第9話野苺の花のお茶会と角砂糖

 春のあたたかな風が茉紘まひろのワンピースを揺らし、髪の毛を撫でていった。門扉の前で茉紘は軽く深呼吸をし、憧れの家を見上げる。庭にはまだ少し水溜りがあるのが、昨日の夕方の雨の事を思い出させた。

 さわさわと薔薇やひなぎくが風になびく。まるで誘惑するみたいに。

 ここはなんでこんなに居心地がいいんだろう。緊張していた面持ちの茉紘だったが、この家の前に立ち、花々の香りを胸いっぱいに吸い込むと、先程の緊張が嘘のようにほぐれていった。

 いつも開いている門扉を抜けて、正面玄関へ。昨日は、庭から続く裏口から入り、帰りはここから紫亜しあが見送ってくれた。

 木製の扉の前で、少し前髪を整え、それから呼び鈴を鳴らした。

どんな顔で紫亜は出迎えるだろう。迷惑そうな顔、それとも昨日みたいに笑ってくれるだろうか。もしかしたら、出迎えてすらくれないかもしれない。そんな事を考えながら、待つ時間はとても長く感じられた。しかし、家の中からはなんの返答もない。

「いないのかな、」

不安になりながらも、茉紘はもう一度呼び鈴を鳴らした。これでなんの返答もなければ大人しく帰ろう、そう思っていた時、

「茉紘さん…」

急に背なから呼びかけられ、茉紘は驚き、振り向いた。

「紫亜さん」

そこには制服姿の紫亜がいた。そして、足元にはあの白猫が、自分もいるぞと主張するように、にゃーおと鳴いた。

「あ、その猫さんも。昨日もここにいて…思わずついていってここに入ってしまったの…ごめんなさい、勝手に」

「そうだったの」

紫亜は学院ほどトゲがある雰囲気では無かったが、昨日のにこにこした紫亜ともまた違った。茉紘の方をほとんど見ない。でも猫の方を見て、少しだけ困ったような微笑を浮かべている。

「その猫さんとっても綺麗ね。紫亜さんの猫なの、」

「ううん、正確には私の猫じゃないわ。この辺に住みついている野良みたい」

「そうだったの、てっきり紫亜さんの家の猫かと…だって、こんなに綺麗だし」

「すごく人懐っこいから、半分飼っているみたいなものね。ここにも我が物顔で入ってくるし」

「う、まるで私みたい…。本当にごめんなさい、昨日は勝手に入った上にお世話にまでなって…」

申し訳なさそうにする茉紘を見て、紫亜はくすくす笑うと、

「いいのよ、そんなに気にしないで」

と言った。それを見た茉紘はやはり少しほっとした。

「でも、私、やっぱりきちんとお礼もしたくて。これ、うちのママが作ったパウンドケーキなの。それと、紅茶も」

紙袋を差し出すと、紫亜は

「そう…気を遣わせてしまったわね。ありがとう。いただくわ」

と、素直に紙袋を受け取ってくれた。

「あの、」

洋服も渡そうと茉紘が声をあげるのと、紫亜が声をあげるのとが重なった。少しの沈黙の後、二人同時に弾けるように笑い出した。

「茉紘さんからどうぞ」

「紫亜さんからどうぞ」

また声が重なって、茉紘も紫亜もなんだか嬉しいような、こそばゆいような気持ちになって、また思わず顔がほころんだ。先に話始めたのは紫亜だった。

「良かったら、少し中で話さない、」

「え、いいの、」

「茉紘さんが良ければ」

穏やかな微笑みで答える紫亜。その笑顔を見ていると茉紘はわけもなく幸せになってしまう事に気付いた。紫亜が鞄から鍵を取り出し、家のドアを開け、電気をつけると、その足元から我先にと先程の白猫が中へ入っていった。

「もう、ミントは」

紫亜が頬を膨らませ、仕方ないんだから、と呟くも少し嬉しそうな気配もさせて言った。

「ミントって呼んでるの、」

「そう、あのこを見つけた時、ミントの茂みでミャーミャー鳴いていたの。すっごくミントの香りがしたから、ミント」

単純でしょ、と紫亜が白い歯をのぞかせて笑う。

「そう言えば、ミントは、眼の色が左右で違うよね。あれはどうして、」

「オッドアイって知らない、」

知らない、と茉紘は首を横に振った。

「オッドアイっていうのは、ミントみたいに左右の眼の色が違う動物の事なの。凄く少ない確率で生まれてきて、聴覚に障害を持っている事もあるらしいわ」

「え、そうなんだ…。じゃあ、ミントも、」

「ミントは、どうだろう、正確には分からないけど、問題は無さそう。ほら、こんなに元気」

ミントは、椅子の上にあるふかふかのクッションの上に座って、自分の家のようにすました顔をしている。ふたりでその様子を見て笑い合った。

「茉紘さんも座って。折角だからこのいただいたお菓子と紅茶いただこうかしら」

「どうぞ。私が言うのもなんだけど、ママのパウンドケーキはすごく美味しいよ」

「それは楽しみ。私、甘いものに目がなくって」

またこの間みたいに制服に白いフリルエプロンをして、紫亜は紅茶を淹れるために、赤い薬缶でお湯を沸かした。

「私も何かお手伝いしようか」

「ううん、大丈夫」

慣れた手付きで、紅茶の用意をする紫亜はかわいいけれど、やっぱりしっかりしていて、茉紘よりも随分大人びて見えた。お手伝いしようか、と声を掛けたものの、茉紘は実はティーパックの紅茶しか淹れたことがなかった。野苺の花の柄のティーポットと、ティーセットをあたため、手際良く準備をしていく紫亜を、茉紘は憧れの眼差しで見つめた。

