第6話 チョコレートの効果その1

その週の金曜日、再び陽平は秀哉と向き合っていた。

もちろん『かば屋』のテーブルにおいてである。

独り身の金曜日の夜は、遊びに行くためにあるような時間なのかもしれない。逆に言えば何もすることがない悲しい時間を消費するだけの世界かもしれない。

とはいえ、共に独身の二人である。タイミングさえ合えば、結局『かば屋』で落ち合うことになるのだ。

「ところで見合いはどうやったん。」

「アホいいな、明日やん。こないだ相談したとこやんか。」

「はあ、まだ数日しか経ってへんのかいな。時間が進むんが遅いな。」

今日も陽平は溜息主体の会話になっている。

「ところで先生。」

何だか含みのある呼び方である。

「あれから『ナイトドール』には行ってないんか?」

不意をつかれたような陽平だった。一瞬ひるんだ様相を見せたが、観念したかのように、ややもごもごとした感じで答える。

「行ったで。」

「ほんで、どうやった?おまいさんの好みにおうた女の子やったか?」

「せやなあ。可愛いてスリムで、しかもおっぱいも大きくて、見た目が普通の感じのええ子やった。」

「そんなええ子がおるん?オレもその子にしたらよかったなあ。」

「やめてや。そういう店やってわかってても、やっぱりいやや。」

「オレが教えてやったんやんか。」

「そらそやけど、ヒデの好みとは違うやろ?」

「そうやな。オレはもっとキャバ嬢らしい子がええな。その方が燃えるやん。ほんで、次はいつ行くん?」

「東京出張が週末にあるから、その出張から帰ってきてからかな。」

「なんで?」

「ちょっとね。」

「うーん。なんや面白い遊びができてるやんか。また例の恋煩いが始まっとるな。」

「うるさい。まだそこまでいってないわ。それに恋煩いしたかてええやんか。」

「あのな、オレらもう三十過ぎてんねんで。ええかげんアホな恋煩いは卒業しなアカンねんで。」

「言うてる意味はわかる。オレもそう思う。せやから今回はそないなことにならんように、深入りせんように考えてる。」

とは言ってみたものの、陽平の顔は曇ったままだ。しかもその後の言葉が続かない。

しばらく陽平の次の言葉を待っていた秀哉はモジモジしている陽平の態度に「やっぱりな」と感じながら、あきらめたようにジョッキを傾けていた。

「おまいさんはわかりやすいな。もう結末が見えてるわ。数ヶ月後におまいさんはまたぞろいつもの失恋パターンに陥るねん。」

「わかった。そうならへんかったらええねやろ。オレもアホやない。そう何度もおんなじ崖から落ちてたまるか。今回は大丈夫や。」

「なら賭けよか。きっとまたみすぼらしい結果になるって。その結果に『かば屋』飲み放題二日分。どや?」

「おし、乗った。なんぼなんでも二十歳そこらの女の子にうつつを抜かすほど、オレも間抜けてないわ。」

「今までがそうやったクセに。」

二人の会話の調子はさほどケンカ腰ではない。関西弁特有の口調である。それでも陽平の口調は勢いに任せたものだったに違いない。それこそ何の根拠もないのだから。

「まあ精々ほどほどにな。それより明日のことやけど。」

秀哉は見合いの話を持ち出した。それこそ陽平には興味のない話である。

しかし、この話題に切り替わったところで、陽平は加藤女史にもらった会員カードの事を思い出した。まだ陽平の財布の中に埋もれたままである。

その事を秀哉に打ち明けようかどうか迷っていたのだが、結局は会員カードの存在は伏せたまま会話の続きを聞くこととした。

「見てみ。」

そういって秀哉が取り出したのは小さな包みだった。

「プレゼントや。いきなり指輪っていうのも、なんやいやらしい気もするさかいに、ピアスにしたんや。なんちゅうても女の子はアクセサリーが好きやからな。」

「そうかもしれん。せやけど、そのぶん値打ちはようわかったはるで。それ、安もんちゃうやろな。いっぺんでバレるで。」

「うーん。いきなり何万円もするヤツもおかしいやろ。」

