第3話


       (3)


「もしかして、『本城』っていうと、あきらんとこの?」

「そうですそうです。あれ? お父さんのこと知ってるんですか?」

「私はね、章をちっちゃい頃から知ってるよ。あいつがゆまちゃんぐらいのとき、宿題やらずにいつも先生に叱られてたみたいだ。そうそう。もう毎日馬鹿みたいに外で服汚しては母さんに怒られてたっけー」

「あははは……」

 本人としては『あははは』と笑っているつもりだが、ソフトボールの練習などでゆまもよく服を汚しては『なんであんたは女の子なのにこんなに泥だらけにするの!?』と母親にぼやかれている。

(駄目だ、素直に笑えない……)

 さすがは血のつながった親子だった。

「…………」

「それで、逃げたっていううさぎ……えーと、くみちゃんだったっけ?」

「くーちゃんです」

「なんでそのくーちゃんは逃げ出しちゃったのかな?」

「くーちゃんの脱走はいつものことなんです。ちょっと目を離すと、すぐどっかいっちゃって。だいたいいつも裏の方から栗ノ木池の方に逃げてっちゃうんですよ。普段はあんまり動かないくせに、そういうときだけ俊敏になるんです」

「今回だけじゃなくて、いつも逃げちゃうんだね。逃走癖だね。脱走癖かな? もしかすると、逃げ出すってことは、よっぽどゆまちゃんのことが怖いとか?」

「そんなことなんですよー。わたしとくーちゃんは仲良しなんですからー。というより、わたしは立派な飼主として、毎日くーちゃんのお世話をしてるんです……って、今日のご飯はお母さんに任せちゃいましたけど……」

「さぼっちゃったの? 立派な飼主なのに? あ、だから怒って逃げちゃったんだね」

「うー……」

 別にだからといって脱走をしたわけではないのだろうが、知り合ったばかりの人に鋭い指摘をされ、しゅんっとなる。

(ごめんね、くーちゃん)

 今はただ怒って後ろを向いるくーの幻想に平謝りするしかない。

「くーちゃんのこと、どの辺りで見たんですか?」

「もうちょっといったところだよ」

「そっかー」

 もうすぐ会えるもうすぐ会える。こんなどことも分からない真っ暗な場所なのに、ただそれだけでこんなにも気持ちが安らいでいく。

(くーちゃん)

 そんな気持ちだからこそ、他を考えることもできなかった。自分が歩いている場所が木々も何もない本当に真っ黒でしかない空間で、自分が歩いているというより周りの空間が勝手に後ろに流れていく不可思議な現象が起きているのに、その感覚もろくに認識できないでう。

「もうすぐもうすぐ」

「あ、そうそう、ゆまちゃん、お願いがあるんだけど。おじさんの代わりに、章に謝っておいてもらえるかな?」

「はい?」

「実はね、章がまだ小さいとき、休みの日に動物園にいく約束をしていたんだ。だけど、約束を破ってしまってね」

「駄目じゃないですかー。悪いと思ったらちゃんと謝らないと」

「そうなんだけどね、なかなかねー……ゆまちゃんはお父さんのこと、好き?」

「お父さんですか?」

 好きか問われれば……父親は脱走したくーの家を壊したばかりの極悪人。

「冗談じゃないですよー。あんなの父親の風上にも置けません。ご飯のときだってお行儀が悪いっていちいちうるさいし、すぐ頭叩くんですよ。それに、休みの日に草むしりとかすぐ手伝わそうとするし、たまに家族に黙ってどっかおじさんたちで出かけていっちゃうし、分からない漢字があったらすぐ辞書引けって言うし」

「そっか。じゃあ、嫌い?」

「嫌いって……」

 嫌いかと問われれば……決してそんなことはない。いつもキャッチボールしてくれるし、嫌いなトマトも母親に内緒で食べてくれるし、お出かけすると好きなもの買ってくれるし、お手伝いしたあとにジュース買ってきてくれるし、母親みたいに『ゆまはお姉ちゃんなんだから少しは我慢するの』なんて言わないし。

「べ、別に、嫌いってわけじゃないんですけど……」

「そう。よかったよ」

「うーん……」

 闇の中を進む二人。こちらに向けられた微笑みに、ゆまは少しだけ唇を尖らせた。

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