第10話 メールアドレスとチョコレート
お互いの存在を意識しながらステージと客席の間で目線を交わしていた夜。陽平は、唯一『ロンリーナイト』でもらった名刺のことさえ忘れていた。
その帰り道、陽平は会社からの電話を受けた。時間はすでに夜の九時を回っていた。
「誰だろう今頃。」
電話の向こうは聞きなれた梨香の声だった。
「どうしたん?なんでこんな遅くまで残ってるん?」
「今どこにいるんですか?またあのお店に行ってたんですか?」
「いや、友達と飲んでるとこやけど?どうしたん?なんで会社からなん?」
「帰ろうと思ったときに、計算間違いが見つかって、書類のやり直ししてましてん。月曜の朝までに提出しなあかん書類やから、今日やらなあかんかって。でももう終わりましたし。ほんで、お腹空いたからどっか連れてってくれませんか?」
「ん?また強引やな。ボクの友だちが一緒におってもええんか?」
「いいですよ。その方が安心やないですか。」
「なにが安心?」
「変なところへ連れて行かれへんか。でも尾関さんが責任取ってくれるなら変なところでもいいかも。」
「冗談はよしなさい。ご飯だけやったら近くの店でええやろ。つきおうたるさかい、京都駅までおいで。この時間やったら居酒屋ぐらいしか開いてないやろけど。」
「優しいなあ。尾関さんやったらそういうてくれるとおもてた。ほんなら片付けてから出るから十五分後ぐらいかな。」
「ええタイミングや。ほんなら十五分後な。京都タワーの下な。」
陽平も『ロンリーナイト』で大した食事を取ることもできなかったので、小腹は空いた状態だった。軽く一杯やるなら丁度よいのかなとも思っていた。
おおよそ十五分後、疲れ果てた顔をした梨香が現れた。
「お待ちどう。あれ、尾関さん一人?お連れのお友達は?」
「帰ったで。人見知りやねん。それに、エッチなお店に用事がアッたんちゃう?」
「もしかして、へんな店に連れて行こうと思って帰らせたとか。」
「違う違う。あそこのチェーン店でええか、行くで。」
京都タワーの横にある小路にこじんまりした居酒屋があった。チェーン店であるが客質も良く、安心できる店でもある。
陽平も梨香もハイボールを注文し、ジョッキをかち合わせる。
「カンパーイ。」
「何に乾杯か知らんけど、どんなミスやったん。」
「表計算ソフトの関数がまちごうてましてん。おかげで全部チェックし直して、計算式を入れ直して、プリントアウトもほぼ全ページ出しなおして、ホッチキスし直して、もう大変やった。それを前田課長と二人きりやで。加藤さんは用事あるいうて、先に帰らはったし。瑞穂はお先に~いうて見捨てるし。」
前田課長とは梨香のいるグループの課長で、仕事に厳しいことで有名である。ミスについては例え女の子といえども容赦はしない。そういう意味でも女性陣からは鬼のような上司と位置づけられている。
「確かに計算表作ったのはウチやけど、それまで一緒に確認してたやん。もっとはよ気づいてほしかったわ。」
「でも一緒にやってくれたんやからええやん。それにその流れやったら課長からご飯いこかって誘われたやろ。」
「せやけど課長と二人やなんて嫌や。尾関さんやったらギリギリセーフ。きっとラボの帰りに例のとこへ行ってはると思ったから、今頃でも捕まるんちゃうかなって。」
「その割には変なとこへ連れて行くなって警戒してるやん。」
「尾関さんは女の人に親切やからな。加藤さんとの雰囲気も結構やばい感じに見えましたよ。昔はなんかあったん違うんですか?」
「あーうるさい。とっとと食うもん食うて、さっさと帰ろ。送ってくのは京都駅までやで。あとは自分で帰りや。どこまでか知らんけど。」
「ウチの家は六地蔵ですけど、知りませんでした?実家から通ってますねん。」
「知らんがな。一回も送って行ったことないやん。」
「ああ、どっかの素敵な王子様が家まで送ってくれへんかなあ。」
「キミの事を大事に思ってくれる王子様をこの辺界隈で探してみたら。」
陽平は呆れ返るような顔をしてジョッキをあおった。空になったジョッキのお代わりとキュウリの漬物を注文すると、梨香は唐揚を追加注文した。
「この時間から揚げ物大丈夫か?」
「ええんです。ストレス溜まるよりは美味しいもん食べて発散するほうが。それにこんなとこらに、都合のええ王子様なんかいませんし。でも今日はありがとうございました。聞かんでもええ愚痴を聞いてくれて。ホンマに尾関さんが捕まるとは思いませんでしたけど。」
