第5話 模索する想い
寧々の甘い祝詞の声がずっと脳裏に残るほど楽しい夜を過ごした翌朝、出社する道行きで秀哉に呼び止められた。
「ヨウちゃん、昨日は早引けしたんか?六時にはもうおらんかったけど、どうしたん?」
「どうもないで、ちょっと用事があったんや。」
「そうか、ほんなら今夜はあいてるか?来週のお見合いの打合せをしときたいねんけどな。」
「そんなんヒデちゃんの勝手やんか。オレは知らんで。」
「まあ、そう言わんと付き合いーな。写真も見せたるさかい。ほな六時に『かば屋』集合な。」
それだけ言い残すと、陽平の返事も聞かずに自分の職場へと駆けて行った。
「オレ関係ないやん・・・。」
一人呟くも、愚痴を言う相手は既に背中を向けて、陽平の声など聞こえない距離を成していた。
なんだか朝から足取りが重い。そんな重い足取りの陽平に追い討ちがかかる。
「尾関クン、ちょっと来なさい。」
デスクに座るなり、いきなり加藤女史からお呼びがかかる。
「昨日ね、アンタが帰ったあとにBB物産から電話があって、計算間違いが三箇所もある、お宅の担当者はどうなっとんねんて、向こうの課長かなり怒ってたわよ。書類はアタシがパソコンから引っ張り出して、全部修正しといてあげたから、一応は治まってるけど、一応電話しといた方がエエかもね。それと、今日のランチはアンタの奢りね。」
「すみませんでした。早速電話しときます。電話が終わるまでに何を食べたいか考えといてくださいね。でも普通のランチにしてくださいよ。」
「しゃーないな。はよ電話しとき。」
陽平は加藤女史が話し終わる前に、既に電話のボタンを押していた。BB物産の課長も悪い人ではない。加藤女史が相当執り成してくれたのだろう。お陰で事なきを得たのは事実であった。
「ありがとうございました。向こうの課長も大丈夫かって、逆にボクの体調の心配までしてくれてましたわ。」
「せやろ、最近ちょっと体調が優れませんねんって言うといたから。ほんでな、ランチは『かば屋』にいこ。」
「えっ?なんでですか?」
思いも寄らぬ申し出に、うろたえる陽平の顔が少し歪んだように見えた。
「アンタ、あそこにちょくちょく行ってるやろ。こないだ偶然見かけたんやけど、店の大将と仲良う話しとったやんか。色々アンタの事も聞いたで。」
「マスターと話をしたんですか?」
「うん、会社の先輩やって言うたらな、色んなことホイホイ教えてくれたで。」
「ええ?どんな話したんですか?」
「可愛い後輩やねん、いつまでも一人で心配してんねん、誰かエエ子おらんやろか、マスター知ってる?ってな。ほんなら最近の失恋話まで教えてくれたで。」
「いやいや、マスターも詳しいことは知らんはずやし。」
「ついこないだ、友だちとそんな話をしてたらしいやん。冴えん表情やったし、お友達の声は大きかったから、話の内容まで筒抜けやったらしいで。」
陽平は体ごと溜息を吐くしかなかった。
「でも、もうその話は過去の話やし、ほっといてくれませんか。昨日のお礼のランチはご馳走させてもらいますから。」
「アホ、ランチはランチやん。せやけど、アンタのこと心配してんのもホンマやで。まあ、この続きはランチのときにな。さあ、仕事仕事。」
そう言うと加藤女史は陽平に背中を向けて、自らのアポイント先への資料をまとめ始める。
「朝からいきなり憂鬱やなあ。」
ぼやく陽平を尻目に、急ぎの仕事が時間をせっついていた。
仕事に追われてあせる陽平だったが、どうにか正午には一段落までこぎつけていた。
会社にランチタイムを知らせるチャイムはないが、部長の「さあメシだ!」の掛け声が毎日の合図になっていた。どこの会社も上司が先に休みをとらないと、下が休みにくいというシステムは変わらぬようだ、
まもなく加藤女史が陽平のデスクにやってきた。
「さあ、『かば屋』へ行きましょ。」
加藤女史の表情は、最近にないほどウキウキした顔をしていた。
「ボク、食欲無くなってきました。」
「そんなこと言うとらんと。食べんと夜まで持たんで。どうせ残業あるんやろ?」
