第5話スケッチブックと藤色の傘


「猫さん、どこにいるの」

茉紘まひろが小声で呼びかけるも、猫の姿は見えない。

立ち尽くし、改めて辺りを見廻すと、本当にこの庭が素晴らしい事に気付く。前庭より更に様々な花が咲き乱れ、花の香りは色濃くなり、まるで外の世界とは別の世界に来てしまったのではないかと思わせた。小道を曲がった先は、塀で囲まれていて外からは見えないようになっている。

 白くて小さい花を誇らしげにたくさんつけている木や、ベルのようで可憐な紫のカンパニュラ。まあるい形が不思議なピンクのアリウム。ラベンダーやカモミールの香りが風に乗って運ばれ、ハッとするような青さの矢車菊にワイルドストロベリーの無邪気な甘い白い花。そして、なんといっても数え切れない程の様々な薔薇。アーチや木製のベンチ、石畳もあり、どこもかしこも花でいっぱいだった。

「綺麗…」

ずっと憧れていた庭。こんなにも綺麗だったなんて。しばし何もかも忘れてぼうっとその庭の美しさに見惚れた。あたたかく陽が差して、優しい風が頬を撫でていった。辺りは時折、蜂の羽音と鳥のさえずり、葉擦れの音がするくらいでとても静かだった。猫の姿は何処にもない。

  茉紘は、にわかに鞄からスケッチブックを取り出すと、夢中で鉛筆を走らせた。どうにかしてこの景色を忘れないでいたい。そう思うのが先か身体が勝手に動いてしまったのが先か、茉紘は描き続けた。庭に入るのは少しだけのつもりだった事も、わずかな罪悪感も、何もかも忘れて描き続けた。

ああ、なんて素敵なんだろう。茉紘は感嘆と、もう少し自分の絵が上手ならと歯痒い気持ちとを繰り返していた。

 あまりにも夢中で描き続けたので、陽が陰ってきた事も、黒い雲が低く垂れ込みはじめた事にも全く気付かなかった。ぽつりと雨粒がスケッチブックを濡らしたのを見て、ようやく雨になる事に気付いたが、あっという間もなく土砂降りになった。

「わ、大変、きゃっ…」

しゃがんでいたのを慌てて身を起こそうとしたのと、描いた絵を咄嗟に雨から守ろうとしたのが良くなかった。痺れた足で急に動いたのでバランスを崩し、身体を支え切れず、倒れようにして派手に転んでしまったのだ。

「うう…、もう、なんでこんな…」

制服やソックスが泥で汚れ、雨が容赦なく髪を濡らしていった。ただ、なんとかスケッチブックは泥で汚さずに済んだ。茉紘は自分が濡れるのも構わず、スケッチブックを手早く鞄にしまいこむ。ほっとしたのも束の間、立ち上がろうとしたら、今度は鋭い痛みが走った。

「くっ…」

どうやら、足を挫いてしまったらしい。然程ひどくはなさそうだが、ズキズキと痛む。あまり無理はしない方が良さそうだ。春のまだ冷たい雨もどんどんと茉紘の体温を奪っていった。

「…バチが当たったのね」

さっきまでの幸せな気持ちとは一転して、急に情けなさと後悔の念が押し寄せてきて、茉紘は泣きそうになってしまった。しかし、ぐっと涙を堪えると、なんとか雨宿りの出来る所を探そうと…

「大丈夫、茉紘さん」

急に背後から掛けられた声に一瞬身をすくめ、すぐに振り返った。

藤色の傘、そして、心配そうに茉紘をのぞき込むその顔は、クラスメイトの松原紫亜まつばらしあだった。

「し、紫亜さん、どうしてこんなところに」

「それは私が聞きたいわ。それよりも茉紘さん、立てる、」

「ええ…」

急な事に茉紘はどぎまぎしながらも立ち上がったが、その瞬間痛みが走り、顔をぎゅっと歪めてしまった。

「どこか怪我しちゃったのね。私に捕まって。とりあえず、家の中に」

申し訳なく思いながらも茉紘は、紫亜に捕まった。雨でぬかるんだ足元を気にしながら、紫亜は茉紘が歩きやすいように場所を選んで歩いてくれた。茉紘を支えながら紫亜は器用に傘を閉じ、片手で扉を開けた。

「ちょっと待ってて。ねぇ、小川さん、いるかしら」

紫亜が奥の方に呼びかけると、ふっくらとした三十歳前後の女の人が出て来た。

「あらあら、紫亜様、どうなさいました」

びっくりした様子ながら、その小川さんと呼ばれた女性はすぐに大まかな状況を把握したらしかった。

「ちょっと友達が、その、転んでしまったみたいで。怪我をしてるようなの」

紫亜が言うのが早いか、小川さんはさっと茉紘の身体を支え、手近な椅子に座らせた。

「すみません、足を挫いてしまったみたいで…」

「失礼しますね」

素早く茉紘の足首の様子を見ると、

「少し腫れてきていますね。大丈夫、そんなにひどくはありません。このくらいなら、こちらで処置出来ますわ。」

その言葉に、側で見ていた紫亜がほっと胸を撫で下ろしたのを茉紘は感じた。

「ですが…、こんなに雨に濡れてしまって、風邪をひいては大変です。すぐに湯を沸かしますので、少しあたたまってから帰られては如何でしょう。お家の方には私からご連絡いたしますので、ゆっくりしていってくださいませ」

「ぜひ、そうしていって」

紫亜が心配しながらも優しく微笑みかける。

茉紘は色々と聞きたい事が山ほどあったが、今はそのご厚意に甘える事にした。確かに茉紘はひどくずぶ濡れで、こんな状態で椅子に座っているのも申し訳ないくらいであった。

「ありがとうございます。そうさせていただけると助かります」


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