞穂の言動が変わりつつあることに陽平も気付いていた。もちろん、ちょっとしたモテ期なのかなと勘違いするのも陽平らしい。
「うーん。どうしようかな。両手に花って悪くないな。」
そこへ立ち入って来たのが課長だったが、これは梨香と瑞穂に一蹴された。そこで三人の監視役に抜擢されたのが言うまでもなく加藤女史だった。課長あたりは社員同士の恋愛には消極的なご様子だ。そんなことは気にも留めない加藤女史はおまかせあれと積極的に監視役を買って出る。
「さあ、そうと決まれば、いざ出発。キミらのおかげで着物工房の仕事、課長に渡せたし。今日は奢らなあかんな。」
「ごちそうさまでーす。」
こういうときの声が大きいのは関西人特有か。今宵の行き先は『かば屋』のようだ。加藤女史がどうしてもといって聞かなかった。彼女の目的は何か。
『かば屋』は今宵も大繁盛。多くの客がたむろしていた。それでも四人がけのテーブルを確保すると、夏は生といわんばかりに大きめのジョッキと唐揚を注文し、急ぎ早に枝豆とともに運ばれてくる。
肴はもっぱら陽平の近況情報である。
「こないだの件は解決したんか?」
加藤女史ののっけからの問いかけは、月曜日の陽平のうかない様子の件である。
「何でもありませんよ。」
「ほんまはあの店でねんごろになりかけた女の子に振られたからちゃうん。」
「そんなすぐに何度も合えるほど通ってませんから。」
そこで梨香が首を突っ込んでくる。
「どういう意味ですか?」
梨香に説明するのは加藤女史だった。
「あそこの店はね。連絡先の交換はいつでもOKなんだけど、実際に連絡するためにはもう一度あの店で会わなきゃいけないっていう暗黙のルールがあるねん。」
「それって暗黙なんですか。」
「一応表向きはね。それでもしてまう人おるけど、焦ってるって思われるから、たぶんあかんやろけどな。」
「それで、尾関さんは何度も会えた人がいるんですか?」
「おらんよ。それに、そんなに何度も通ってたらボク破産してしまうがな。」
「ほんならこないだの、あのズズンと沈んでた様子はなんやったん?」
「ちょっとした勘違いですわ。翌日はケロッとしてたでしょ。」
「なんで今日は行かへんの?」
「せやから、そんな毎週行ってたら破産するって言いましたやん。」
「私がきいひんかったら、佐々木さんと中浜さんの分も奢るつもりやったやろ?」
「まさか彼女らと割り勘はないでしょ。それぐらいの手持ちはありますよ。でもあそこはそんなに頻繁に行くとこなんですか?」
「頻繁に行かないと複数回会えないでしょ。」
「わかりました。来週は行くようにしますよ。だからそっとしておいてくださいね。ところで梨香ちゃんに瑞穂ちゃん。キミたちの最近はどうなん?」
陽平は頃合の良さそうなところで話題を変えたつもりだったが、タイミングとしては悪かった。注文した唐揚を持ってきたのがマスターだったからである。加藤女史の目的はここにあった。
「マスター、最近暗い感じの尾関クンを見ませんでしたか。」
「ああ見たよ。こないだの土曜日やったかな。なんやカウンターの隅っこの方で黙って飲んどったなあ。声かけても一人にしとけっていうから、ほっといたんやけど。」
「やっぱりなんかあったやろ。正直に言うてみ。」
折角話の方向を別に向けたのに、またぞろ矛先が戻ってきたのには辟易する。しかし、寧々のことは絶対に言いたくなかった陽平である。今回だけは知らぬ存ぜぬで通したい。
「マスター、ボクのことは忘れて。はいはい仕事、仕事、ほらほら、バイトの子がおろおろしてるやんか。はよいったげて。」
陽平はマスターの背中を押すようにしてテーブルから追いやった。
「なんか怪しいですね。ウチらに聞かれたらまずいことなんですか。」
「あんな、キミらが気にすることやないの。それよりも唐揚たべや。」
その様子を見ていた加藤女史は何かを察したのか、マスターの態度である程度予想がついたのか、陽平への疑念は追及しない方針に切り替えた。
「もうわかった。あんたはわかりやすいから助かるわ。それより佐々木さんと中浜さんの話はどうやの?」
「ウチらは別に何にもないです。そやからはよう旦那さんにカード探してってお願いしてますやん?」
「ああそうやったな。中浜さんは?」
「ウチも全然。ウチなんか梨香のあとの順番待ちですよ。」
「キミらは若いんやから、そのまんまクラブでも相席でもいったら、なんぼでも相手みつかるやろうに。」