加藤女史の表情とは打って変わって、浮かぬ顔をした陽平だったが、渋々二人で会社を後にしていた。
ルンルン気分の加藤女史は、まるで恋人同士のように陽平と腕を組んで歩く。
「加藤さん、なんで腕を組んで歩くんですか?別に逃げたりしませんけど。」
「久しぶりに年下の男とランチデートやんか、ちょっとはその気にさせなさい。」
加藤女史もそれなりには美人だ。若い頃には多少憧れた時分もあった。正直に言えば悪い気はしない陽平だった。
『かば屋』は会社から歩いて十分ぐらい。居酒屋バーだが、昼はランチを仕立てている。
「いらっしゃい。あれ?妙な組み合わせやな。ああ、こないだのおねいさん。今日は同伴ですか?」
「これっ、アホ言いなさんな。こんな若造を客にしたかて儲からへんがな。ホンマに同伴すんねやったら、もっと上客さがすわ。」
などといった冗談が交わされるのは、大阪も京都も変わらない。
「うん確かに。で、何にしはりますか。」
「ボクはうどんとおにぎりでいいです。」
「アカン。そんな品疎なもん食べてるから色んなことに力が入らへんねん。マスター、Aランチ二つね。」
Aランチとはハンバーグとグラタンとエビフライのセットである。
「えっ、そんな。財布が悲鳴をあげますやん。」
「やかましい。今夜は残業確定やねんから、ちゃんと食べとかなアカン。これは先輩としての命令や。残業手伝ったるさかいに、色々ガンバリ。」
「とほほほ。」
もう従うしかない。そんな状況である。
「ところでな、マスターから聞いたんやけど、夜のお店の女の子に恋したんやって?そのあたりのことを聞かせてや。」
「そんなん、女の人にしゃべる話やないです。ありのまま言うたらスケベな中年オッサンがお店の女の子に熱上げてイカレてるだけの話です。」
「尾関クンはなんで普通の恋愛をせえへんの?若い頃は彼女もおったやろ?」
「それがね、もう少しで結婚かというタイミングで、他の女の子にちょっかい出したのがバレて、一気にパーですわ。」
「それ以来なんもないの?」
「なかなかね。出逢いが無いやないですか。当時の職場の女の子はみんなボクの振られた理由を知ってましたから、誰もボクには寄り付きませんし。女の子同士のオシャベリネタになってたらしくて、新入社員の女の子でも知ってるぐらいやったし。」
「あははは。そういやそうやった。当時のネタとしてはいじくりやすかったからな。」
そこへマスターが両手に膳を抱えて二人の間に入ってくる。
「はい、お待ちどう。ねえさん、どっかコイツにお似合いの女の子おらんやろか。誰か紹介してやってもらえませんか。」
二人の話を聞いていたかのような入り方だ。
「マスター、先輩にどんな話をしたんですか?」
「ああ?おまいさんがこのテーブルでワンワン泣いてた話やんか。ヒデちゃんもいっしょやったなあ。」
「そのヒデちゃんってY企画のやろ?」
「仕事先までは知らんけど、いっつも二人で風俗の話をしてやがる。アイツの方がちょっと遊び人かな。コイツはそれに付きおうてるだけかもしれんが、泣いてんのはいっつもコイツの方や。」
「ボク、そんないっつも泣いてたりせえへん。ヒデちゃんよりちょっとだけ本気になりやすいだけやんか。」
すると加藤女史は大きく溜息を吐いて陽平の肩を叩く。
「あのな、夜のお店の女の子に本気になるってアホちゃうか。完全に騙されてるだけやんか。しっかりしい。」
「ホンマに仲良うなるんですよ。デートもしたし、次に会う約束もしたはずやったし。」
「デートっていうたかて、同伴出勤しただけやんか。おねいさん、よう言うてやって下さいね。あっ、いらっしゃい。」
マスターは、そのタイミングで店に入ってきた客の方へ移って行く。
「とりあえず食べよ。これは美味しそうや。」
「うう。今から食べると自棄食いやな。胸焼けしそうや。」
加藤女史は豪勢なランチを頬張りながら、さらに話を進める。
「今度の日曜日、ココに行っといで。」
そう言ってテーブルの上に置いたのは、結婚相談所のチラシだった。
「一回、ちゃんとした結婚相談所に行ってみたら?風俗よりもエエ子がおるかもよ。」