「性根が不純やったら何万円でもええやろ。そうやないねやったら手ぶらでええんやん。オレやったら・・・。」

「うんうん、おまいさんやったら何を用意する?」

それこそが秀哉が陽平に聞きたかったことだったのだろう。目をギラギラさせて、さらには身を乗り出すようにして陽平に迫る。

「例えば手鏡とか?」

「ほう、それは思いつかんな。せやけどそんなババ臭いもんでもええんか?」

「今どきおしゃれな手鏡ぐらい、なんぼでもあるで。」

「おまいさんはよう知ってるのお。そういうとこが陽平先生の凄いとこや。」

このときの陽平の気持ちを代弁すると、次の通りとなるだろう。

『どうせお見合いなんか、いきなり上手くいくはずないやろ。ふふふ。』

そう、心の中ではせせら笑っていたのである。とはいえ、自分は加藤女史からもらったカードを握り締めて、ヒデには話さずにいる。少し矛盾を感じてはいたものの、なんだか複雑な気持ちであることは確かだった。


だらだらと飲み漁った『かば屋』での夜。

酔った体をふらふらさせながらアパートへ帰る。すでに日付変更線は越えていた。

冷たい水をコップで煽り、火照った顔を冷やしてからリビングの灯りをつけた。

まだ肌寒い京都の朝晩はコタツが心地よい。スイッチを入れて、体ごと布団の中に潜り込ませる。

「見合いかあ。でもオレは自力で見つけるぞ。」

思い込みだけは人一倍である。そんなときふと思い出したのが寧々の笑顔だった。

「そうだ、明日は寧々ちゃんに会いに行こう。」

まだ暖まりきっていないコタツを置き去りにしてパソコンのあるデスクと向き合う。電源を入れて画面が落ち着くまでの時間がまどろっこしい。

大阪人ほどではないにせよ、基本的に関西人は皆同様にせっかちである。これを関西弁で《いらち》というらしい。

足をバタバタさせながら画面の静止を待っていたが、動作が落ち着いた途端にネットにつないで『ナイトドール』のホームページを探り出す。もちろん、イの一番に検索するのは寧々の出勤情報である。

「いるいる。明日はオープンからいるやん。よし、チョコレート買ってお土産に持っていこ。抹茶にしよかな、ミルクにしよかな。それともブラックが好きかな。そういえばどんなチョコが好きか聞いてなかったな。」

しばらく思案していた陽平だったが、あることに気付く。

「そうか、何も板チョコを持っていくわけやないねん。色々入ってるヤツ買って、それからどれが好きって聞いたらええねん。」

こういうことをすぐに思いつくのが陽平のいいところ?

そんなことを考えるころには、例のカードのことは忘れていた。

「今のところは寧々ちゃん優先」

そんな感じである。

『ロンリーナイト』のことなど忘れたかのように今宵のプランにウキウキしている陽平は、早速お土産のチョコを調達しに出かけるのである。

それこそ鼻の下を存分に伸ばしていそいそと。



駅のモールにたどり着いた陽平は、早々に洋菓子店へ足を運ぶ。あまり甘いものを好まない陽平にとって、普段は無縁の店だ。

またぞろショーケースの端から端まで見分した後、五種類ほどのチョコが入ったアソートのセットを購入した。これで今日のお土産は万全である。

そこからの足取りは軽かった。ネオン街の交差点まではスキップでもしているような軽さである。もしかしたら頭の中では、雲の上を飛んでいるかのような状況だったのかもしれない。

ネオン街に入るとさすがに多少の緊張感が発生してくる。少しずつ店が近くなるにつれ、お土産を握る手が熱くなってくる。

そしてなぜだか胸がドキドキする自分がいることに気付く。

「なんかこんな気持ちって久しぶりやな。もしかして恋した?」

などと自問自答しているところが陽平らしい。

彼には昔から相当な妄想癖がある。良く言えば想像力がたくましいのだが、悪しくもすれば思い込みが激しい分、楽観的になりがちでもあった。そんな妄想癖はそろそろ四十の壁が見えてきた今となっても変わらない。

