016「サヨナラ」

 枢木邸に時間は戻る。


 幸さんの手の中にある写真から、枢木雪枝が目線を上げた。

 表情は複雑そうだ。

 僕が初めてこの写真を見た時と同じ感覚なのかもしれない。


「これが、おばあ様の遺影……」

 枢木邸の広い部屋の中で、そのつぶやきはいやに大きく響いた。


「そう。これが、私が求めていた写真」


 そういって、幸さんは枢木に微笑みかけた。

 その表情はやっぱり上品で、僕は少し見とれてしまった。


 幸さんは僕の方に向き直った。

「本当にありがとう。ササキさんによろしくお伝えください」


「はい。それから、報酬の件でササキから言伝を受けています」

「あら、なんて?」

「報酬は、その写真が遺影として使われてからで結構だそうです」

「そう?」

「はい。遺影として撮ったものだから、実際に遺影として使われた時にお支払いいただければいい、とのことでした」

「そうなの……。では、そうさせていただこうかしら。雪枝ちゃん?」

 

 幸さんは、どこか放心状態に見える枢木に言った。


「この写真が遺影として使われる時、私はもういないから、後のことお願いできる?」

「……わかりました」


 枢木は悲痛な顔をしている。

 そんなこと、想像もしたくない、と。

 枢木が幸さんのことをどれだけ大事に思っているかが感じ取れる。


「では、僕はこれで失礼します」

「ええ。本当にありがとう。雪枝ちゃん。彼を玄関まで送ってあげて」

「はい……」


 僕は荷物を持って、部屋の扉の前に立った。

 振り返って、幸さんに一礼しようとしたとき、ふと思った。


 これで、幸さんに会うのは最後になるかもしれない。

 今日で会うのは二回目だし、さして親しくしたわけではないけれど、今生の別れと思うと言い知れないわびしい痺れが身体を一瞬震わせた。

 

 もう二度と会えないかもしれない。なら、どうしても聞いておきたいことがある。


「あの、幸さん」

「なにかしら」

「あの写真で、本当によかったんですか?」

「ええ。素晴らしいわ」

「あんなに、悲しくて寂しい写真が、あなたの人生でいいんですか?」

 

 口調が強くなる。身体の芯が熱くなるような感覚がする。

 失礼は承知だ。でも、どうしても聞きたい。


「ちょっと、赤坂君?!」


 枢木が止めに入るが、僕はどうしても聞きたかった。


「……仕方ないの。私にはもう時間がないのよ」

「でも……まだあなたは生きている! こんな寂しい結末にならないために、できることが少しでもあるのなら……!」

「その、できることがこの写真だったのよ」


 彼女の声は毅然としていた。

 何を言われても譲らない強さがあった。

 ……わからない。僕には幸さんが何を言っているかわからない。


 人生の結末がこんな悲しいものでいいなんて、僕には理解ができない。


「お引き取り願おうかしら。私、疲れてしまったわ」

「……。失礼しました。帰ります」

「赤坂君……だったかしら」

 扉を開けた僕に向かって、幸さんが言った。


「あなたは、とっても優しい子なのね」


 僕は黙って部屋から出て、扉を閉じた。

 扉を閉じた音がとても大きく聞こえた。



「じゃあ、赤坂君。本当にありがとう」


 枢木邸の玄関、というか巨大な入口まで枢木は見送りに来てくれた。

 

「いや、それよりさっきはごめん。声を荒らげたりして……」

「多分、おばあ様も気にしてないわ。少し驚いたけれど」


 枢木は無表情だ。が、不思議と冷たさは感じなかった。


「枢木は幸さんのこと、慕ってるんだな」

「ええ、あの家の中で、私の辛さをわかってくれたのはおばあ様だけだったのよ。何度も助けてもらったし、慰めてもらった」


 表情が自然と緩んでいる。無表情のわりに、わかりやすい奴だ。


「だから、この件だけは絶対に成功させたかったの。本当に、うまくいってよかった」


 その表情には安堵感が漂っている。本当に、彼女にとって幸さんは大切な人なのだろう。

 

 出会ってから、というか屋上で話をしてからまだ二週間ほどしか経っていないけれど、僕は枢木の色々な顔を見た。


 冗談を言う顔、拒絶の顔、心配している顔、安堵の顔。

 少しだが、表情で彼女の感情は読み取れるようになってきた。


 でも、一番印象に残っているのは、枢木が枢木の父と話しているときの表情だ。


 完全なる無表情。

 人形のように、言われるがままに僕らに膝をつきかけたあの表情。


 撮影の時、幸さんの人生の話を聞いた時も、僕はその表情を思い出した。


 枢木雪枝も、同じような人生を歩むのではないだろうか。

 

 ササキの写真のような、人生を……。


「おばあ様の最後のお願いだから、ちょっと無茶してしまった。お父様の言いつけも破ってしまったし。でも、もうこんなことはしないわ」

「……そうか」

「ええ、これっきり。私はもとの生活に戻る。だからね、赤坂君」


 枢木は、丁寧なお辞儀をした。

 このお辞儀は見たことがある。

 「喫茶クロワッサン」を出た後、タバコの臭いが付いたブレザーを捨てていったあの日のお辞儀だ。

 

 誰も近寄らせない。

 誰も関わらせない。

 そんな意思のある、形だけは美しい、他人行儀の礼。


「図々しいお話かもしれないけれど、私と関わるのはこれきりにしてください」


 言ってやりたい。

 そんなの間違ってると。

 僕にできることがあったら言ってくれと。

 

 でも、僕はササキの言葉を思い出した。


「本当に必要になれば彼女の方から助けを求めてくるよ。シュン君はそうなった時手を差し伸べてあげればいい」


 

「……本当にそれでいいんだな」

「ええ。お願いします」

「……わかったよ」

 

 何も言えなかった。

 本当にこれでいいのだろうか?

 僕にはわからない。


「じゃあ、赤坂君。サヨナラ」

「ああ……。サヨナラ」


 僕はそう言って、枢木邸を後にした。


 これで、枢木との関係は終わり、僕らは日常に戻る。

 

 次の日から枢木は学校に現れ、誰ともしゃべらず、もちろん僕ともしゃべることはなく、いつも通りの異常な学生生活に戻っていた。


 僕も、枢木に話しかけるようなことはなく、学校とバイトの行き来を繰り返す生活に戻った。


 僕らは少しずつ一連の出来事のことを忘れて、お互いがお互いの教室の風景の一部になっていく。



 そうなるはずだった。


 枢木邸で写真を受け渡した一週間後の放課後、僕の下駄箱に一通の手紙が入っていた。

 見たことのある筆跡だ。


「祖母が亡くなりました。お別れを言いに来ていただけませんか?

 枢木 雪枝」

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