「ええです。自分の相手は自分で探しますから。」
「そう言わんと一回行っとき。ウチの友だちもここの紹介で結婚した子おるし。」
「一緒に行ったろか?」
「それもええです。エエ年して会社の先輩同伴やて恥ずかしいにも程があります。」
「それやったらな、このバーに行ってみ?」
次に取り出したのは、あるバーのメンバーズカードだった。店のロゴと名前だけがカードいっぱいに描かれている。その店の名前は『ロンリーナイト』。なんだか聞いたような店の名前である。
「ん?これって何ですか?」
「今もやってるかどうか確実やないけど、七~八年も前かな。ウチが今の旦那と知り合った場所。入店の条件は一人であること。結構な人たちが出逢いを求めて飲んでるで。」
「そんな古い話、今も残ってる訳ないやないですか。」
箸の進まぬ陽平に比べて食欲旺盛な加藤女史は、早くもデザートのフルーツに手をつけはじめる。
「ところがな、ウチのだんなが最近店の前を通ったら、まだ看板があるって言うてはってん。昼間やったらしいけどな。」
「これって加藤さんの会員カードですか?」
「そうや。ウチも先輩からもらってん。せやから次はアンタにあげる。有効に使いや。」
「そんな漫画みたいな話、ホンマにあるんですか。」
「あのな、宝くじも一緒や。買わな当たらへんやろ。その店も行かな出会えへんで。」
箸を止めて、しばらくカードとにらめっこしていた陽平だったが、ココは素直にポケットにしまいこんだ。
「一応、お借りします。」
「返さんでエエねん。アンタに用事がなくなったら、次の誰かにあげたらエエねん。そういうカードや。名前書くとこ無いやろ。」
そういえば不思議なカードだった。
「アンタがウチの会社に入ってきた頃は、カワイイヤツが入ってきたなと思ってたんやけどな。」
「そんなこと言わはんねやったら、加藤さんがボクと結婚してくれてたら良かったんやないですか。」
「ウチな、年下には興味ないねん。特にアンタみたいな子供っぽい大人にはな。こないだ梨香ちゃんも言うてたけど、根はエエヤツなんやから、ちゃんとした恋をしたら、ちゃんとした結婚ができるはずやで。」
「うう、ちくしょう。なんか腹が立ってきたら、無性に腹も減ってきた。」
そういうと、今まで進まなかった箸だったが、あれよあれよという間に皿の上のディッシュを陽平の腹の中に送り込んでいく。
「先に戻るわ。昼からの用意しないかんし。」
すでにデザートまでを空にしている加藤女史は、スッと立ち上がり伝票を持って出口へと向かう。
「えっ?今日はボクの支払でしょ?」
「ええよ。出世払いな。見込みは薄そうやけど。その代わり、そのカード使って彼女が出来たら、ちゃんと報告するんやで。」
加藤女史は、口の周りをホワイトソースだらけになっている陽平を残して、先に店を出た。後に残された陽平は、もう一度ポッケから不思議なカードを取り出して、何かに取り付かれたようにじっと見つめていた。
「これもエエけど、先に寧々ちゃんとこ行かな。」
結局、陽平の耳には加藤女史のアドバイスは入っていかなかったようである。
そして夕方、加藤女史に命令された残業に付き合っていると、胸のポッケからけたたましくケータイが鳴り響いた。秀哉からだ。
「あっ、忘れてた」
慌てて電話に出る陽平だったが、電話の向こうでは秀哉が喧々囂々と騒ぎ立てている怒鳴り声が聞こえている。だからと言って、大勢の人が喚いているわけではない。
「六時に『かば屋』って言うてたやろ?いつになったら来るんや?」
「アカンねん、残業中や。今日は行かれん。」
「オレの見合いの相談はどうすんねん。」
「そんなんオレの知ったことか。勝手にしたらええやん。今はそれどころやないねん。恐い先輩に睨まれて残業しとんねん。また今度にしてや。」
するとそばで電話を聞いていた加藤女史が茶々を入れてくる。
「ちょっと、誰が恐い先輩なん?」
「あかん、恐い先輩に聞こえてる。またな。」
「遅なってもかまへん。ちょっと来てくれ。待ってるし。」
「十時になるぞ。」
「ええで。三十分もあったら間に合うし。ほな。」