 パウンドケーキを開けると、美味しそう、と紫亜は喜び、茉紘はとても嬉しく思った。ケーキを切り分けていると、ミントも鼻をくんくんとさせている。

「ふふっ、ミントもお腹すいたのかな。うちにも実は猫がいるんだ。ヘーゼルっていう黒猫」

「へぇ、そうなの、黒猫ちゃんが」

「ミントとは真逆で、人見知りが激しいけどね。飼い主に似ちゃうのかな」

照れ笑いをする茉紘。

「今朝も紫亜さんに話しかけるの、とても緊張したわ」

「…ごめんなさい」

途端に暗い顔をする紫亜を見て、茉紘はしまったと思った。

「ああ、違うの。別に責めたわけじゃないの。私の方こそごめんなさい」

「ううん…」

それでもまだ紫亜の顔は晴れなかった。茉紘は、

「でも、今こうやって紫亜さんと話せているから、すごく嬉しい」

と、明るく素直に言った。紫亜は、え、と伏せていた目を茉紘に向けた。

「私、ずっと紫亜さんと話してみたかったの。昨日の事がある前から」

「どうして、」

「どうしてだろう…。そう聞かれると分からないのだけれど、なんだか前から気になっていたの」

そう屈託なく笑う茉紘に、紫亜は照れてしまう。なんと返せばよいか分からないまま、紫亜は紅茶をふたつのティーカップに注ぎ、角砂糖を添えた。

「どうぞ、お持たせで申し訳ないけれど」

紫亜は紅茶と共に切り分けたパウンドケーキも、ふたり分それぞれのお皿に取り分けた。

「かわいいカップだね、素敵」

「ありがとう。他にも色々あるのだけれど、春だし、この赤いギンガムチェックのリボンを見たら、この野苺のティーセットが合いそうだな、って思って」

先程のパウンドケーキをラッピングしていたリボンを手に取り、ひらひらさせながら紫亜は答えた。そして、いただきましょう、と茉紘にケーキをすすめた。

かわいいらしい野苺のお皿に乗ったパウンドケーキをひと口食べると、ふんわりとした甘みと、卵とバターの豊かな香りに包まれる。しっとりとしたきめ細やかな食感だけれど、決して重すぎない。素朴で愛情を感じる、どこか懐かしい味。

「ん、美味しい」

「本当に、すごく美味しいわ」

パウンドケーキを優雅にフォークでひと口食べた紫亜は、目をきらきらとさせながら、驚きの声をあげた。

「パウンドケーキがこんなに美味しいものだったなんて…。すごいわ、茉紘さんのお母様」

「喜んでもらえて良かった」

茉紘は、はにかんだ笑顔でそう答えた。

紅茶も香り高く、綺麗な水色すいしょくがあたたかな春の陽射しを透かしている。紫亜は、角砂糖をスプーンに乗せると、紅茶に入れた。角砂糖が脆く儚く崩れていく。

「それから…これ。紫亜さんは大丈夫って言っていたけれど、こんなに素敵なお洋服、私には勿体ないから…」

そう言って紙袋に入った服を、紫亜に差し出した。

「そう…、でも茉紘さんにとても似合っていたわ…」

ほんの少し残念そうな顔をしたものの、紫亜は素直に紙袋を受け取った。

「ありがとう、本当に」

「当然のことをしただけよ。あれから足の具合はどう、」

カップの端にある二つ目の角砂糖を溶かしながら、紫亜は茉紘を気遣った。

「うん、おかげさまで。もうだいぶ良いよ。小川さんにもお礼を言いたかったのだけれど…」

今日はいないのかな、と茉紘は少し辺りを見回した。

「彼女は、今日は来ないの。ここに来るのは週に一度だけだし」

「そうなの。ここは…茉紘さんのお家、」

そう茉紘が聞くと、紫亜は、まぁ、そんなところ、と目を伏せて呟くように言うと、側にあったシュガーポットから更に三つ目の角砂糖をスプーンの上に乗せ、紅茶に入れようとしている。茉紘は思わず、

「え、ちょっと紫亜さん、お砂糖そんなに入れるの、」

紫亜の意外な挙動に、茉紘は目を白黒させながら訊ねた。

「…茉紘さんもやっぱり入れすぎだと思う、」

悪い事をしたのを見付かった子供のように、紫亜は上目遣いで茉紘を見つめた。口籠る茉紘を見ると紫亜は、

「母親や小川さんにもそう言われるわ…。そんなにお砂糖を入れたら身体に悪いからやめなさい、って」

でも、と彼女は続ける。

「私、甘いものが好きなだけなの。皆身体に悪いって言うけれど、私は好きなものを我慢してまで生きてそれで楽しいとは思えない。それならいっそ、このお砂糖みたいに、あっという間に溶けて、どこにもいなかったみたいに消えてなくなってしまいたい、早く」

どこか熱っぽく語る紫亜は不思議な魅力を放っていて、茉紘は心を掴まれたみたいに聞き入ってしまう。

「それにね、ほら」

三つ目の角砂糖を紅茶の海にしずしずとひたしながら、茉紘に秘密をあかすようにひそやかな口調で告げた。

「角砂糖が溶けていくのが、人魚姫みたいで綺麗でしょう」

と。

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