見覚えのある階段を昇るのも今日は軽い。

ドアを開くとピンクの照明が、更に陽平の心を躍らせた。

「いらっしゃいませ」

「寧々さんを。」

ボーイが「ご指名は?」と尋ねる前に彼女の名を告げていた。

何度も通い、かなり見慣れた店内の風景。

今日も寧々が来るのをそわそわして待っている。

「やっほー、また来てくれたんやね。」

「どうしてもキミに逢いたかったし、お土産持って飛んできた。」

「ええ?何?」

陽平は寧々の目の前に綺麗に放送された包みを置くと、

「寧々ちゃん、こないだ喜んでくれたから。」

「開けてもいい?」

「もちろん。」

適度に切りそろえた短めの爪が綺麗な指で割りと起用に紙袋を開いていく。すると中から小箱が現れ、ふたを開けるとアソートのチョコレートが並んでいる。

「やったー、チョコレートやんか。ウチが大好きやって言うてたっけ?」

「覚えてたで、えらいやろ。」

陽平はねだるように上目遣いで頭を出すと、寧々はニッコリと微笑みながら陽平の頭を撫でる。

「うん、えらいえらい。」

「えへ。」

満足気な陽平の鼻の下は、この瞬間、数メートルは伸びたに違いない。

「寧々ちゃんはどんなチョコレートが好きなん?ブラックとかミルクとか。」

「ウチは甘いのが好き。ホワイトチョコが一番好きかも。」

「そうなんや、」

陽平にとってはちょっと意外だったようだ。それでも寧々の好みを知ることができた貴重なプレゼントとなったことに変わりはない。

「それはまた一つええこと聞いた。次からはホワイトチョコの詰め合わせをプレゼントするわ。楽しみにしといてな。」

「うん。」

あとは今宵のラブラブタイムを楽しむだけである。

「さあ寧々ちゃん、次はボクに抱っこされてくれる?」

「いまキスしたら、メッチャ甘いで。」

「そうやな。ボクはイヤやないで。」

「うふふ。」

寧々は陽平の首に両腕を回して上から抱きつくように唇を重ねていく。同時に甘い吐息が陽平を包んでいく。その瞬間に酔いしれていく自分を楽しむ。その展開が今宵のスタートだった。

前回のように寧々の背中から腰にかけてのくびれをなぞるように抱きしめ、そのシルエットを愛でるように肌のありかを探索する。

彼女はさほど人気のある嬢ではない。この店の多くの客は、髪も爪も着飾っているそれなりの嬢が好みのようで、寧々のように割と普通に見える女の子はあまりお呼びがかからない。それでもフリー客にはお目見えしなければならないので、たまに席を外すのだが、そんなときに間をつなぐ女の子がやってくる。

