秋の桜

@miumiumiumiu

第1話


       (1)


 夕方。

「ばいばーい」

 眩いばかりの黄金色に輝く稲穂が、たくさんの重たい頭を垂していた。山間から風が吹き抜けてきて、一斉に重たい頭を横に倒していく。

「さーてと」

 田園風景をいくつかの長方形に分ける砂利道の上を真っ直ぐ歩いてきて、いつもの別れ道で同じ部活の友人にさよならをした女の子、ほんじょうゆま、小学五年生。水玉のシャツ、膝までの青いスカート、スカートより色の濃い大きなスポーツバッグを肩から斜めにかけていた。中には帽子やユニホーム、グローブやタオルが入っている。

「うふふふ。早くお祖母ちゃんに教えてあげないと」

 緩められた頬、その上にある瞳はとても大きく、肩口よりも長い髪を動きやすいように後ろで縛っている。

(あー、お腹空いたなー)

 本日、九月三十日の日曜日は、電車で二駅いったところにある県営野球場でソフトボールの試合があった。ゆまが所属するノ(の)小学校ソフトボール部は、五対三で勝利。来週はいよいよ県大会準決勝である。


「あっ、お父さん、ただい、ま……?」

 段差のある黒門を抜け、木造二階建ての玄関で引戸を開けようとしたら、庭で作業している父親の姿を見つけた。『ただいま』と口にして、なんとなく顔を向けた先の様子がおかしかったから、『ま』の寸前で首が大きく傾くことに。

(くーちゃん……?)

 鬱蒼と茂る雑木林手前、そこでうさぎを飼っている。床が地面に直接つけられていない犬小屋みたいな家で、それを一メートル四方の網で囲っている……はずだったのに、今はその網がなく、くーの家もなくなっていた。

「くーちゃん、なくなっちゃってる!?」

「ああ、おかえり」

 今日も今日とてよれよれのシャツに身を包む父親は、ちょうど今、くーの家を囲っていた緑色の網を丸めて肩に担ぎ上げたところ。

「早く手を洗ってきなさい」

「あ、うん……じゃなくて、くーちゃんの家は?」

 小学二年生のときに学校からもらってきたうさぎ。くー。それ以来、くーはずっとそこ

で暮らしている。

「どうしたの?」

「あのな、ゆま……くーは、もう戻ってこないんだ……今朝な、くーが脱走して……」

「脱走って……くーちゃんが?」

 傾けた首、増加する瞬き。ぱちぱちぱちぱちっ。

「ふーん……くーちゃん、どこいっちゃったのかな?」

「だから、な、その……もう、くーの家、いらないだろ……」

「なんで……!?」

 くーが脱走することはよくあったので別段慌てることはない。『また探しにいかなきゃいけないな』と考えていて、『またくりノ(の)池の方なんだろうな』とくーの居場所を予測して、そういったことを考えていたから父親の言葉の意味を最初は理解できなくて……けれど、少しずつ向けられた言葉と眼前の光景が結びつく。

「なんで!? なんでくーちゃんの家壊しちゃったの!?」

「残念だけど、くーはもう戻ってこないんだよ……」

「そんなはずないよ! くーちゃん戻ってくるに決まってるじゃん! なんで壊しちゃったの!?」

「それが、今回は無理なんだよ……」

「馬鹿ぁ!」

 言うが早いか、ゆまは駆けだした。せっかく試合に勝って気分よく帰ってきたのに、その結果を家族に報告することなく、グローブの入ったスポーツバッグを肩にかけたまま、秋の夕闇に飛び出していったのである。


 揺れる揺れる。後ろで縛った髪の毛がぶんぶんぶんぶんっ!

(馬鹿! 馬鹿! 馬鹿! 馬鹿! お父さんの馬鹿!)

 家の近くに本城家の墓がある墓地があり、その横の側溝沿いにある舗装されていない狭い道を全力疾走で駆けていって竹林へ。

(あー、もう! 信じられない! お父さんの馬鹿!)