「これでも後輩思いやねんで。わかった?」
これが梨香や先の店での琴音がいう、誰にでも優しいと指摘される部分なのだろう。最もいけないのは陽平自身にその自覚がないことである。そこを割り切れないがために、踏み込みすぎたり三行半を渡されたりするのである。
居酒屋で空腹を満たした陽平と梨香は、最終電車がなくなる前に駅に向かわねばならなかった。そしてその時刻が迫っていたのである。
「さあ、そろそろええ時間や、帰ろか。」
「今日は突然すみませんでした。ご馳走様でした。」
「やけに素直やな。」
「ウチはいっつも素直ですよ。」
この食事会は梨香にとって一つの分岐点になったのは確かかもしれない。少なくとも、瑞穂よりは一歩近づいたと自覚した夜になった。
なんだか訳のわからないまま、梨香との食事会となった翌朝。陽平はいつもどおりの土曜日の朝を迎えていた。
ソーセージエッグと白飯を頬張りながら『ナイトドール』ホームページをチェックするのが、このところの土曜の朝の日課にもなっている。もちろん寧々の情報を探るためである。
「あるある。今日も予定通りの出勤みたいやな。」
したり顔でお店の女の子の出勤情報を確認していた時、突然ケータイのメール着信音が鳴った。
「誰かな?」
未登録者からのメールだったが、恐る恐る開いてみると、
―寧々です。昨日はありがとう。お店の人には少し叱られたけど、良かったって言われた。来週もよろしくって。今夜は来てくれるん?―
陽平の頭の中は一気にお花畑になったに違いない。待ちに待った寧々からのメールに小躍りしている様は、誰にも見せられないだろう。
それでもすぐに返信してみる。
―もちろん行くよ。お土産は何がいい?―
―そのへんで売ってるチョコでいいよ。A製菓のホワイトチョコが好きかも。―
―わかった。じゃあ今夜ね。―
お気に入りの女の子とメールで会話するって楽しいの知ってる?世の馬鹿な男どもが女の子に落ちていく最も単純なパターンの一つだろう。恋多き陽平にとっては、麻薬と同じかもしれない。
馬鹿な陽平は、スーパーに寄ってA製菓のホワイトチョコを十個もまとめ買いし、それを丁寧に包装紙に包んでバッグに忍ばせる。
これで今宵の準備は出来上がるのである。
ああ、夜が待ち遠しい。
いつものように開店時間の少し前に到着する陽平。
いつもと同じように待合室に通されると、いつものように何人かの客と並んで座る。
今日も開店と同時に激しいBGMが店内から流れ始めた。
シートに案内されると、あとは寧々が来るのを待つだけである。
「いらっしゃい。ちゃんと来てくれるんやね。うれしいな。昨日もありがとう。お客さんからチップもらったダンサーは久しぶりやって言われた。でもあんまり男の人に近づきすぎたらアカンでって叱られた。」
「でも、目がおおたから。ニコッてしてくれたし。」
「お礼しなあかんな。」
そういうと寧々は陽平の膝にまたがり、今宵最初のサービスにこれ努める。ネットリとした温かい甘い香りとともに花園の楽園ような舞台の展開が始まる。もちろん主演は寧々である。舌先をチロチロと弄びながら吐息を投げかける。セリフはいらない。息遣いだけがBGMとして背景を彩っていた。
第一幕が終了すると、陽平は寧々に甘えるようにおねだりする。
「綺麗なおっぱい見たい。」
下から見上げるような視線は寧々の母性を刺激したか、陽平の頭を抱えるようにして自らの胸元へと誘う。
陽平の手は、寧々の薄いビキニの下の方から内側へスルリと滑り込み、弾力のある豊かな丘陵へと辿り着いていた。しかし、いきなり頂点へは行かない。まずはボリュームのある滑らかな丘陵の温もりと肌の感触を味わうのだ。
すでに寧々のビキニは開放されて、露になってしまっている二つの美しき丘陵は、陽平の目前に迫っていた。
陽平は更に甘えるようにおねだりをする。
「おっぱいにキスしてもいい?」
返事の代わりにニッコリと微笑んで軽くキスをする。寧々の唇に承諾をもらった陽平の唇は、そのまま寧々の美しき丘陵の頂点へと移動する。桃色に妖しく光る頂点の石碑は、わずかながら震えるように陽平の訪問を待ちうけていた。
陽平のキスは、最初は軽いタッチで、次いで赤子が母に乳をねだるように吸い、後に愛でるように舌先で挨拶を施していく。最後に一度アイサインを送ってから軽く歯を当てて、一通りのコースが終了するのである。