「そんな尻軽なとこ行ったって、ろくな男おらんやないですか。」
「あっこの店もチョボチョボやとおもうけどな。」
「それよりも尾関さん、食べ物で嫌いなもんありましたっけ?」
話題を変えてきたのは瑞穂だった。
「うん?梅干以外やったらなんでも食べるけど。なんで?」
「こんど梨香とどっちが美味しいお弁当作れるか競うことになったんで、一応聞いとこうかなあと思って。」
もちろん瑞穂の作り話であったが、梨香もこれに相乗りしてきた。
「先に情報聞くなんてずるいな。あとでその話を聞こうと思ってたのに。」
そんなこととは露とも知らず、目をみはって聞き入る加藤女史。
「そんな話になってんの?ターゲットは尾関クンなん?」
「いいえ、誰にしようかまだ決まってなかったんですけど、誰でもいいけど、まあいい機会やから尾関さんでもええかってことになって。」
まあ、口からでまかせもいいところであるが、どちらかというとしかめっ面をしているのは梨香の方だ。どうにも瑞穂が陽平に対して本気でモーションをかけ始めたからでもある。
加藤女史もわかってはいる。少々マニアックな行動を目隠しすれば陽平は決して悪い男ではないということ。抜群のハンサムではないが、よく言えば母性を刺激する子供じみた少年っぽいところがあり、最近の女の子にはこういった男の方がうけるのかもしれないとも思う。(扱いやすい男ということかも。)
「どっちが尾関クンのハートを揺さぶるか楽しみやね。」
「どうせ喜ばすだけ喜ばしといて、あとで肩透かし食らうに決まってますから。全然期待なんかしてないです。」
「あのね、ただのお弁当ゲームやし。へんな気ぃ起さんといてくださいね。」
梨香はそう言って陽平を嗜めた後、瑞穂に目線を向けたが、彼女はただ黙ったままニコニコと微笑んでいるだけだった。
そこから先は彼女たちの突如として始まったお弁当ゲームのルール確認をしながら、陽平の好き嫌いを取材するかのように聞き取っていた。
その様子を加藤女史は微笑ましげに見守っていた。
翌日は琴音とのデートの日である。待ち合わせは出町柳駅に八時。
少し早めに到着した陽平は、手持ちのペットボトルの飲料水でのどを潤しながら彼女を待っていた。緊張のあまり異様に喉が渇くのを覚えていた。
ややもすると目の前に一台のタクシーが止まり、中から琴音が出てきた。
「おはよう。待った?」
「そんなに。それにタクシーで来るなんて思ってなかったから。もしかしてどっかのお嬢さん?」
「えへ。ちょっと寝坊しちゃって。慌ててたら電車を乗り間違えちゃって、結局タクシー拾っちゃった。」
「どう間違えたん?」
「ウチ、丹波橋なんだけど、京阪に乗らなきゃいけないのに地下鉄に乗っちゃっって。どうしようと思ったんだけど、ネットで調べてとりあえず今出川で降りてそこからタクシー拾って・・・。」
「そんなに急がなくてもよかったのに。ボク、人を待つのってそんなに苦にならへんタイプやから。」
「女の子にはうってつけね。」
「じゃあ行こうか。切符はもう買ってあるから。」
陽平は叡山電車の貴船口までの切符を琴音に渡し、二人で改札をくぐる。午前中とはいえ、京都における真夏の風は鴨川沿いでも涼しいとは言いかねる。
近年改装されたこの路線の車両は窓の大きい展望車両やデザインが豊富な車両、はたまたノスタルジックな車両と豊富なラインナップを揃えている。
二人が乗車したのは昔ながらの古風なノスタルジック車両だった。車内は昭和の色濃く、木製の窓枠やつり革などが装備されており、落ち着いた感じが乗客の目を和ませてくれる。
「琴音さんドリンク持ってる?山道の途中にはお店とかないけど。」
「大丈夫。それにもうそろそろもう少し砕けた呼び方ない?わたしがヨウちゃんって呼んでるのに。」
「じゃあ、琴ちゃんでええかな。」
「うん。」
お互いの砕けた呼び方も決まり、打ち解けあった雰囲気で山道に挑む二人。これから向かう先もやはりノスタルジックな場所である。近代化が進んだ都市の風景とは異なり、山奥にある鞍馬寺付近は神気に満ちた異世界でもあり、今が現代であることを忘れさせてくれる。さらにそこから木の根道と呼ばれる道のりを歩くと貴船神社にたどり着くのである。登り下りのある道を三時間ほどかけて歩くのだから、日頃の体作りがものをいう。
学生の頃からサッカー部でならした陽平には、多少の自信があった。社会人になってからは少しなまってはいるものの、女性が相手なら自分の方が体力的は上だと思っていたのだが、歩き始めて一時間もすると陽平の息は上がり始める。チラッと隣を見ると、彼女はまだまだ涼しい顔をして歩いている。