「こんばんは、久美です。よろしくね。」

見るからに小柄な彼女も寧々と同様にかなり普通っぽい感じの女の子だった。

「やあ、はじめまして。かわいいな。」

「そんなこと言うたら寧々ちゃんがやきもち妬くで。ウチ、寧々ちゃんと友だちやさかい、言いつけたろかな。」

「ええで、キミがカワイイのは事実やし。寧々ちゃんかてボクは好きやし。それに、彼女がボクにやきもちなんか妬くわけないし。」

「うふふ。わからへんで。お兄さんハンサムやし、寧々ちゃんのタイプなんちゃうかな。」

「こらこら、初めて会う客に期待を持たせたらあかんで。あとでガッカリするんはボクやんか。」

「寧々ちゃんエエ子やろ。応援したってな。」

「せやな、エエ子やと思う。まだ何回も会ってないけど、あの子はなんか好きや。」

「なんや、そんなに惚れてんねやったら、奪ってみよかな。どう?ウチ。」

「勘弁してくれへんかな。」

「お兄さんの困ってる顔かわいいな。そうやって女の子を油断させるんやろ。」

「いつかて失恋すんのはボクの方やで。毎度毎度痛手を癒すのに何ヶ月もかかるんやから、大変やねんで。」

「ほんでもまた新しい恋を求めて来はるんやろ?ほんならいっぱい恋したらええやん。」

そういって久美は陽平の腕に寄り添うように露な胸元をすり寄せてきた。

「そんなに近寄ったらエッチなことするで。」

「例えばどんなこと?」

「こんなこととか。」

陽平は人差し指で彼女の胸の膨らみをつついてみる。

「なんや、そんなんかいな。」

久美はそう言うと陽平の手をとり、自ら胸元へ引き入れた。

「うれしい事故やな。男なんかみんな助べえやから、勝手に指も動くで。」

「ええよ。やさしくしてれるんやったら大歓迎やで。」

少し陽平の鼻息が荒くなりかけたころ、寧々が戻るアナウンスがあった。

「なんや、せっかくええとこやったのに。でも寧々ちゃんには内緒にしといたげるな。」

「えへへ。」

久美はスッと陽平の席を立ち、またぞろ別のシートへと消えて行った。


彼女たちは客が座っている向きの後ろの方向へと姿を消すので、久美が寧々とすれ違ったかどうかはわからなかったが、タイミング的には入れ替わるように寧々が戻ってきた。

「ヘルプは誰が来た?」

「久美ちゃんっていう子が来たで。お友だちなんやて?」

「うん。この店で一番仲のええ子。もしかしてキスとかした?」

「いいや、してへんで。」

「久美やったらしゃあないか。でも久美以外の女の子とキスしたらあかんで。」

「せやかて寧々ちゃんも他のお客さんとキスするやろ?」

「ウチはそれが仕事やもん。でも嫌な客とはせえへんで。それにちゃんと心を込めてキスするんはヨウちゃんだけやで。」

「ああ、またそんなこというてボクをたぶらかそうとするやろ。」

「ほんまやもん。そやからヨウちゃんも、ちゃんとしたキスは久美にもしたらあかんで。」

こういうセリフは客にとってはたまらないセリフなのだろう。陽平にとってもそれは同様のことだった。

しかし、陽平もまんざら馬鹿ではない。そんなセリフを投げかけられたとは言え、彼女が自分だけのものになるはずもないことは理解している。そんな現実を妄想の中から抜き出して、今宵も寧々との蜜月を楽しむことに専念するのだ。

「さて、キスもええけど、寧々ちゃんの綺麗なおっぱい見せてえな。寧々ちゃんのおっぱいはじっくり鑑賞するだけの値打ちがあるおっぱいや。そんな綺麗なおっぱい、見たことないもん。」

「うふふ。なんや褒めてもらえるとうれしいな。ええで、見せてあげる。」

寧々は陽平に差し出すように体を預けた。決して自分からブラの紐をめくったりしないのが彼女の流儀のようだ。

陽平はそれも理解しているように、そっとブラの紐を上げ、中で鎮座している見事なまでの丘陵を拝観する。

その丘陵は確かに美しい曲線を放っていた。ミラーボールに反射したキラキラと眩く薄紫の光があでやかにその造詣を映し出していた。

「やっぱり触ってもいい?」

「ええよ。」

陽平は寧々の承諾を得てから、そっと美しい丘陵の麓に手を添える。そして彼女の体温を確かめるようにじっと動かずにいる。その間、陽平は何をしているかというと、寧々の首筋に顔を埋めている。彼女が放つ素敵な香りを堪能しているのだ。

陽平が惹かれている香りは、香水やコロンの匂いではない。寧々が放つ独特の女の匂いなのだ。それがフェロモンなのかどうかは陽平の知るところではないが、彼がその匂いに惹かれている事実は変わらない。

「ねえ、寧々ちゃん。」

次に陽平は甘えるような目線を寧々に送る。

「うん?」

「おっぱいにキスしてもええ?」

寧々はニッコリと微笑んで即答する。

「そんなんエエに決まってるやん。」

するといかにもうれしそうな顔で「アリガト」って言って、ゆっくりと美しい丘陵へと顔を埋めていく。すぐに発見できる頂点に君臨する石碑は、薄桃色のカワイイ突起物として陽平を誘う。なるべく焦らないようにゆっくりと唇を近づけ、赤子が乳をねだるような仕草のキスを捧げる。キスとはいえ、相手がおっぱいなのだから、ときおり吸ったり舐めたりするのはごく自然な行為だろう。それでも陽平はさらにおねだりをしてみた。