陽平がキスをしている丘陵の反対側はどうしているかというと、もちろんのことだが、もう片方の手によって占領されている。陽平にとっては至福のときであろう。
美しき丘陵に対する堪能を終えた陽平は、その丘陵の谷間から放たれる芳香を楽しんだ後、その鼻腔を首筋へと移動させ、寧々の匂いを確認する。自分がここまで匂いに敏感だったかと再認識させられる時間でもある。
寧々もようやく陽平の遊び方がわかってきたようで、安心して身を任せていた。知らぬ客にはどんなことをされるかわからないので、女の子たちも安心できるまでは完全に身を任せたりはしない。
陽平もそんな女の子のやり方は理解しているので、絶対に乱暴に扱ったりはしない。今までもそうだった。どちらかといえば弱気な男なのである。
さて、満足感を得た陽平は次のステップに取り掛かる。そう、お土産だ。
「今日もあるねんで、お土産。」
「ホンマに?今日はなに?」
すると陽平はカバンから小さな子袋を取り出した。
本来ならば前回の訪問時の土産として予定していた燻製のナッツと塩が詰まった小瓶とA製菓のホワイトチョコである。
「チョコレート風味のナッツやって。初めて見たんやけど、面白そうやから寧々ちゃんのお土産にしてみた。それとリクエストのあったホワイトチョコ。」
「いやあ、うれしいな。こんなん初めて見た。お酒に合いそうやな。それにこのホワイトチョコはウチが一番よう食べてるやつやし。」
「おうちでお酒飲んだりするん?」
「たまにかな。ワインでもあうかな。」
「塩味やから。そやそや、ボクと飲みに行く話は考えてくれてる?」
「うん、考えてるで。もうちょっと待ってな。ヨウちゃんやったら大丈夫ってわかってるから。学校もダンスももうちょっと落ち着いたら連れてってな。」
「連絡くれるん楽しみにしとくわ。」
さても何の確約もない約束なのだが、陽平にとってはこの上なくうれしい返事である。陽平のこの店でのデフォルトは2セット一時間四十分。少し物足りなさを残したぐらいがちょうどいい。多少の後ろ髪を惹かれる程度で帰るのである。今宵もそのつもりだった。そんな時間が訪れようとしたとき、陽平のタイムアップを知らせるアナウンスが流れる。
「もう帰るん?」
「そやな。寧々ちゃんがおねだりしてくれるんやったら、もう1セットおってもええで。」
まだまだ新人の域を出ない寧々は営業もあまりままならないままだった。
「そんなんまだできひん。」
「そやからボクを練習台にしてくれたらええっていうたやん。」
こういうときは甘えられたいのである。それが男の性というものである。
「もうちょっとおって、ってゆうて。」
寧々はやや下を向いたまま照れを隠すように小声で、
「お願いヨウちゃん、もうちょっとおって・・・・・・。いや、恥ずかしい。」
言ってからすぐに陽平に抱きつく。この瞬間こそが、もっとも罠に陥る瞬間かもしれない。わかっていても、鼻の下が伸びた客たちは財布の紐を緩めるのである。勘違いする瞬間。それがこの時なのかもしれない。
「ところで、次のポールダンスはいつだっけ?」
「ちょっと予定が変わってな。次の次の金曜日になった。来週はお友達と旅行行くねん。そんな遠くないけど。」
「そうかいな。せやけど学生のうちにいろんなとこへ行っといでな。社会人になったら、なかなか行かれへんで。ボクももっといろんなとこへ行きたかったなって、今になって後悔してるからな。」
とはいえ、アルバイトで稼いだ分の大半を旅行に使った過去のおかげで、四十七ある都道府県のうち、すでに四分の三を制覇している。その趣味が高じて現在の仕事についていると言っても過言ではない。
「あっちのお店もやけど、こっちのお店も来てな。せやけど、久美ちゃん辞めたの知ってる?」
久美ちゃんとは寧々と仲の良かった同世代の新人の嬢であった。陽平もヘルプで二、三回会ってやり取りしたことはあるが、久美が陽平を覚えているかどうかは定かではない。
「何回か会ったかな。でもなんで辞めたん?」
「お店とトラブルがあったみたい。どうも金銭的な話みたい。でも仲良しやったからめっちゃショックやってん。ウチもあんまり長くおらんかもしれん。」
「寧々ちゃんおらんくなったら寂しいやんか。でも他で会えるんやったらボクはかまへんけど、そんなわけにはいかんねやろ?」
「うーん。そうやな。」
