第10話約束と黄昏


 真っ白な角砂糖に紅茶が染み込んでいき、崩れ、はかなもろく溶けてゆくのを、茉紘まひろ紫亜しあはじっと見守った。

それはまるで魔法みたいに不可思議な時間だった。一瞬のようでもあり、永遠のようでもあり、ふたりとも息をひそめて見守った。

 角砂糖の姿が見えなくなると、紫亜は夢の終わりを知らせる妖精のように、スプーンをくるりと回して、茉紘に微笑んでみせた。茉紘は胸の高鳴りを感じながら、紫亜の目を見つめて言った。

「…私も」

「え、」

「私も、同じ事思ったことがあるの。砂糖が溶けていくのが、まるで人魚姫が海の泡になって消えていくみたい、って」

「茉紘さんも」

ゆっくり頷く茉紘。

「不思議ね。…私も、こんな事を誰かに話したのは茉紘さんが初めて。でも、きっと、茉紘さんなら分かってくれるような気がしたの」

紫亜は何故かしらね、と少し困ったような切なそうな笑顔を茉紘に向けた。そして、紅茶に口をつけた。花びらみたいな可憐な唇がティーカップに添えられる様がとても綺麗だった。

「美味しい。折角の紅茶なのに、無粋な楽しみ方をしてしまって、ごめんなさい」

「そんなことないわ。好きに飲むのが一番よ」

「…さっきは、好きに生きたい、とは言ったけれども、普段は人目があるところではこんな風にして飲まないように、一応、気をつけてはいるわ」

自嘲気味に笑う紫亜が、茉紘には痛々しく見えた。好きに生きたい。それは、紫亜がそう願うだけの何かがあるのだろう。そして、理想通りにはいかない現状に苦しんで、それならいっそ砂糖みたいに消えてなくなってしまえばいい、と。紫亜はきっと今そんな風に思っているのではないだろうか。茉紘はぎゅっと胸を掴まれるようだった。

 窓を背に春の光を受けながら、両手で包み込むようにして紅茶を飲んでいる紫亜が、なんだか哀しいくらい綺麗だと茉紘は思った。

今、長い睫毛を伏せているこの美しい顔を、もっと笑顔に出来たら。ティーカップを持つ繊細な細い手を繋いで一緒に歩けたら。

何か少しでも紫亜が消えたいと思わずにいてくれるような、そんな事が自分に出来たら…。

急に溢れ出た思いは、茉紘の心の中で波紋を広げた。

 ふいに、紫亜が庭の方へ顔を向ける。

「今日はいい天気ね。昨日の雨が嘘みたい」

紫亜への想いに気を取られていた茉紘は、ハッとしたように紫亜が顔を向けた庭の方へと視線を移した。

「そうね、昨日は本当に急な雨だったから困っちゃった」

「茉紘さんは何かに夢中だったものね。一体あそこで何をしていたの、」

「…絵を、描いていて。あまりにその、庭が綺麗だったから、つい」

恥ずかしそうにする茉紘に、紫亜は優しい微笑みを返した。

「知ってるわ。私、実はずっと見ていたの」

「え、」

「ここに帰ってきて、二階の自室の窓から庭を眺めていたの。そうしたらミントが来て、その後すぐに茉紘さんが来たの。私とてもびっくりしたわ。それから、茉紘さんはすぐスケッチブックを開いて何かを描き始めた。私、どうして茉紘さんがここに、って疑問もあったのだけれど、でもすぐにそんな事はどうでも良くなって…なんだか茉紘さんから目が離せなくなってしまったわ。とても楽しそうに絵を描くんですもの。…それで、急に雨が降ってきて。茉紘さんが慌てて転んだのが見えたから、助けなくちゃって」

