第7話朝靄と朝露

 何も話せなかった。茉紘まひろは、帰ってきてからそればかり考えていた。迎えに来た母親にはこっぴどく叱られ、そそくさと夕飯をとり、自室に引き篭もった。

 茉紘は、紫亜しあともっと一緒に居たかったと思っている自分に少し驚きつつも、それがとても自然な事のように思えた。もっともっと話せたら、色々知れたら。

 転んで足を挫いた時に、傘を持って立っていた紫亜。心配そうに右往左往していた紫亜。かわいらしいエプロン姿でココアをふるまってくれた紫亜。優しく髪を乾かしてくれた紫亜。

 ひとつひとつの場面が頭から離れない。何度も反芻はんすうしながらも、まるで夢でも見ていたのではと思うくらい信じられない事の連続だった。

「でも…、夢じゃない」

部屋にある全身鏡に茉紘は自分の姿を写してみる。ミントグリーンのかわいらしいワンピース。衿元の鈴蘭の刺繍をそっとなでる。

 この服を綺麗に洗濯して、改めてきちんとお詫びとお礼をしよう。そして、

「もう少しだけ、仲良くなれたらいいな」

思わず笑みがこぼれる。そうだ、これからだって、まだまだお話する機会はあるはずだ。

 あの家で紫亜が声を掛けてきた時、聞きたいことはたくさんあった。この家に住んでるのかとか、あの猫さんを知っているのかとか。今でも確かにそれは知りたい事ではあったが、それよりも今は単純にもっと紫亜と話をしてみたいと思っていた。

 学院での紫亜とは違う、あたたかな優しい一面を持っているのだと知れたから。

 窓を打つ雨音も穏やかになって、天気予報も明日は晴れるだろうと言っていた。なんだか新しい素敵な事が起こりそうな気がして、茉紘の胸は高鳴った。



 次の日の朝、少し念入りに身支度をして、いつもより早く茉紘は自宅を出た。昨夜はなかなか寝付けなかった。今日あった素敵な事と、これからへの期待とを繰り返していた。

 そして、自分の髪の香りが、いつもとは違う事にもときめいてしまっていたという事は、誰にも秘密にしておきたい。

 朝靄あさもやが立ち込める中、茉紘はいつもの道を歩いていた。まずは、学院で紫亜に声を掛け、お礼をしたい事を伝えなくては。頭の中でなんて声を掛けようか、考えながら、あの憧れの家の前に差し掛かる。

 そこは昨日の事が嘘みたいにいつも通り静まりかえっている。きらきらとした朝露が薔薇の花や葉に滴って、更に美しい。

 ほんの少し立ち止まって、紫亜の事を想う。あの扉や窓から紫亜が顔を出しやしないかと、淡い期待を抱くも、しん、と家は静まりかえってなんの反応もない。

 学院で声を掛けるよりも、ここで偶然を装い、声を掛けられたらと引っ込み思案の茉紘は思ったが、どうやら神様はそうはさせてくれないらしい。

 少し未練がましく思いながらも、いつもの道を学院に向かって歩き出した。

 紫亜はいつも茉紘より先に学院に着いている。そう思って、いつもより早めに出たが、一体紫亜は何時に家を出ているのだろう。

 とは言え、いつも遅刻すれすれの茉紘よりは大抵の生徒は早く教室に着いているのだが。


「瑠璃子ちゃん、ごきげんよう」

「ごきげんよう、茉紘ちゃん」

学院の昇降口で偶然にも瑠璃子に出会い、挨拶をかわす。

「あれ、何か良いことでもあった」

「え、え、何で、」

「分かるよ、茉紘ちゃん顔に出やすいから」

くすくすと笑いながら瑠璃子は茉紘に告げた。

「うそ」

茉紘は思わず赤くなり両の手でぺたぺたと顔を覆った。

「で、何があったのか聞いてもいいのかな」

「えっ…と、それは…」

あたふたとする茉紘をにやにやとしながら瑠璃子は

「まぁ、話せないような恥ずかしい事なら聞かないけど」

と更に追い討ちをかけるような事を言う。

「ちょっと、瑠璃子ちゃん、」

赤い顔をしたまま少し怒った顔になる茉紘。

「あんまりからかうと教えてあげないよ」

「ああ、ごめんごめん。機嫌直して、茉紘様。何があったのか気になります」

まだ少し拗ねた顔で瑠璃子を見ていた茉紘だったが、すぐに緩んだ顔になり、

「今日のお昼休みにいつもの自然の庭で教えてあげる」

「ええ、それまでお預けですか、茉紘様。気になって授業中に寝れません」

「授業中に寝ないで」

茉紘は思わず吹き出しながら、瑠璃子を小突く。

「そうだよね、寝るのは保健室に限るよね」

瑠璃子は、保健室にいる事が多い自分を自虐的に皮肉ると、

「全くもう、瑠璃子ちゃんは」

と、茉紘が笑顔を見せた。

「それじゃ、またあとでお昼休みにね」

「うん、楽しみにしてるよ」

そういうと、お互いのクラスに入っていった。

茉紘は、クラスメイトにもごきげんよう、と挨拶をかわしながら、紫亜の姿を探した。すぐに紫亜の姿を見付けると、何故だか安堵あんどした。

 紫亜の席は、茉紘のいる席の隣の列の一番前。窓際の席だ。いつも通りひとり静かに本を読んでいる。朝は一番日当たりのいい席で、紫亜の艶やかな黒髪がより一層美しく見えた。

 いつもなんとなく自分の席から、紫亜を盗み見ていた。ずっと遠くから見ているだけ、そう思っていたけれど。

 でも、今日は声を掛けなくちゃ。ぐっと両の手を握りしめ勇気を出すと、紫亜の元へとゆっくり歩いていった。

「あ、あの紫亜さん」

本を読んでいた紫亜は、顔をあげると茉紘を見た。

「ごきげんよう」

緊張で強張りながらも精一杯の笑顔で挨拶した茉紘は、紫亜も昨日のような笑顔を向けてくれるものと思っていたのだが、

「ごきげんよう、茉紘さん」

紫亜は昨日の事が嘘みたいな冷たい表情で、茉紘に素っ気なく挨拶を返したのだった。

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