さすがにそのあたりの返事は明確な回答を避けた。お店の女の子としては微妙なのかもしれないが、彼女はまだ学生であり、ほんのアルバイトなのである。ましてや金銭的なトラブルが目前にあったのなら、店に不信感を持つのは当たり前かもしれない。
寧々の連絡先はもらっている。それは一種の安心感でもあるのだが、女の子たちが店を辞めると同時に連絡はシャットアウトされることも知らないわけではなかった。過去の女の子たちがみんなそうであったのだから。
「ボクにとって寧々ちゃんはかわいい子。まだまだ将来もあるし、応援もしたい。客のボクがいうのは変かもしれんけど、こういう店は早よ辞めて、夢に向かって進んで欲しいと思ってる。」
やや気障っぽい、格好つけたつもりのセリフだったが、寧々は特に反応することもなく、天井の上の空虚を見つめるように目線の行き先を探っていた。
「お店にも黙って辞めるかもしれん。」
「寧々ちゃんの思うようにしたらええで。そやけど誰にもいわへんから、ボクにだけは教えてな。ちゃんと見送りたいし。ボクと寧々ちゃんとだけの卒業式しようや。」
「うん、わかった。ヨウちゃんだけにはちゃんと教える。」
陽平はとりあえず、その言葉に安心したようだ。今はそっと彼女を抱きしめるしか術はなかった。
その後の時間はいつもどおりに過ぎてゆき、やがて楽しい時間の終わりを告げるコールが投げかけられる。
「今日はこれで帰る。また来る。そのときはいつもどおりの元気な顔を見せてな。」
「大丈夫。ヨウちゃんが元気付けてくれるから。また来て、ウチのこと癒してな。こんなん言えるんヨウちゃんだけやし。」
これまでとは少し違う雰囲気に微妙な違和感を覚えながら店を出る陽平だった。
そろそろ夜の風もぬるくなってきた。その風も停滞すると、じとじととした空気が盆地の夜空に篭る。蒸し暑い京都の夜のおとずれである。
陽平の心の中も、なんだかジメジメとした嫌な空気が漂っていた。
ややネガティブな話を聞いたあの夜。
若干の違和感を抱えながら帰宅した陽平だったが、特段何ができるわけでもなく、やや不安な面持ちだけを抱いて過ごしていた。
週が開けていつものウイークデーが始まるのだが、やや不安な面持ちは一向に解消されなかった。会社でも帰宅してもパソコンから『ナイトドール』のホームページを開いて、寧々に関する情報を拾っていく。次の水曜日の出勤リストに寧々は掲載されていない。さすがに土曜日の出勤リストは発表されていなかったが、その日には出勤するものと期待するしかない。
そうすると必要になってくるのはお土産である。打合せやロケハン、ラボ出張などの機会が頻繁にある陽平にとって、途中で寄り道することなどは容易い。
その日は本格的な梅雨のシーズンを告げるかのような激しい雨が降る水曜日だった。夏休みの書き入れ時に間に合うように仕上げなければならない、とあるホテルグループの記事の打合せだった。
最近のホテルでは自前のプールを開放し、日帰りの客を招いてディナーショウを行うなどという企画を仲間内で協力し合うという作戦まで考えており、陽平の掲載する記事の冊子には、スタンプラリーの用紙までついているというおまけ付きだ。全てのホテルを制覇すると抽選で三組に宿泊クーポンがプレゼントされるらしい。
そんなことを打ち合わせた後、会社に戻る途中で面白そうな店を見つけた。メインはリカーショップのようだが、缶詰や輸入食品などのサイドメニューも豊富に取り扱っている専門店であった。
まるでその棚の陳列に誘われるかのように自動ドアを入ると、ワインやウイスキーなどの棚を見向きもせずに、食料品売場へと進んで行った。
陽平の目線の先は生ハムやスルメではない。変り種のつまみなのだ。色々と面白そうなものを物色していると、とあるインスタント食品の棚で目線が釘付けになってしまった。
「おっ、これはなんだ?」
手を伸ばした先にあったのはレトルトカレーであった。しかも「チョコレートカレー」だって。まさにお目当て中のお目当てである。したり顔の陽平は商品を小脇に抱え、さらに別の獲物を物色していく。結果的には、それ以上に陽平の気持ちをくすぐる商品はなく、大事そうに小箱を抱えてレジへとすすんだ。これまた丁寧にカバンの奥へとしまいこむと、あとは意気揚々として会社へ帰るだけである。
土砂降りの中をほうほうの体で帰って来たのだが、情けない傘しか持たない陽平は、頭の先からつめの先まで、文字通りずぶぬれの状態だったのだが。
「ただいまあ。」