そんなふうに一部始終を全部見られていたのかと、羞恥心から茉紘は耳まで赤くなった。そんな茉紘を紫亜は可愛らしい、と思いながら続けた。

「ね、何を描いていたのか、見せてくれない、」

「え、そんな、とてもじゃないけれど、見せられるほどのものじゃないし…それに、あの…」

しどろもどろという表現がぴったりな程、茉紘はひどく慌てた。

「私下手だし…それに、まだ完成してないし」

「じゃあ、完成したら見せてくれる、」

「う…、それは、その…」

「絵を完成させるためにこの庭が必要なら、いつ来てくれても構わないのだけれど」

「本当、」

椅子から飛び上がらんばかりに茉紘から食いつかれて、紫亜は少し呆気にとられてしまった。

先程までの茉紘とはうって変わって、目が輝いている。

「え、ええ、もちろんよ。私は毎日ここに来られるわけじゃないけど、庭ならいつでも開放するわ」

「毎日来られるわけじゃない…って、ここって紫亜さんのお家ではないの、」

しまったという顔をしたのを紫亜は隠せなかった。それに本人も気付いて、溜息をついてから言った。

「ええ、実はそうなの。私の家はここじゃないわ」

「じゃあ、ここは…」

「元々は祖母の家だったの。祖母はもう亡くなってしまって、今はもう誰も住んではいないわ」

人の気配がしなかったのは、そういった事情があったからなのだと茉紘は納得した。

「そうだったの…。私子供の頃からこの家が憧れで。いつもここを通るたびに綺麗だな、って見惚れていたの」

「私も、ここが好き」

テーブルを愛おしそうに撫でながら、紫亜は目を細めた。遠い昔を懐かしむかのように。

「でも、まさかずっと憧れていた家で、紫亜さんと出会うとは思ってもみなかったわ」

「それは、私の方こそ。まさか猫につられて茉紘さんが入ってくるとは思わなかったわ」

茉紘はすまなさそうにし、そしてミントはというと、今はクッションの上で寝息をたてている。紫亜はクスクスと笑うと、少しあらたまった顔をして、

「でも、こうやって話せて良かったわ。その…朝は素っ気なくしてしまって、本当にごめんなさい」

と謝った。

「そんな、いいよ。私の方こそ、いきなり話しかけたりして迷惑だったよね」

「違うの。迷惑だなんて、そうじゃないの。ただ…私とは学院であまり親しそうにしない方がいいと思って」

「どうして、」

どうして、って…と口籠る紫亜の眉間に皺が寄る。

「茉紘さんも知っているでしょう。その…私の噂の事」

紫亜は小さな声でそう言うと、辛そうな表情になった。

「紫亜さんの…噂」

茉紘も暗い表情になり、うつむいた。

「やっぱり、茉紘さんも知っているのね」

紫亜が自嘲気味な笑いを浮かべる。

「あ、いや、でも…」

「いいの。茉紘さんがどういう風に知っているのかは分からないけれど、私が噂されて孤立するのは慣れっこだし、そういう風になるのを選んだのは私自身だもの。でもね、私の周りの人が言われのない差別を受けたり、私のせいでそこなわれるような事があったら、私は私を許せない」

静かに、だけれどもはっきりと、言葉のひとつひとつに意味を込めるように紫亜は話した。

「だからね、茉紘さんが私とこうやって親しくしてくれればくれる程、私とは一緒にいちゃいけないと思うの」

「紫亜さん…」

私は気にしないよ、と茉紘は言いたかった。けれども、ここでそんな安易な言葉を掛けても、より紫亜との壁を厚くするだけなのではないだろうか。そう思うと何も言えない茉紘だった。

 少しの沈黙がふたりの間に横たわる。ややあって、茉紘の方から話はじめた。

「さっきの…絵を完成させるなら、ここに来てもいいって紫亜さんは言ったよね」

「ええ、そうね」

急に何を話すのだろう、と紫亜は首を傾げながらうなずいた。

「なら私、たまにここに来てもいいかしら。学院では今まで通りのまま。でも、ここに来る時は紫亜さんと一緒に、またこうやってお話がしたいわ」

駄目かしら、とすがるような眼差しを向けられ、紫亜は、降参だわ、と心の中でそう思った。

「もちろん大歓迎よ。いつでも、と言いたいところなのだけれど。私、水曜日以外は全て習い事が入っているの。だから、ここに来られるのは水曜日のみ。それから、必ず小川さんが付き添ってるわ。それでも良ければ。もちろん、庭に入るだけならいつでもいいけれど」

「本当、なら水曜日は必ず来るわ」

茉紘は嬉しそうにそう言うと、しかしすぐに顔をしかめた。

「あれ、でも今日は…水曜日じゃないわ」

「ばれちゃったわね。実は今日はサボタージュよ」

いたずらっ子みたいに笑う紫亜。ええっ、と驚く茉紘。

「だって、今朝私あんな態度をとってしまって、茉紘さんそうとうショックだったみたいだから。ずっとその事ばかり考えていて。気が付いたらここにいたってわけ。自分でも驚いているわ。でも、やっぱりこうしてお話出来て本当に良かった」

「私もよ、紫亜さん」

ふたりは穏やかに微笑みあった。ミントがひとつ欠伸をして、ゆるやかなお茶会は黄昏の黄金色に染まった。


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