第1話 朝
最初僕は、夢でも見ているのかと思った。もしくは、死んでしまったのかと思った。しかし、夢を見ている時にここまで嗅覚を鋭くはたらかせたことはなかったから、これは夢ではないのだろうとすぐにわかった。同様の理由で、死んでもいないだろうと思った。
僕がアヤさんの靴の中敷になっていることを察したのは、本能的なものとしか言い表せなかった。アヤさんの家の玄関も、アヤさんの足の匂いも、もちろん知らなかった。しかし一方で、この冴え渡る本能を鑑みると、夢か幻のように思えてしまう自分もいた。
ところで、僕の視界はあまりにも窮屈だった。電気が消された玄関の天井をただ眺めることしかできない。いままで自由に女の子の脚を舐めるように見ていたのと正反対のことになってしまった。僕はこのままずっと天井を見続けるのであろうか。
そのとき、家の奥の方から光が差した。アヤさんの部屋からだ。きっとアヤさんが目覚めて、部屋の明かりを灯したのだろう。そしてすぐに陰が僕を覆う。この引き締まったシルエットは間違えなくアヤさんのシルエットだ。僕は不意に興奮した。僕はやはりアヤさんの部屋に来たようだ。
アヤさんは関西の方から出てきていて、一人暮らしをしていた。僕はそのことを知っていたので、アヤさんの部屋に入り込めたことへの興奮はさらに増した。この部屋には僕とアヤさんしかいないのだ。
しかし、僕はそこで冷静になってしまった。こんな状態ではアヤさんに何もできない。体を動かそうとしてみたが、おそらくびくともしていない。人間の体に比べて、中敷というものは強固にできていて、僕の力では動かせないのかもしれない。もしくは、もう僕には何もできないのかもしれない。もちろん、先程の興奮した時も、実際にペニスが勃起したような感覚はなかった。
いま何時であるかとか、そういう生活に必要な情報も自分からは得ることができない。さて、どうしようか。このままでは、ずっとひとりで、この狭い空間に閉じ込められ続けることになってしまいそうだ。お腹は空かないだろうか。眠れるだろうか。僕は人間としての性質を失っていて欲しいと願いつつ、しかし、それも悲しいことだと、余計に冴え渡る脳で思考を繰り返し続けた。
アヤさんは、その後一向に動く気配がなかった。もう一度布団に潜り込んだのだろうか。アヤさんの布団に僕も潜り込みたい。しかし、靴の中敷が布団の中に入るはずがない。そう僕が自動的に思った刹那、僕はやはり中敷になってしまったのだということを察した。いよいよ諦めの気持ちが強くなってきた。
自分が中敷になってしまったことをずっと悔やんでいても仕方ないため、僕はアヤさんの後期の時間割がどうなっていたかをなんとか思い出そうとした。僕は人間だった頃、アヤさんのツイッターを見つけ、フォローはせずに静かに、しかし頻繁に見ていた。彼女は自分の時間割をツイッターにアップするような人ではなかったが、リプライで友人と話しているところまでチェックして、大抵の時間割を判明させていた。僕は授業の半分以上をアヤさんと被らせていた。
そして、思考を巡らせた結果、今日、月曜日の授業は確か3限からしかないのではという結論にたどり着いた。3限からとなると確かに二度寝は余裕でできるはずだ。僕とアヤさんが接触する可能性は、午後までお預けのようだ。僕もそれまで二度寝をしてみようと目を瞑った。思ったより体を休められるような感覚がした。体が伸びて、スポンジが膨らんでいく感覚があった。僕はやはり中敷だった。
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