そう言って秀哉は電話を切った。
「また悪い友達からの誘いやな。」
加藤女史にはすでに察しがついているようだ。
「やるだけやってから行きます。」
「K商事の分までできたら終わってもエエで。せやけど、そこそこにしときや。」
「ハイハイ。」
「ハイは一回でええねん。」
「ハイ。」
陽平は三十分ほど集中し、業務をこなした。続きは明日の業務に回せばよい。最後の計算を終えると、大きく溜息をついた。
「じゃあ加藤さん、お先に失礼します。」
「ハイハイ。」
「ハイは一回でええんでしょ?」
「ハイハイ。」
そんなやり取りは関西ならではの会話かもしれない。
会社を出ると急ぎ足で『かば屋』へ向かう。
そろそろ冷たい風も和らいでいる。残念ながら星明かりはクッキリ見えないけれど、月だけはニッコリと微笑んでいるようだった。
時刻は九時の少し手前だった。
道行く人は駅へ向かう流れが多く、今から繁華街へ向かう人はその激流に逆らいながら進まねばならなかった。
会社からほど近い『かば屋』には十分程度で到着する。中では秀哉が今や遅しと手薬煉を引いて待っていた。
「おう、早く来れたな。恐い先輩もオレとの面談やと早めに解放してくれるんかいな。」
「あほ、逆や。あんまり深みにはまりなやって言われて来たで。ほんで、話ってなんやねん。めんどくさい話はゴメンやで。」
「あのな、初対面の女の子に喜ばれるプレゼントってなんやろ。」
陽平は秀哉の顔をじっと見つめて、しばらく黙っていた。
「そんなん、ヒデの会社の女の子に聞いたらええんちゃうん。オレも女の子の気持ちなんかわからへんし。」
「イヤイヤそうやない、おまいさんの感性を聞きたいねん。実際にするかどうかは別の話や。他にも初対面の女の子とどんな話題をするのかとか、どうやってデートに誘うのとか、陽平流の感性を聞き出すのが今日の目的やねん。」
「そんなもん、なんの役に立つ?オレとお前は別人やし、日頃からオレのこと結構馬鹿にしてたやんか。」
「それがな、最近見直すようになってん。どうもオレのやり方はアカンらしい。会社の女の子が言うにはな、最近は優しさが優先やって言うねん。それで思い出すのが陽平先生のやり方やんか。今まではイマイチやったかも知れんけど、これからはおまいさんのやり方が評価されるんちゃうかという訳や。」
いつにもまして荒い鼻息だ。目も血走っている。コレは相当本気なのかもしれない。陽平は真剣な眼差しで秀哉を凝視する。
「どっちにしても、ヒデちゃんの気持ち次第なんちゃう?相手にもよりけりやし。もう三十路やで、若造と違うんやから自分のことは自分で考えな。」
「わかってるけど、例えばの話を聞きたいねん。プレゼントは何がええ?」
陽平は困った顔をするしかない。だいたい、そんな想定など考えたこともなかったし、寧々に初めて会いに行ったときもプレゼントなんて用意しなかった。
「モノで釣るんやなくて、自分のことを正直に話したら。それ以上ヒデちゃんにアドバイスすることなんてなんもないわ。」
「ちぇっ、冷たいなあ。親友が本気で悩んでんのに。例えばって言うてんねん。」
「ほんなら言うけどな、初対面の女の子にプレゼントなんかあげたこと無いし、食事に誘ったことも無いし、話題なんかそのとき次第や。」
「なるほどな。普通に接したらええねんな。って、何にも答えになってないやん。」
「そんなんしか言いようがないわ。もう帰るで。明日も普通に仕事やし。残業続きで疲れてるし。今日はご馳走さまでええねやろ?」
「また奢ったるさかい、呼んだらすぐ来てや。」
陽平はそれに答えずに席を立ち、上着を羽織って店を出る。
なんだかモヤモヤとした感情が湧いてくる。
自分は優しいのか?さにあらず。相手の気分を害さないようにしているだけだ。秀哉が思っているのと少し違うと思う。そう思いながら帰り道を歩いていた。
「何かプレゼントをした方がいいのだろか。」
などと考えながら。そんな想いに揺れ始めていた陽平だった。
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