第6話石鹸と鈴蘭のワンピース

 あたたかい湯気が立ち昇り、ふんわりとした石鹸の香りが浴室いっぱいに満ちていた。

 あれから小川さんが手早くお風呂の用意をし、茉紘まひろの捻挫した足首を冷やして軽く処置してくれた。

「本当はこの状態の時にあまり患部は温めない方がいいんです。なので、出来れば軽めに入浴なさってください。それから、タオルと着替えはこちらにご用意がございますので。何かありましたら、なんなりとお申し付けくださいね」

「何から何まで本当にすみません」

小川さんは柔らかい物腰で、適度な距離感というものを心得ている人なのがすぐに分かった。

 その間に紫亜しあは、何か手伝いたいと思いそわそわとしながらも、見守っているしか出来ない、といった様子で、あたりをうろうろと歩き回っていた。

あたたかないい香りのする湯につかりながら、茉紘はさっきの紫亜の様子を思い返していた。普段、学校で見せる冷静な様子とはちょっと違う、年相応の女の子のような感じがした。

「それにしても…」

なんて広いお風呂だろうか。

大人がゆうに三人は余裕で入れそうだ。白いバスタブには、泡風呂が満たしてあって、なんとも清楚な石鹸の香りがしている。鏡は二つも付いているし、蛇口やシャワーは金と白のアンティーク調のかわいらしいデザインだ。ついゆっくりしてしまいたくなる。それでも、さっと髪と身体を洗い、タオルで身体を拭いた。

「着替えは…これ」

先程小川さんが置いていった着替えは、繊細な白のシュミーズと揃いの下着、そしてミントグリーンのシャツワンピースだった。衿元に鈴蘭の刺繍がしてある。

「かわいい」

こんなかわいい服を私が着てしまってもいいのだろうか。下着もワンピースも新品のようだった。

「こんなにしてもらって、本当に申し訳ないわ…」

勝手に庭に入り込んだ挙句、こんなにお世話になってしまった。本当なら怒られて呆れられても仕方ないのに。

下着を身につけ、ミントグリーンのワンピースを着ると、ほのかにミュゲの香りがした。肌触りも申し分なく、丈もほぼ合っている。これは紫亜の物だろうか。

申し訳ないと反省する気持ちと、次々と素敵な物に触れてうっとりとしてしまう気持ちとを繰り返しながら、茉紘は、

「なんだか、わけがわからなくなりそう」

と、独りごちた。

洗面台の鏡に写った自分は、まるで初対面の人のようで、茉紘はじっと鏡を見ながら、今自分に起こっている事は本当の事なの、と尋ねてみたくなる。つい先刻さっきまで、ただただ憧れていただけの家で今はお風呂に入り、更にその上、気になっていたクラスメイトの松原紫亜には助けられた。紫亜さんは、ここに住んでいるのかしら。あの眼が綺麗な猫さんと一緒に…。ついぼうっと考え事をしそうになるも、今は手早く身支度をして、きちんと謝らなければ、という事を思い出した。脱衣所の扉を開け、廊下を歩く。挫いた足をかばう歩き方にはなってしまうけれども、小川さんが言った通り、そんなに大したことは無さそうだ。壁に手をつきながらも、なんとなく光の漏れる部屋の方へ。そして、甘い良い匂いがする方へ。

「あ、茉紘さん。お風呂は大丈夫だったかしら」

「ええ、おかげさまで。本当にありがとう」

「こっちに掛けて。今ココアを作ったのだけれど、飲む?」

甘い良い匂いはココアの香りだったのか。

紫亜はキッチンでココアの入っている小鍋を片手にマグカップに注ぐ仕草をして、茉紘にもココアをすすめた。

「じゃあ、いただきます」

茉紘のその言葉を聞き、嬉しそうにうなずくと、紫亜はココアをマグカップに二人分注いで、茉紘に手渡した。紫亜はまだ制服姿だったが、その上に白いフリルのエプロンをしていて、にこにことしている。その姿がとても可愛すぎて、茉紘は、また夢でも見ているのではないかと自分の頬をつねりたくなった。学院で見かける紫亜とは大違いだ。

「熱いから気をつけて。今、捻挫の手当てをするわね。さっき診てもらった女の人、小川さんって言うんだけど、私の面倒を見てくれている人なの。でも、さっきは小川さん本当なら帰る時間だったから。心配していたけれど、今日はもう帰らせたわ。だから、替わりに私が手当てするわね」

そう言いながら、紫亜はテキパキと薬箱を開け、足首を冷やし、湿布を貼って、軽いサポーターを着けてくれた。

「これで、よし」

「ありがとう」

「先刻、小川さんが茉紘さんのお宅に連絡しておいたから、時期に迎えが来るはずよ。その前に髪、乾かしちゃいましょう」

ああ、そうか、と時計を見ると、六時半だった。きっとママはすごく怒っているだろうな、と思うと一気に気が重くなった。そんな茉紘をよそに、紫亜はドライヤーを手近なコンセントに差し込み、熱風を茉紘の髪に当てた。

「わ、」

ぼんやりしていた茉紘はびっくりし、ココアを取り落としそうになった。紫亜が背後から少し大きめな声で言う。

「動かないで、すぐ終わるから」

あたふたする茉紘を知ってか知らずか、紫亜はその華奢な指で茉紘の髪を手櫛てぐしですくようにして、髪を乾かしはじめた。優しくそっと耳上やうなじのあたりを触られると、くすぐったいような感じがして、変な声が出そうになる。美容院で髪を乾かしてもらっている時とそんなに違いはない筈なのに、どうにも胸がドキドキするのを止められない。

「ココア、飲んじゃってね」

「は、はい」

言われるがまま、ココアに口をつけるとふんわりと甘いチョコレートの香りが広がって、とても美味しかった。甘過ぎず、なめらかで、幸せを感じる温度で身体を温めてくれる。

「美味しい」

呟くように言ったので、紫亜には聞こえなかったかもしれないが、茉紘には、なんとなく紫亜が微笑んでくれたような気がした。緊張していた気持ちがほぐれ、ずっと前から、紫亜も、この場所も知っていたかのような、そんな心地良い時間が流れた。

 茉紘の天然パーマのふわふわした細い髪の毛は、あっという間に乾き、

「はい、できあがり」

と、紫亜がドライヤーのスイッチを切るのと同時に、呼び鈴が鳴った。

「はーい。お迎え来ちゃったみたいね」

少し残念そうに言う紫亜に、茉紘は、

「本当にありがとう。それと、ごめんなさい」

「ううん、気をつけて帰ってね」

お互いそれだけ言うと、紫亜は茉紘を支えながら玄関に茉紘の母を迎えに行った。


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