「痛くしないから、ちょっとだけ歯を当ててもいい?」

「うん。でも痛くせんといてな。」

そう言いながらも寧々の声は少し震えていた。当然といえば当然だろう。そんな要求をする客なんて、そうそういるはずもないだろうから。

もちろん、陽平としては彼女をいじめるわけでも痛めつけるわけでもない。ちょっと刺激が欲しいだけなのだ。

「コリッ」

そんな音がしたかしないか。その瞬間に寧々がいつもと違った反応をしたのは確かだった。その反応を見た刹那、陽平は間もなく彼女の唇を要求した。そして熱い抱擁とキスを数分にわたって求めるのである。

やっと陽平が満足した時間が過ぎた時、タイミングよくアナウンスが流れる。

――寧々さん十五番テーブルフリータイム――

寧々は陽平を嗜めるように体を離し、「行って来る」そう言って席を立った。


彼女の色々な余韻に浸っていた時、陽平のとなりに座ったのは久美だった。

「なんやお楽しみやったみたいやな。」

「見てたん?」

「見んでもわかるわ。そんなボーっとした顔してて。財布盗まれてもわからんぐらいの顔やったで。今度寧々ちゃんに聞いとこ、どないしたらこんなに没頭できるまで客をたらしこめんのか。」

「ボクってたらし込められてるかな。」

「惚れてもたんやろ?」

「うん。」

「素直やな。いきがらへんとこが好感持てるな。どう?ウチに乗り換えへん?」

「ボクは寧々ちゃんにたらし込められてんねん。久美ちゃんもかわいいけど、今はボクの眼中には入らへんわ。」

そして寧々が戻ってくるアナウンスが流れる。

「アホくさ。まあええわ。ウチの友だちやさかい、奪い取るのは勘弁してあげよ。それよりも、またおいでな。アンタのこと見てたらおもろいわ。」

「ボクっていじられてんのかな。」

「あははは。かわいいお兄さん。」

そういうと久美はとっさに陽平の唇に軽くキスをした。

「素直なお兄さんにご褒美な。」

と言いながらウインクを投げかけて、またぞろ通路の奥の暗闇へと消えていく。


「ただいまあ。」

寧々が戻ってくるときのセリフはいつも同じだ。

そして座ると同時に体を預けてくる。

「また久美ちゃんやった?あの子やったら安心や。チューしてもらった?」

まるでそれが当たり前であるかのように尋ねている。

「最後に軽くだけ。」

「そう。よかったね。」

「妬いてくれへんの?」

「妬けるで。でも久美ちゃんやったら許したる。」

この会話が十歳以上年の離れている男女の会話として成り立つのがこういう店のいいところでもある。嬢は客に合わせるし、客もまた然りである。

もとより、幾分精神年齢の低い陽平にとっては、若い女の子と波長を合わせることぐらい、造作のないことだった。事実、会社においても陽平のことをまるっきり中年扱いする女の子はいない。それが良いのか悪いのか、評価は分かれるところである。