会社へ帰ると、加藤女史が声をかけてくる。
「どうしたん、なんかええことあったん?顔がにやけてるで。」
ちょっとばかりドキッとした反応を見せたが、動揺しているそぶりを隠すように言い訳に全力を注ぐ。
「ああ、スタンプラリーの企画が喜んでもらえたみたいで、次の企画もよろしくって言われたんで。がんばろうかなと・・・。」
「そんなずぶぬれでか?おかしいんちゃう?」
「水もしたたるええ男でしょ?」
こんな会話が日常茶飯事なのだから、仲のいいことは間違いない。梨香や瑞穂が勘ぐるのもわかる気がする。
そしてそんな二人の会話を盗み見していた梨香がすぐさま駆け寄ってきた。
未だに二人の中を勘ぐっているようで、最近特に二人の動向に注目しており、この日も陽平が部屋に入って来た途端に加藤女史との会話で盛り上がることが気になる梨香であった。
「尾関さん、ええことあったんやったらウチにも教えてくださいな。またあの店に行ったんですか?」
「別になんもないで。それより梨香ちゃん、ボクとデートせえへんか?ええとこ連れてったろ。」
「ええ?もしかして二人だけでですか?それはちょっと・・・・・。」
妙に怖気づいている梨香の様子を見て加藤女史が梨香の背中を押すように口を挟む。
「おいおい、ここまで色々突っ込んできて、折角の誘いを断るか。そんなやつに例のカードは渡されへんな。」
「脅しですか?交換条件ですか?なら行きます。その代わりなんかあったら加藤さんも連帯責任取ってくださいね。」
「なにがあんねん。なんの連帯責任やねん。宇治にロケハン行くから一緒に連れてったろかっていうだけの話やねんけど。家も近いやろ?」
「なんで二人だけなんですか?」
「とある店でな、二人前の食事のコースを取材せなアカンねん。取材の前にお忍びで行ってみたろとおもてな。次の日曜日やけどどうやって言う話や。さすがに平日にはそんな理由の出張までは認めてくれへんからな。」
やや大きめの声で、これ見よがしに加藤女史にも聞こえるように梨香に諭す。
「しゃあないなあ。それやったら一緒に行ってあげます。まさか割り勘ってことないですよね。デートやし。」
「交通費まではでえへんけどな。」
ようやく梨香も納得できる話になったようだ。梨香にしてみれば機を見て駆け寄ってきた甲斐があったのかもしれない。それにしても女心は微妙である。
陽平にとっては二つの利点があった。一つは日曜日の食事会を約束することで金曜日や土曜日の夜の行動について、ある程度けん制できること。もう一つは形はともあれ梨香と二人きりでデートできることである。
何もないとは言いながら、据え膳食わぬはなんとやら。全く期待していないわけでもなかったのである。馬鹿な男の考えることって、単純なものである。
イレギュラーなやり取りがあったのはその日だけ。
あとは原稿の締め切りと写真の選考に追われる日々が続く。週末もラボには行ったが、まだ原稿がクライアントの了解を取れていないため、会社に戻っていくつかの修正箇所を書き直さねばならなかった。
予定では今宵の『ロンリーナイト』での寧々の出演はない。これもいいタイミングだったと胸をなでおろす陽平であった。
しかし、土曜日は『ナイトドール』へ行かねばならない。お土産もすでに買ってある。そのためにも加藤女史にも梨香にも、余計な詮索をされたくはないのである。
それでも金曜日の残業は加藤女史には気にかかるらしく、「今日は行かんのか」とか「はよ終わって行きや」などと追い討ちをかけてくれるが、陽平にとっては余計なお世話なのである。別に残業したくてしてるわけではない。早く終わりたいのは山々である。
「今日は行きませんよ。少なくともこれが終わるまでは出られませんからね。」
陽平がタックルしているクライアントの部長から明日までに仮原稿を上げるように指示されている案件である。徹夜するつもりはないが、今宵中には仕上げたいと思っている。
「手伝いましょうか。」
梨香も瑞穂も声をかけてくれる。
「大丈夫。もう少しで終わるから、キミらは早よ帰り。」
「佐々木さんも中浜さんも一緒に帰ろ。たまには一人で残業さしとき。」
加藤女史は二人を誘って会社を出た。後に残っている社員は陽平を含めて三人。いずれも明日の午前中までに仕上がりが必須とされているため、みな夢中でパソコンに立ち向かっている。
