第2話


       (2)


 辺りはもう真っ暗。家を飛び出した頃はまだ茜色が残っていたのに、今は少し先すら見えないほどの暗闇に閉ざされている。しかも大きな木々に囲まれているため、頭上を覆う木々の枝葉によって星空も見えやしない。

「くーちゃーん! お願いだから出てきて! ねぇ! くーちゃーん!」

 ゆまの感覚として、そんなに大した距離を歩いたつもりはないので裏山の中腹に至っていないと思うが、ここがどこだか分からない……現在、木々の狭い間を抜けて少しだけ開けた場所に出た。開けたといっても相変わらず周囲は枝葉が生い茂る多くの樹木に囲まれている。だが、立っているここだけ木が一本も生えていない。一辺が二メートルほどある正方形のスペース。だからここだけ空からの光が届く。雲のない今夜の空に浮かぶ月は円に近く、そこからの光がまるで学芸会の主役を照らすスポットライトのようにゆまを浮き上がらせていた。

(…………)

 ここまで歩いている間、『もしかしたら、もうくーに会えないんじゃないか……』と心配で心配で、なんとかして振り払うように頭を大きく横に振ってから、ただくーを探して山へ入っていって、山の奥へ奥へと入っていって……今はさっきまで抱いていたものとは違う不安に襲われている。

 暗闇による、恐れ。

(……っ!?)

 全身が大きく縦に痙攣する。ゆまを舐めるようにして吹き抜けていった風。一斉に揺れる木々。ざわざわざわざわ。枝葉が風に揺れることぐらい今までもあったが、現在の心情は心細くて、それが物凄く恐ろしいものに思えてしまう。

(やだやだやだやだ!)

 目を瞑る。だからといって、体の震えが消えることなく、全身をすっぽりと覆い尽くす恐怖心は増すばかり。

 瞬間、一斉に周囲の木々は激しく揺れはじめ、ざわざわざわざわ!

(やあああぁーっ!)

 激しく首を振る。振りつづける。いやだから。こんなのいやだから。この空間すべてがゆまを脅迫してくる。怖い。

 迫る! 迫る! 迫る! 襲いくる闇の気配!

 絶望たる漆黒の闇!

「やだやだやだやだ! こんなのいやだ! やだやだやだやだ! もう駄目! やだったらやだぁ!」

「…………」

「こんなのやだぁ!」

「……何がいやなの?」

(っ!?)

 突然の声に、ゆまのすべてが大爆発して粉々になったと思った。

「ふぁ、い……!?」

「大丈夫? 顔色悪いみたいだけど……お嬢ちゃん、どうしたの? 迷子?」

「へ……」

 多分五、六秒のことだったと思うが、永久の時間を感じるほどに長く感じた無のショック状態、その状態から自分を取り戻して……声がしたので顔を上げた。しゃがんだ状態で両膝に埋めていた顔をゆっくりと。

「……あ……の……」

「あ、ほらほら、こんなに汗掻いちゃって。どこか具合でも悪いんじゃないのかな?」

「あ……いや……」

 声がかけられた。月明かりが微かにあるだけなので顔はよく見えないが、正面にいる人の声。

「あの……」

 暗いのでよく分からないが、上下薄茶色の作業着を着た男が中腰でこちらを見つめていた。見た目は四十歳であるゆまの父親と同じぐらいで、随分と白の多い短髪、生えている不精髭も白が多い。

「…………」

「立てるよね?」

「はい……」

 無意識に額の汗を手で拭い、手の甲に付着した水分が意外なほど多かったことに変な笑

みが浮かぶ。特に意識なく汚れたスカートを払った。

「あの……」

「驚いちゃったよ。こんな遅くに女の子が泣いてるんだもの。妖怪のたぐいかと思っちゃった」

「……あ、あの……くーちゃんを探してたら、こうなっちゃって」

「お友達?」

「あ、ええーと……」

 ここまでの経緯について説明する。目の前の人は『なるほど』と口にして『大変だったね』と微笑みかけてくれた。

「ひどいんですよ、お父さんったら、勝手にくーちゃんの家壊しちゃうんだから」

「『くーちゃん』ってのが飼ってたうさぎの名前なんだね?」

「くーちゃん、体が真っ白で、顔だけが真っ黒なんです。そうだ、おじさん、この辺りでくーちゃんのこと見ませんでしたか?」

「体が真っ白で、顔が真っ黒……」

 何か心当たりがあってぽんっと手を叩いたかのごとく、その顔が一瞬で華やぐ。

「うーん、確かそんなうさぎを見た気がするなー」

「ほんとですか!? どこにくーちゃんいるんです!?」

「えーとね、あっちの方だよ。多分まだいるんじゃないのかな? 案内してあげるから、ついておいで」

「はい!」

 ゆまは急に元気になってきた。よく見えない真っ暗な木々の間を躊躇なく歩いていく大きな背中を嬉しそうについていく。

(よかったー)

 ようやくくーちゃんに会える。それに、ここにはおじさんがいてくれる。もう一人ではない。

(助かったー)

 ほんの数秒前まであれほど真っ暗な暗闇に閉ざされていたのに、すべてがいい方に進んでいる……だからこそ、ゆまにはそれ以外の発想が生まれなかった。何も疑うことなく、何も警戒することなく、ただ男の背中をついていく。

 こんな山の中、しかもこんな真っ暗なこの場所に突如として現れた作業着の男にすべての信頼を寄せて。

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