それはさておき、今宵はそろそろお開きの時間のようだ。店内のアナウンスがその時を告げている。

「もうそろそろ時間やって。」

「うん。また来る。チョコレート持って。」

「楽しみやな。」

陽平が楽しむ時間は2セット一時間二十分。たったそれだけの時間だが、その時間が陽平にとって至福の時間となっていた。

出口まで腕を取って見送る寧々。

「またね。」

と手を振って店を出る。

後は涼しい風が背中を吹きぬけるだけなのだ。


寧々と楽しんだ後の時間は真っ直ぐにアパートへと帰るのが普通だった。

一人住まいの陽平は、コンビニで缶ビール一本とポテトチップを買って帰り、それだけでその夜を済ませてしまう。

そして軽くアルコールが血液の循環を促したあたりで就寝モードへと移行するのである。まだ軽く寧々の残り香があるうちに夢見路へ入ってしまいたいのだ。

いい夢が見られるようにと・・・。



次の週の月曜日。陽平は朝から機嫌が斜めだった。満員電車の中で秀哉の相手をしなければならなかったからである。

メールの着信音がなった瞬間、秀哉からだと思った。そう、例の見合いのことだろう。逐一報告しなくてもいいのにと思っている。

しかも今朝は気分が滅入るほどにジトジトと雨が滴り落ちていた。

近頃は天気のいい日が続いていたが、昨晩から久しぶりの恵みの雨となっている。道路も田畑もカラカラに乾いていたので、どこかで行われた雨乞いが功を奏したのかもしれない。

しかし、通勤するものにとって雨の日は辛いものがある。何気に空を見上げて、足元の不安定さを嘆いたりするものだ。

陽平も多分にもれず、雨の日の通勤は気分が乗らなかった。そこへ来て秀哉からのメールが入ったために、いささか気分を害している。

―今晩あいてる?見合いの報告したいねん―

思った通りの内容にスルーしようかと思ったが、それができないのが陽平の性分なのである。見てしまった以上は無視できないのだ。

―『かば屋』に八時でええか―

満員電車の中なので、できるだけ短い文書でメールを返す。

―OK―

再度戻ってくる返事も短い。恐らくは秀哉も満員電車の中なのだろう。何もこんな状況の中で連絡くれなくてもいいのに。少なからず陽平はそう感じたに違いない。

「ああ、今日も面倒な一日が始まるのか。」心の中でそう呟いた途端、ますます気が重くなる陽平であった。


得てして仕事の方は順調だった。

得意先から新たな企画の話を持ちかけられたり、先週掲載した記事が部長の目に留まり褒められたりで、夜の憂鬱な時間のことなど忘れるほどだった。

そろそろランチに出かけようかとしたとき、不意に後ろから呼び止められた。

「尾関クン、ちょっと。」

振り返ると加藤女史が笑顔で陽平を手招きしている。

「なんですか。」

「一緒にランチ行こう。黙ってついといで。」

そう言われると断れない。何の魂胆があるのか不安だったが、ついて行くしかない。

加藤女史は言葉少なに先んじて歩く。彼女が入っていったのは、ややお上品な雰囲気のする蕎麦屋であった。

店の奥の座敷が空いていたので、そこを陣取るとどっかと座り、店員にランチセットを二人前を注文すると、ニヤニヤとした顔で陽平に対峙した。

「さてと。例のカード使った?店に行ってみた?」

一瞬何のことか思い出せなかった陽平だったが、加藤女史の鋭い目線を見て思い出した。

「ああ、まだ行ってません。なかなか行く機会がなくて。」

「あのね、使ってもらうためにあげたんやけど。使わな意味ないし。行かな新しい世界もないで。」

「そやけど、もろたんついこないだのことやないですか。そのうち行きますがな。」

「何いうてんねん。ウチが気付かせるまでカードのこと忘れてたやないか。」

「うう、だってそんな性急な話やと思てませんもん。」

「はよ行きやていうたやろ。」

「そんなん聞いてません。でも興味はありますから、いつかは行こうかと思てました。」

「よっしゃ、ほんなら今週行っといで。いやアカン、今晩行き。善は急げや。」

「今夜は約束がありますねん。」

「ん?例の友達か。ほんなら明日行き。わかったな。」

「ええ?そんな急に言われても。」

「あかん。アンタの分の原稿、ウチが助けたるさかい。明日行っといで。」

「何でそんなにボクに勧めたがるんですか。」

「せやな、結局はアンタのことが好きやからかもしれん。はよう恋人見つけて、結婚して、このおねいさんを安心させてえな。」

「そらボクが入ったころからずっと世話になってるんで、ありがたいと思うし、憧れもありましたけど、おねいさんねえ。」

最後の言葉とともにため息が出たのは、やれやれという気持ちである。しかし、今まで面倒を見てきてくれたことも事実である。

「わかりました。ありがとうございます。明日行ってきます。」

「よしよし。物分りのええ弟で嬉しいわ。」

いいタイミングで蕎麦が運ばれてきた。

「さあ、話も終わったことやし。ちゃっちゃと平らげて仕事に戻るで。」

「はいはい。いただきます。」

関西では蕎麦よりもうどんの方が一般的。京都でもなかなか良い蕎麦屋は見当たらないのだが、ここの蕎麦屋は上等な部類に入るのだろう。注文してから茹でるのか、さすがに立ち食いの店とは違うと感じていた陽平だった。