陽平の仕事が終わったのは、夜も十時を回ったあたり。まだもう一人頑張っていたようだが、「お先に」と声だけかけて部屋を出た。
腹もギューギュー鳴っている。確かにランチ以降は何も口にしていない。
「ちょっと遅いけど、どっかでメシ食ってかえろ。」
会社を出てボチボチ駅に向かって歩いていると、とある店から誰かが駆け寄ってきた。よく見ると梨香と瑞穂だ。
「お疲れ様。加藤さんも待ってますよ。」
「どこにおったん?」
すると瑞穂が指差した先には最近開店したばかりの焼き鳥やが赤々と電灯を照らしていた。
「待っててくれたん?」
「へっへー。」
と頭をかきながらモジモジした仕草で答えを濁していたが、
「その話はあとでしよ。」
瑞穂が陽平の腕を引っ張るようにして、その店へと導いて行った。
中に入ると確かに加藤女史がジョッキをあおりながら肘を立てて陽平が来るのをいまや遅しと待ち構えていた。
「遅かったやん。あんまりノロノロと仕事してたら、仕事が好きやと思われるで。」
「仕事は好きですから別にええですよ。それより、なんでボクの待ちうけなんですか?」
すると加藤女史に代わって瑞穂が口上を述べ始める。
「あのね尾関さん、梨香がね、ホンマに今日はあの店に行かへんのか探偵するっていうから、加藤さんと三人でこの店でずっと待ってたんですよ。」
「うん?それだけボクのこと心配してるってこと?」
「ちがいます。今日はいかへんっていうてはったけど、ホンマかどうか確かめよおもて。内緒にしてはるんやったら、そんだけ楽しいとこなんちゃうかなって。」
「今日は仕事やし、行かれへんってゆったやん。それに、加藤さんの旦那さんのカードはもらったん?それもらって行ったらええやん。」
すると加藤女史がその話に割り込んできた。
「ところがな、ウチの旦那は会員証どこいったかわからへんっていうて、今一生懸命探してはるとこやねん。」
「せやからはよ尾関さんに片付いてもらって、そのカードをウチがもらおうと思って。」
「そんな簡単にええ人なんか見つからへんで。」
「なっ、だから言うたやろ、今日は仕事やって。今度はいつ行くんか知らんけど、もうちょっとまっとき。それにあんたはそんなに焦らんでも、まだ若いんやから。」
梨香は口を尖らせながら、それでも加藤女史に甘えるようにねだるのである。
「いーや。そんなん言うてる間にエエ人を逃してしまうやないかもしれんやないですか。善は急げっていうんですよ。」
「多分、そのことわざの使い方、あってないと思う。」
まるで駄々をこねた子供をなだめるような陽平だったが、
「ええんです。ええから、早いことエエ人見つけてウチにそのカード譲ってください。」
これには瑞穂までがポカンと口を開けてあきれ返っている。
「とにかく尾関クンお疲れさんやから、ビールでも注文したげて。」
加藤女史も梨香の勢いにやや圧倒されていたが、遅くまで残業していた陽平へのねぎらいは忘れなかった。
やがて、運ばれてきたビールで乾杯を済ませると、今度は加藤女史が先週の『ロンリーナイト』の様子を聞きだすように問いかけてきた。
「ところで例の店の様子はどうやったん?」
「意外とたくさんの人がいました。年齢層は二十代中盤から三十台後半といったとこですかね。ボクなんかも割りと年輩組の感じでしたよ。男女の比率は半々ぐらいかな。はじめはあぶれてもフリータイムで追いつくシステムになっているようです。」
「男女比率があんまり偏るようやったら、入場制限しよるからな。建前上はただのバーやけど、実質は出会い系の店やからな。で、次はいつ行くん?」
「そんなん加藤さんにいわなあきませんか。監視されてるみたいでなんや嫌ですわ。」
「そうやな。ほんなら聞かんとこ。」
「ウチは知りたい。いつ行くんですか?」
「教えませーん。それより腹減ったんですわ。なんぞ食うてもええですか。」
陽平は唐揚と焼き串と冷奴を注文すると、すでに目の前に並んでいる手羽先に手を出し、ガツガツと頬張り始めた。
その様子をじっと見ていたのは瑞穂である。
「あーあ、口の周り脂だらけにして。」
そう言って紙ナプキンを渡そうとしたとき、瑞穂の先手を遮るように梨香が、いつのまにか自分のカバンから出していたウエットティッシュを渡した。
二人の様子がおかしかったのか、加藤女史がクスクスと笑い出した。
キョトンとした表情をしたのは陽平だった。
「どうしたんですか。」
そのうちにお腹を抱えて笑い出した加藤女史の一通りの衝動がおさまったとき、
