第2話アリアスの胸像とサンドウィッチ

 窓際のカーテンがはためき、美術室に初夏の陽光を招き入れた。四時限目の美術。デッサンの時間。

右斜め前には、アリアスの胸像を前に難しい顔をしている紫亜しあが見える。その彼女の、流れるような黒髪を留める銀色の三日月のバレッタが、ほんの一瞬射しこんだ夏の陽射しに反射し、茉紘まひろの目を奪った。

真剣な眼差しでデッサンを続ける紫亜。華奢な輪郭と涼しげながらも情熱をたたえている瞳、あかくてちいさな唇。茉紘には無いものばかりで憧憬しょうけいの念を禁じえない。

つい横顔を盗み見ながらデッサンをするので、自分の描いている胸像がどことなく彼女の顔付きに似てきてしまうのではないかと、変な心配をしてしまう。

いつもなら大好きな美術の時間。夢中になってあっという間に仕上げてしまうのが茉紘の常であったが、この所はどうにもうわの空になってしまうことが増えていた。


 授業の終了を告げる鐘の音が響き、教室に喧騒が戻る。イーゼルを片付けながら、紫亜が茉紘に近付いてくる。

「ねぇ、あの胸像はどう考えても初心者向けじゃないわ。」

そう思わない?というような眼差しを向けられて、茉紘は苦笑する。

「そうね、確かに。首や肩の傾き具合が難しいかもしれないわね。」

「それもだけれど、私にはあの巻き毛がどうにも難しいわ。他にも簡単そうな胸像があるのに…。」

柔和な笑顔を浮かべる石膏像を、恨めしげな目で見ながら、紫亜は悔しそうに呟いた。しかし、胸像がどう、などという問題は然程さほど彼女には関係がない。実際に、先程紫亜が描いたデッサンを覗き込めば分かるが、その絵は人物、というよりは沢山の竜巻が描かれているようにしか見えなかった。以前にも犬を描かせたら、よぼよぼの蜥蜴とかげのようなものが出来上がってしまった。

「茉紘は相変わらず絵が上手いわね。」

感心するように紫亜が言うと、本当、本当とクラスメイトが集まってくる。そんな、と謙遜する茉紘だが、絵を褒められるのは素直に嬉しい。実際、茉紘の絵はまだ十二歳が描いたようにはととても見えない程、精緻で完成度が高かった。皆口々に茉紘の絵を誉め立てる。だが、目立つ紫亜とは違って、普段注目を集めることが無い茉紘は、恥ずかしくなってしまう。

「さ、もう皆、お昼の時間よ。早く片付けなきゃ。」

それを察してか、優等生らしく紫亜が、号令をかける。そのよく通る声に、周囲は騒めきを取り戻し、それぞれの楽しい昼休みへと頭を切り替えた。

「私達も早く食堂に行きましょう。今日は、サンドウィッチだそうよ。」

「それは早く行かなきゃ。」

手早く片付けを済ませ、茉紘の片付けまで手伝っている紫亜を、クラスメイトはよく茉紘のお姉様、などとふざけて呼んだりする。紫亜はそれを聞くたびに茉紘は下級生じゃないわと怒り、茉紘はというと、そんな紫亜をのんびりとなだめる、というのがお決まりの光景になっていた。

片付けを終え、茉紘と紫亜は廊下を並んで歩く。校舎は石造りの西洋風の建築で、柱や門扉には学院の校章でもある白百合とユニコーンが刻まれている。格子窓からは燦々と陽が降りそそぎ、もうすぐ夏期休暇が近い事を知らせていた。

紫陽花が花開く頃に衣替えがあり、初めて袖を通した中等部の夏の制服が、行き交う少女達の顔を晴れやかに見せている。上品なフロスティーグレーのセーラーカラーのワンピース。その制服の襟とスカート裾には、清楚な白のダブルライン。風になびくスカーフも同じく白で、スカーフ留めには、銀糸で校章の縫取りがなされている。パターンが良いのか、夏らしいすっきりとした印象だ。

肌の白い紫亜にはよく似合う。陽を浴びて更に美しく輝く紫亜を盗み見て、茉紘はそっと紫亜に出逢わせてくれた神様に感謝した。

食堂に着くと、銘々トレーを持ち、配膳を受けるための列に並ぶ。

今日は紫亜が言った通り、スモークサーモンとクリームチーズのサンドウィッチに、ニース風サラドゥ、莢豆のスウプ。それにみずみずしいネーブルオレンジが付いている。

飲み物は各自自由で、紅茶や珈琲はもちろん、ミルク、果汁百パーセントジュースに中国茶やハーブティーまである。紫亜は珈琲を選び、そこにミルクと砂糖をたっぷり加えた。茉紘は、ストレートのダージリンティーを選び、二人並んで食堂の自分の席へと着いた。

いつものようにクラスの生徒が全員着席し、食前の祈りの言葉を口にした後、食事が始まる。

サンドウィッチに齧り付くと、濃厚なクリームチーズに旨味が凝縮されたスモークサーモンが合わさって、とても美味しい。シャキシャキとした薄切りの玉ねぎも良い食感だ。ケッパーとディルも味のアクセントになっていて飽きさせない。何より麵麭パンがライ麦麵麭なのが茉紘の気に入っているところだ。

「本当にこんな美味しい食事に感謝だよね。」

茉紘がしみじみとそう言うと、そうね、と紫亜は笑った。

「今日は茉紘の好きなサンドウィッチだから特に、ね。」

うん、と満面の笑みを浮かべながらサンドウィッチを頬張る茉紘を紫亜は何故だか嬉しそうに見つめている。

「ん、何か顔についてる?」

「ううん、美味しそうに食べるなぁ、って。」

そう言われ、茉紘はなんだかこそばゆい気持ちになった。

「そんなに見られたら、恥ずかしくて食べられないよ。」

「気にしなくていいのに。」

食事をとっている時の茉紘は、まるで小動物のようで見ていて可愛いのだ。小柄な身体でよく食べ、食べ方も綺麗なので見ていて気持ちが良い。

「そういえば、《コホリン・ドリュー》の季節のパルフェ、まだ食べてなかったわよね。」

「あ、そうだったね。確か、今季はブルーベリーのパルフェ。新作のフランボワーズとショコラのタルトも気になるな。」

うっとりとした表情で贔屓にしているカフェーの新作メニューに想いを馳せる茉紘。

「ね、今日早速行かない?」

「いいわね、行きましょう。」

ふたりで笑顔を浮かべながら、放課後の楽しみについてあれこれ話し合った。穏やかなひだまりのような一日。こうしているとまるでふたりはずっと昔から仲良しだったように見えるが、近しくなったのはつい最近。ほんの少し前、中等部に入学してからだ。



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