ランチセットなので盛り蕎麦に玉子丼がついているのだが、食欲旺盛な加藤女史とヤケ食い気味の陽平もあっという間に平らげた。

「ご馳走様でした。」

そう。ここも加藤女史の奢りとなった。

「ここも奢ったったんやから、明日は絶対に行かなあかんで。」

「はいはい。今日もご馳走様でした。」

こうして、実はこれから展開される物語の大いなるきっかけとなったランチタイムが終了するのである。そんなこととはついぞ知らぬ陽平にとっては、やや食傷気味の時間であったのだが。


続いてはその夜。

明日の準備を兼ねた残業を済ませると、同僚よりも少し早めに会社を出た。

「お先です。ちょっと約束があるので。」

後ろから加藤女史が声をかける。

「Y園の原稿、書き終わってんのやったら持っといで。見とくから。」

「もう加藤さんの後ろのボックスに入れてあります。よろしくでーす。」

それだけ言い終わると、加藤女史の返事も待たずに部屋を出た。

「あいつ最近、なんかそわそわしてないか。」

「色々忙しいらしいで。」

「またエッチな店にいかはんねやろか。」

周囲の同僚からは揶揄が飛ぶ。

「はいはい、他人のことはエエから、自分らの原稿とか編集とかはよあげてしまいや。」

加藤女史はざわめく一同を一蹴し、溜息を吐きながら陽平の原稿を取り上げた。

「まあ、今はしゃあないか。」

ボソッと呟いた独り言は、周りの誰にも聞こえなかったが、やれやれといった表情は誰もが見ていたようだ。特に佐々木梨香と中浜瑞穂は、その瞬間を見逃さなかった。

「最近加藤さん、妙に尾関さんに肩入れしてると思わへん?」

「そうかも。なんかあったんかな。」

「今度こそっと聞いてみよか。」

「なんかあやしい関係かも。うふふ。」

若い女の子は下世話な話が大好物だ。普段から妙に接触している陽平と加藤女史の関係について、勘繰りを入れるのは当然のことかもしれない。

このことは後日、陽平の行動がきっかけで、誤解は解消されるのだが、それまでは若い女の子にとっては格好のターゲットになったのである。


そんなこととは露にも知らず、会社を出た陽平は思い足取りで『かば屋』を目指していた。決して喜び勇んで行く訳ではない。親友だから仕方なしとして向かうのである。そぼ降る雨もまだ止まず、足元はびしょ濡れだ。

「いらっしゃい」

店に入るとマスターが出迎えてくれた。

「今日もヒデちゃんと密談か?」

「つきあいですわ。腐れ縁やからね。」

「飲む?待っとく?」

「ビールください。」

秀哉に遠慮する必要のない陽平はビールとつまみを適当に注文した。

手持ち無沙汰の陽平は、雫の落ちる屋根伝いの窓の外を何気に眺めていたが、それにも飽きると、店内の客の様子を観察し始めた。男同士がふた組、女同士がひと組、男女混合がふた組、カップルらしき男女が四組あった。こんな普通の居酒屋でもデートが成立するんだなあと、あらためて感心する。