「あのな、あんたは自分でわかってないかも知れんけど、いい意味で手のかかる男の子やなってことや。な、中浜さんもそうやろ。」
すると紙ナプキンを渡そうと思っていた手を引っ込めていた瑞穂だったが、
「そうかもしれませんね。」とただ一言呟いた。
その後の目線を梨香に投げかけながら・・・。
梨香からもらったウエットティッシュで口の周りと指先を拭きながらジョッキをあおり、何事もなかったかのように、運ばれてきた冷奴に手をつける陽平。その様子をじっと見つめる加藤女史と梨香。二人の間に座っていた瑞穂の表情は困惑気味だった。
それ以降は、加藤女史の計らいで仕事の話となったのだが、おおよそは課長や部長への不満だらけの内容になったので、ここに書き記すことは控えよう。
散会時間は零時の少し手前。最終電車に遅れないように急ぎ足で駅へと向かう四人であった。梨香は奈良線へ、瑞穂は湖西線へ、加藤女史は近鉄線へに、そして陽平は地下鉄へと。
翌日は爽やかな朝だった。
近年は梅雨の時期でも雨だったり曇ったり、ときには鮮やかな青空が垣間見られる晴天の日があったりするのだが、まさに今朝がそんな晴天の日だった。
天気予報は明日の朝までは雨が降らないらしく、今宵にお出かけの予定をしている陽平にとっては絶好のタイミングである。
「ラッキーやな。神様が応援してくれてるんかな。」
とは勘違いもはなはだしい。
特に用事の無い昼間は、ネットサーフィンを楽しんだり、テレビを見たりしてダラダラとした時間を過ごしていたが、夕方近くになると突如として慌ただしくなってくる。
そろそろ夕方までも蒸し暑い陽炎が街中を闊歩する時期である。特に今日のような梅雨の合間の晴れ間では、特に陽射しが強いと感じるものである。
エアコンは付けているものの、じっと座っていると背中などはジンわりと汗ばんでいる。その汗を流してから、軽くコロンを振ってみる。あとは、おろしたてのポロシャツと綿パンをはくだけではあるけれど。
「そろそろかな。」
壁の時計を見ると、その針は十七時の少し手前を指していた。いつものように待合室で時間をつぶすのは慣れている。それよりも一番の指名客になることが今の陽平にとっては必至の命題なのである。
肩掛けカバンに例のお土産と口臭予防液を放り込むと、お出かけの準備は万端だ。
お目当ての繁華街はJR沿線ではなく私鉄の沿線にあり、陽平のアパートからは二回の乗換えをしなければ辿りつかない。従って、時間を待つことに厭わない陽平の出発時間は、十七時で充分なのだ。
ゆとりをもって出かけることで、さほど急ぎ足で歩く必要がなくなる。おかげで特に汗ばむことなく店に到着できる。まだ三十代とはいえ、中年であることに変わりはなく、女の子に対しては汗の臭いに気をつけたい。折角のコロンが台無しにならないように。
果たして開店より二十分以上も前に着いた陽平は、予定通り待合室へと通される。そこにはいつものように常連客が二、三人ほど列を成して座っていた。
面白いのは、この行列の数が日にちによって異なるのである。やはり給料日との関係があるらしく、月の下旬が一番多く、中旬が最も少ないらしい。
やがてオープンを知らせるBGM鳴り響くと、いつものように順繰りに扉の中へと案内されていく。
今宵も陽平にあてがわれた座席は一番手前の通路のシートであった。
着席後わりとすぐにドリンクが運ばれて来て、そのすぐ後に寧々が現れる。
「いらっしゃい。大丈夫?そんな頻繁に来て。無理したらあかんえ。」
「大丈夫。それにこの店で寧々ちゃんに会えるんも、あと何回かやろ?」
「うふ。そやな。やっぱり久美ちゃん辞めたのが寂しいし、ショック。多分来月には辞めると思う。」
「ラストデーは教えてな。ちゃんと見送りたいし。ボクの手で送り出してあげたい。」
「ありがとう。ヨウちゃんにはちゃんと教えるから。」
「ほんなら今日は今日で遊んでな。まずはチョコのお土産。」
そう言ってカバンから取り出す例のモノ。
「なにこれ?」
「カレーやで。チョコレートの。面白そうやろ。ボクもおんなしモン買ったから、今度来るときに品評会しよか。」
「うん。ありがと。」
陽平はシートの上で両手を広げた。その胸の中に寧々が飛び込むように抱きついてくる。陽平の鼻腔の目前に寧々の首筋が密着し、彼女の甘い香りが自動的に吸い込まれていく。この甘美な香りが陽平にとってたまらなく好きだった。
