第5話 「真理」


 彼女の体が儚く感じた。

 この白く柔らかい腹部には、たくさんの臓器が詰まっている……その暖かさを、やさしさを、なぜだか、普段以上に、色濃く感じることができた。



 一定のリズムで体をこすり合わせる度に、彼女は吐息をもらす。その苦しそうな喘ぎ声は、まるで、すぐ横で僕らをジッと見つめる女性の身の内から流れ出る、悲惨な喘ぎ声に似ているようにも思われた。


 その時、僕は自分の太ももに生暖かい感触を感じてハッとした。

 血だ。彼女の女性器から流れ出ている。

「ごめん、大丈夫?」

「ううん。ぜんぜん平気よ」

 

 けれども、けれども僕は、その血の匂いが、血ではなく、海で嗅ぐような潮の臭いと、魚たちが死に腐ったような鮮烈な臭いに思えた。しかしそれには全く嫌悪感が無く、僕をとても不思議な気持ちにさせた。幼い頃の純情な記憶が蘇って、すごく懐かしい気持ちにさせた。

 


 気が付くと、僕の胸からも、どうしてか、ケガをしているわけではないのに、鮮やかな血が流れていることに気が付いた。自分の胸に意識を向ける。

同じく、海で嗅ぐような、生と死の残酷な匂いがした。

 


 頭上の絵の女は、妖しく微笑んでいる。黒々とした眼球から、僕は目を離せなくなってしまっていて、快感と、不気味さを感じているうちに、あの時の、鮮烈な記憶が蘇ってくる。天空から降り注ぐ血を、あどけない僕らは一緒に受けたのだ。

 

 あの時の彼女を、今、こうして僕は抱いている。

 自分の手の中にある華奢な生命を感じている。

 彼女はやさしく吐息を漏らし続ける。

 彼女をギュっと強く抱きしめて、その中で果てた。



 行為が終わって服を着て、「白壇」の匂いが薄れてきたな、と感じた頃、彼女はパソコンでユーチューブを開いた。喰人祭に関する動画を見るためである。

「定期的に見たくなるの。演説」と、マリちゃんは言った。

「ああ、あれはいいよね」

 演説、というのはトーテム博士の演説のことだ。

当時、喰人祭は人々から受け入れがたいものだった。あまりの猟奇的、扇情的な光景は人々を混乱させて、激しい反対運動にあった。


 そこで彼は「喰人祭」の必要性を訴えるため、世界各地で会見を開いた。それぞれの国で、それぞれの言語で、彼はその必要性を訴えた。僕らが今見ようとしているのは、今から四十年前の、日本講演の時の動画だった。ビシバシと身振り手振りをしながら語るトーテム博士は、まるでヒトラーみたいだと思った。




 世界に神がいるとするのなら、ヤツほど不条理で、理不尽で、残酷なものはいない。ごく一部の富裕層が世界のほとんどの富を握る一方で、日々飢えと戦い、貧困に喘ぐ幼い命がごまんといる。世界の均衡が崩れている証拠である。

 現状はこればかりではない。先進国と呼ばれるここ日本においても、しかしその精神性は大きく退廃していると言えよう。

 日本は本当に豊かな国であるのか、いや私はそうは思わない。

 確かに、物質的には豊かだろが、化けの皮一枚剥がせば、いたるところに残酷は満ち溢れている。醜悪で、血も涙もないヤツらがウジャウジャいやがる!

 世の中には、生きたくても生きられない命がある。

 だがしかしその反面、幾度となく「死にたい、死にたい」と思う夜があっても、どうしても死にきれない命があるのもまた事実なのである。

 そこで私は考えた。

 命のマッチング制度である。

 私が開発した『準エントロピー移転装置』とはつまり生命の移転装置のことである。

 命そのものをエネルギーとして変換する素晴らしい装置なのである。

 生きたくても生きられない人、死にたくても死にきれない人、この二つが出会い、命のやりとりを行ってこそ、世界の均衡は保たれるのだ!

 細かく細かく分断された肉体は、はるか上空で巨大な生命の塊として姿を現すだろう。そのとき、人々は残酷だ、グロテスクだ、と叫ぶだろう。しかしその姿こそ、人間の本来の姿であり、私には、いまの世の中の理不尽こそが最も残酷でグロテスクなように感じる。

 本来、命というのは流動的であるべきなのだ。

 生きたいものが生き、死にたいものが死ねる世界へ!

 いざ生命を紡ごう、究極のマッチング制度…………喰人祭!