 数分前から怒り心頭に発する状態継続中のゆまは、踏み出す一歩一歩に力を込めながら、ざわざわと風に揺れる竹林を抜け、この時すでにすっかり暗くなっていて水面もろくに確認できない栗ノ木池に辿り着く。

「おーい! くーちゃーんってばぁ!」

 学校の二十五メートルプール三つ分ぐらいある栗ノ木池は、池に沿った部分と中央部分に足場があり、上から見ると『G』になっている。中心部には小さな社があり、地元の神様が祀られていた。設置されている申し訳なさ程度の小さな外灯では、とても周辺を照らすことはできない。

「おーいおーい! くーちゃーん! くーちゃーんってばー」

 飼っているうさぎ、くーはよく逃げた。ちょっと目を離すとすぐ山の方へぴょんぴょんっ、家から徒歩五分の栗ノ木池の近くでよく見つけたのである。

「くーちゃーん! どこいっちゃったのぉ!」

 近くから虫の声、枝葉を揺らす風の音、水面から水の流れる音がする。それらを突き抜けるようにして、ゆまは駆け抜けていく。


 三年前の春、ゆまが小学二年生のとき、学校でうさぎの赤ん坊が四匹生まれた。生まれたばかりの赤ん坊があまりにもかわいくて、どうしても家で飼ってみたくなった。両親にお願いして許可をもらい、一匹もらうこととなったのである。

 当時は片手で持つことができた。全身が真っ白な毛で覆われていて、顔だけが真っ黒。まるでレスラーが黒いマスクをしているみたいに。

 うさぎのために家を作ることとなった。休みの日に父親と二人で栗ノ木池近くまで台車を押して材料を調達し、鋸で切って、鉋で削り、釘で組み立てたのである。ゆまは父親の指示通りに鋸、金槌、鑢等を一所懸命動かした。間違って指を金槌で叩くことや鋸で指を切る等、慣れない作業ばかりで大変だったが。

 いざうさぎをもらってきた。随分肝が座っているのか、慣れない場所に戸惑うことなく新築の家にある藁の上で体を縮めて眠る。その姿はどうにもこうにもいとおしくて、眠っているのにすぐ抱えてしまった。その時、眩しそうに小さな目を開けたうさぎが『くー』と鳴いたような気がしたので、そのまま名前にした。

 今日までくーとはいっぱい遊んだ。手を近づけると鼻でつんつんつついてきて、機嫌がいいとぺろぺろ舐めてくれて、機嫌が悪いと後ろ足で地面をどんどん叩いていて、何かあると耳をぴーんと立ててどこか遠くの方を見つめる。学校から帰ってくると後ろ足で立ってお出迎えをしてくれて、ちょっと目を離すとどこかへぴょんぴょんっ跳ねていく。よく栗ノ木池で追いかけっこして、小さい頃は抱っこすると気持ちよさそうに眠ってくれて、雨の日は極端に食欲少なくなっちゃうし、冬は毛布二枚と家に入れてぬくぬくだし、水の容器はすぐ引っ繰り返す。たまにだれけるみたいにお腹を地面につけて眠っていて、春にはいっぱい毛が抜けてるものだからブラッシングが大変で大変で、体を撫で撫でしてあげると細めた目で気持ちよさそうに『くー』って鳴いてくれた。

 くーはゆまにとって大事な友達で、大切な家族であった。


「くーちゃーん!」

 分からない……分からないけど、脳裏にくーとの思い出がいっぱい溢れてくる。

「ねぇ! くーちゃんってばぁ!」

 いない。どこにもくーがいない。

(わたしのせいだ)

 今日寝坊したせいで、くーにご飯をあげなかったから。

(わたしのせいなんだ)

 だから、くーが怒って出ていったんだ。

(ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい!)

 ちゃんとするから。これからもっともっとちゃんとするから。

「くーちゃーん!」

 呼びかけながら狭い木々の間を縫うようにして歩いていく。振り返ることなどなく、前へ前へと。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る