次いで陽平は寧々の懐へと顔を埋めていく。たわわに実ったふくよかな果実が、これまた妖艶な香りを放っているのである。しかもその果実はやわらかくてあたたかい。
思わずその果実の先端に唇を合わせにいった陽平が赤子のような口づけを施したあと、甘えるような目線で寧々に許しを請う。
「ねえ、おっぱいにキスしてもいい?」
「順番が逆やん。もうしてるし。」
陽平はこのやり取りが好きなのである。決してムチャな扱いをしないとわかっている寧々も、その行為については許容範囲となっている。
そして、寧々のボディラインを楽しむかのように、折れそうな細い腰をギュッと抱きしめて、肌のぬくもりを堪能する。店の中ではそれ以上の行為は許されていないのだが、今の陽平にはそれで充分に満足できた。
寧々にとって陽平は特別な存在ではない。一人の客としての扱いである。それは陽平も理解しているつもりだ。しかし、『ロンリーナイト』のこと、もうすぐ『ナイトドール』を辞めることなど、店には内緒のことを知っている自分は、やや特別な存在ではないかという自負もあった。
「ところで、来週の金曜日は予定通り例の店での出演はあるの?」
「うん。一応、予定通り。また見に来てくれるん?」
「もちろん。あのダンスはとっても綺麗やった。めっちゃ良かったで。またおひねり持って最前列で待ってるし。」
「エヘ。でも、おひねりはもうエエんよ。それよりもお客さんからもらう拍手の方がうれしい。」
「どっちもボクの役目やな。まかしとき。あそこの店では最後のステージになるん?」
「たぶん。また別のステージ探してみるつもり。今の学校は短大やし、来年卒業したら本格的にダンスの学校へ行こうとおもてるし、そうなったらアメリカとかも行ってみたいし、ロンドンとかも行ってみたいし。」
「ええなあ、夢があって。こじんまりおさまってるボクとはえらい違いや。」
「ヨウちゃんも自分のやりたいこと仕事にしてるん違うん?」
「そうかもしれんけど、スケールが違うやん。ちょっとうらやましいな。」
やや溜息加減になった陽平を慰めるように唇を寄せてゆき、吐息を投げかけた。待ち受けるだけの体勢で終わるはずもなく、むさぼるようにやわらかな手ほどきを招き入れると、そのまま流れるようにうなじへの逃避行をもくろんだ。
寧々の匂いは相変わらず心地よい芳香を放ち、陽平の要求を満たしてくれる。本当はそれ以上のものが欲しいのだが、今の自分ではどうにもならないことも自覚させられる。
この時の陽平の気持ちは、今までに接してきたお嬢さんたちとは違う雰囲気を寧々にもっていた。何度も入れ込んで、恋に落ちては破れてきた感覚とは違い、冷静に自分の立場をもって彼女と接していられる。ある意味醒めた感情なのかもしれないが、踏み込めない自分がいることを理解していた。
なぜだろう。おそらくは寧々が実際の年齢よりも大人びた女性だからかも。陽平が何気に感じていた印象はそういったものであった。
「また違うステージが決まったら教えてね。応援しに行くから。」
「うん。」
短い返事で済ませた寧々だったが、最後に目線をそらしたのが気になった。
今宵のセットも陽平以外の指名がなかった寧々は、ときおり人気嬢のヘルプに取られる以外はずっと陽平のそばにいた。陽平もさることながら寧々も気に入らぬ客の隣でおべんちゃらを使うよりも、気の置けない陽平の側にいる方が落ち着いた。
そんな様子が気になった陽平は、いつもなら2セットで帰るのだが、この日はもう1セット延長した。
されど、何か特別な事をするわけでもなく、甘い芳香と滑らかな感触と温もりを感じる抱擁を楽しんだだけである。何気ない会話と幼子たちのやり取りのような言葉遊びの時間だけが二人の蜜月の空間をつくっていた。
それでもやがては終焉の幕を下ろすときがやってくる。
「今度はあの店でね。また素敵なダンスを見せてな。それと、次に来るときもチョコレートのお土産もってくるから、期待しとってな。」
「うん。」
寧々の淋しげな表情がやや気になったものの、彼女を擁護できるだけのゆとりも彼女の心に刻み込めるだけの言葉も持ち合わせていない陽平は、後ろ髪を引かれながらも、喧騒な街中の世界へ戻っていくしかなかった。
いつの間にか外は雨。
陽平の心の中を映し出しているかのようだった。
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