 動画を見終わって、僕らは微笑んだ。

 トーテム博士は天才だと思う。確かに最初は反発も多かっただろう。喰人祭という行事を実行するというのは、生命の倫理観が大きく試されるものであり、勇気がいるものだったに違いない、と、そう思う。

 


 僕も、トーテム博士の意見に賛成で、ほんとうに喰人祭などよりも残酷な出来事は世にたくさん溢れている。例を挙げればきりがない。日本においても、集団暴行、殺人事件、いじめ、虐待、他にも、人々の精神をえぐるような、人とは思えぬ所業をする犯罪がたくさんある。

 

 人々はその残酷さから目を背けている。

 その醜悪な世界の中で「死にたい」と思っても死ねない。「苦しい」と叫んでも救われない人々が大勢いる。反面「生きたい」と思っても死んでいく命が、たくさんある。

 

 この現状を解決するには、マッチングを図るほかにないのだ。

 死にたい人がその生命を、生きたい人に与えればいいだけの話なのである。

 その命というシステムを科学的に解明し、命そのものが持つ残酷さを浮き彫りにしてくれたトーテム博士を僕は心から尊敬していた。

 

 また、そのマッチングの制度や、命そのものをエントロピーとして変換するシステムは実に複雑極まるものであり、勉強の余地がたくさんあった。それは将来、喰人祭の実行委員会として活躍するために必要な勉強だった。

「……命って、ほんとうに価値があるものなのかな」

 

 と、マリちゃんは不思議そうな表情になってそう言った。

「分からない。一度壊れたら、もう元には戻らないから、価値のあるものとして人間が扱っているだけのかもしれない」

「命の価値? それって誰が決めるの? 人間? 神様?」

「さあ、わからない。ただ、少し前までは、命は、少なくとも……欲するものが得て、手放したいものが手放すことができるような代物じゃなかった。それができない世界だった。そんな不均衡な、不条理な世界だったからこそ、命に価値を見出す人が多かったのかもしれない。世界があまりにも残酷だから、人々は命をお守りのように大切に扱った。たったそれだけの話なんじゃないかな」

「そう、かもしれないね」と、彼女はやさしく微笑んだ。



 だんだんと陽が落ちてきた。窓の外は薄暗くなって、街灯の光がぽつぽつと付いているのが見えた。紺碧の空が、僕らの部屋にまで落ちてきそうだな、と思った。

僕らはそれほどまでに長い間、お互いの肉体を感じていたようである。

 

 いつのまにか、ユーチューブの画面が勝手に切り替わって、今度はヒトラーの演説が始まってしまった。

 


 まるでトーテム博士の演説ように、ビシバシと身振り手振りをしながら演説している。マリちゃんはそれを確認すると、ノートパソコンの電源を落とした。



「この時代はね、たくさんユダヤ人が死んだんだよ。もしあの殺戮が、今の時代に

起きたのだとしたら、移転装置があるから、きっと……きっと、世界中から集まった自殺志願者の人たちが、天空で、とっても、とっても美しい喰人祭を繰り広げるんだろうね。どう? シロウくん。天空に、たくさんのユダヤ人がいるの。それでね、それで、向かい側にはたくさんの日本の自殺志願者がいるのよ。みんな裸なの。みんな裸で、ありのままで、喰い合いを始めるの。桜並木がみーんな血で染まるの。あのね、あのね、それは昔、私たちが小さい頃に見た喰人祭よりも、もっとずっと美しくて、美しくて、鮮明で、衝撃的で、残酷だけど素敵なことなの。だってそう思わない? だって、生きたいと思ったユダヤ人たちが、日本の自殺志願者たちを食べるんだよ? 喰人祭って、そういうものなの。必死になって、必死になって食べちゃうの。それで地上に降り注ぐ鮮血はね、その鮮血はね、本来的に美しいものなんだよ? 戦争で流される血は、とても残酷だけど、喰人祭で流される血はね、その血はね、キリストよりもね、そのね、十字架に張り付けられたキリストから流れ出る鮮血よりもね、もっと、ずっと奇麗なんだよ? たくさん地上に降り注いだその血はね、桜の花びらを散らして、その血を纏った花びらは永遠に大地に舞い続けるんだよ? それはね、それは命の価値だから、命の価値って、そういうものだから、だからね。それって素敵だと思わない?」





 ほのかに興奮の表情を浮かべて、マリちゃんは僕に訴えかけてくる。

 僕は彼女をギュっと抱きしめた。

 

 この華奢な生命をずっと感じていたいと思った。僕は、毎年起こる喰人祭を、この子と一緒に死ぬまで見ていたいと心の底から思った。


「その通りだよ。ほんとうに、ほんとうにその通りだ。みんなは喰人祭を残酷というけど、僕らは、この美しさに気が付いている。それは素晴らしいことなんだ」

「うん。しあわせ」



 マリちゃんはそう言って、僕の体を抱きしめるその腕の力を、より一層強めた。しかし、そのぬくもりは、どこか壊れかけた存在のようにも思えた。儚く散ってゆく桜のような存在感があって、僕を少し不安な気持ちにさせた。

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