「琴ちゃん、全然大丈夫そうやな、凄いね。」
「私ね、今でもマラソン大会に出たりするのよ。暑い時期の大会には出ないけど、十月頃から三月まで、三つぐらいの大会に参加してるの。」
「どうりで。途中でへたばったらおぶってもらおかな。」
「もちろんそこに置いていくわよ。ほら、頑張って。」
このハイキングコースに誘ったのは陽平である。自らが落ちこぼれるわけにはいかない。暑いとはいえ山道であるがゆえに木陰が多い。それが救いである。昼は名物の川床で贅沢なランチを楽しんだ。陽平にしては随分と奮発したに違いない。
「こんな贅沢久しぶり。一度こんなところでそうめんを食べてみたかったの。」
琴音には喜んでもらえたようだ。
午後からは一旦宝が池まで戻って八瀬に向かう。そこからケーブルカーに乗って比叡山へと歩いていくのである。もちろんその先にはかの有名な延暦寺があり、パワースポット巡りのゴールとなる場所である。
山の上から見下ろす景色は、陽平の胸にあったモヤモヤしていた気持ちをスッキリとさせてくれた。一瞬、今日がデートであることを忘れていたかのような清々しい気持ちにもなった。
帰りは坂本方面へケーブルカーで降りて行き、京阪電車に揺られて三条まで。夕食は陽平がかねてから目をつけておいたステーキハウスへ琴音をエスコート。
「運動したあとはタンパク質をとらないとね。」
「うふふ。今日はかなり歩いたもんね。大丈夫?」
「いや、あんまり大丈夫じゃないかも。すでにあっちこっちが痛い。」
「私だったからよかったものの、普通の女性なら午後からはキャンセルになるコースよ。でも楽しかったわ。」
「喜んでもらえてよかった。またデートしてくれる?」
「いいわよ。でもね、もっと普通のデートでいいのよ。映画を見たり公園を散歩したり。普段のヨウちゃんの姿が見たいわ。」
「今日でも結構な普段着のままやねんけどな。」
「まだよ。本当のヨウちゃんはもっとラフな人。まだ私の前で着飾ってる気がする。」
「じゃあ次はとことんラフなオイラを見てもらうとするかな。」
ワインで乾杯したあとは、お互いの仕事の話や趣味の話などで充分盛り上がった。デザートのシャーベットを平らげた時、すでに八時を越えていた。
「今日はありがとね。」
琴音がニッコリと笑って席を立つ。すると陽平をエスコートするかのようにつかつかと店の外へと引っ張って行った。
「いや、あの、会計がまだ。」
「もう済ませたわよ。」
「えっ?それはいかん。女の子に出させるなんてもってのほかや。」
「いいの。まだ私たちは付き合ってるわけじゃないのよ。お昼も電車代も拝観料も、みんな出してもらったら私の気が引けるじゃないの。さっきトイレに立った時に済ませてあるから、心配しないで。私だってちゃんとお給料もらってるのよ。しかもそれなりに。今日は楽しかった。だからねっ。」
「でも・・・。」
「たまたまね、あのお店、わたしのカードで支払うといっぱいポイントがつくの。だからとってもお得だったのよ。」
「じゃあ今回は甘えます。ご馳走様でした。で、この後はどうするの」
「今日は帰る。だってまだ最初のデートでしょ。いくら大人だからって、ねっ。」
琴音は一体どんなことを想像していたのだろう。陽平が想像していたよりもはるかに壮大なことを考えていたのかもしれない。
ワインのアルコールでほんのり頬の染まった琴音を京阪の駅まで見送ると、陽平はJRの駅に向かって歩き始めた。ここからだとバスに乗るか地下鉄に乗るか。しかしこのまま素直に帰るのもなんだか癪な気もする。今日は土曜日なのである。
しかし、すでに筋肉痛に見舞われている体を引きずってまでして繁華街をうろつく気にはなれなかった。今回は気力が体力に負けたのである。
「疲れた体には炭酸と湿布が一番効くはずや。」
陽平は薬局へ駆け込むと、大判の湿布薬を買い込み、コンビニで三本の缶チューハイとつまみを仕入れてアパートへ帰って行った。
帰りの電車の中で、琴音の顔と寧々の顔とが交互に浮かんでは消えていく。関わりが始まる人、関わりが薄れ行く人。そういった思いもフェードイン・フェードアウトしていくものなのだろうか。そんな風に思っていた。
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