すると何気に昼間の加藤女史との会話を思い出し、財布の中を広げて例のカードを取り出していた。

「明日ねえ。ホントに行ってみようかな。」

などと呟いた途端に入り口から秀哉が入ってくる姿が見えた。慌ててカードを財布に戻し、何もなかったかのように窓の外を見るフリをした。

「おそなってごめんな。出る間際に課長に捕まって、明日の会議の点検させられててん。」

「明日なんかあんの?」

「ああ、午後から大事な会議があって、終わってからも残業があるのわかってるから、無理やり今日の約束にしたんや。」

「ほう、それは忙しいこって。ほんで、日曜日の話やろ。」

「そやそや。あっ、エッちゃん、ボクにもビールな。」

すぐ後ろを通りかかったバイトのエリカちゃんを呼び止めてビールを注文し終えると、すぐさま陽平に対峙した。

「こないだの見合いな、エエ子やってん。可愛いし、優しそうでな、おっぱいは思ってたより小さめやけど、なんせ口数が少ないのがええやんか。」

「ほんなら、それでええやんか。」

「そやねん。ほんでな、今度の日曜日にデートする約束したんやけど、どこに行ったらエエと思う?」

「そんなん自分で考えぇや。オレはその子のことなんも知らんやんか。」

「いや、オレもまだ何も知らんねん。そんな子を連れて行くのに妥当なとこを知りたいねんやんか。」

「知らんがな。遊園地でも水族館でもどこでも行って来たらエエやろ。」

「おう、水族館っていう手があったな。薄暗いし、動物園みたいに匂いせえへんし、雨が降っても大丈夫やしな。エエこと聞いた。」

「ほんならココの勘定はヒデの奢りな。」

「待て、後もう一つ。プレゼントは何がええやろ。」

「こないだのピアスは渡したんやろ?その彼女、他になんか目出度いことあったんか?」

「いや、ないけど、最初のデートやろ、手ぶらっちゅうのもな。」

「誕生日でもないのにプレゼントなんかいらんやろ。なんか下心あるんちゃうかっておもわれるで。」

「うんうん、なるほどなるほど。そうやって女の子の気を引くんやな。おまいさんみたいに冴えんヤツがなんで何回も店の女の子とデートできるんかわかったで。」

「買いかぶったらあかん。結果的には振られてるんやさかい。」

「で?おまいさんはあれから行ったか?『ナイトドール』」

「いや、行ってないで。」

ここのウソは少し後ろめたい感じもしたが、今は話すタイミングではないと思っていた。

「しばらくオレの恋はお休みや。そっとしといてな。」

「そうか、ほんならそっちはほっとくとして、オレの方の話にもどろ。」

そこから先は秀哉の独壇場だった。見合いの挨拶のときに自己紹介がやや誇張気味だったとか、とりあえず適当な趣味を並べたとか、おきまりの「後は若い二人で」の時間があったとか。陽平には全く興味の湧かない内容だった。

二時間ほどが経過し、秀哉がトイレから戻ってきたタイミングを見計らって今宵のお開きを申し出る。

「そろそろ帰ろうや。明日も仕事やし。」

「せやな。ほんならまた来週。デートの報告するし。」

「いらんし。今日はごちそうさま。」

店を出た陽平は思い足を引きずって、まだ残り雨の雫がポタポタと落ちている道を歩き、誰も待つものもない自分のアパートへと帰っていったのである。


部屋についた陽平は溜息をつきながら部屋着に着替えていた。冷蔵庫からトマトジュースを出して体を冷やす。一息ついたらパソコンに電源を入れる。これが飲んで帰ってきたときの陽平のルーチンとなっている。

さて、秀哉の見合い相手に興味はなかったが、昼間に思い出した加藤女史からもらったカードへの思い入れが蘇る。

財布から取り出してあらためて眺めてみると、表に大きく『ロンリーナイト』と言う文字がプリントされており、カードの裏には店の所在地が印字されていた。

陽平は何気に『ロンリーナイト』の情報をネットで漁り始めた。

「何々、住所は京都市中京区河原町って繁華街のど真ん中やんか。聞いたことないけどなあ。コマツビル五階って書いてあるな。どこのビルやろ。ふむふむ、なんやあのラーメン屋の近くやんか。」

よく遊びに出かける陽平には馴染みのある地域らしい。

「明日か・・・。そんなはよ行かなあかんのかな。それよりも先に、もう一回寧々に会いに行きたいなあ。」

そんな想いのままうつろな時間を過ごし、いつの間にかリビングで眠り込んでしまう陽平であった。



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