第31話 陽動

「穹路君、もう行ったでしょうか」


 翠に尋ねられ、琥珀はビルの窓から見える軌道エレベーターに目を向けた。

 戦闘時ということもあり、慣れているとは言え視界が遮られてしまう前髪はヘアピンで留めてある。


「信じよう。穹路君を」


 ビルの周囲にはグリーフが群れており、既に一階の扉は破壊されてしまっている。

 しかし、部屋中に張り巡らされたナノワイヤーとその他の罠によって二階にすら辿り着いたグリーフは未だ一体もいなかった。

 陽動の時間は終わり、これからは籠城の時間。あれ以上の派手な行動は頭上の脅威をも呼び寄せることになりかねない。

 強力なレールガンがあるとはいえ、それは避けたい。

 今は武人がその脅威に備えて、四階に罠を張りに行ってくれているところだった。


 一階や二階と同様にミスリル製のナノワイヤーも利用するのだろうから、ビルの内部を通ってグリーフがここに至ることはないはずだ。

 ミスリルはヒヒイロガネ程硬くはなく、オリハルコン程軽くもない。

 だが、そのバランスと応用性は非常に優れている素材だ。

 ナノ単位まで細くしたワイヤーとなっても、その強度は保たれたままであり、故に恐ろしいまでの切断能力を有している。

 その細さは一階に備えつけた超高解像度の監視カメラの映像を見ても全く視認できない程で、誤って人がそこを通れば容易く全身を切り刻まれてしまうだろう。

 しかも、ラクリマ対策もなされているようで分解されても、即座に再生するように設定されているようだ。

 もっとも視認できなければ気づきようもない訳で、分解の危険は極めて小さい。

 目の前で同類が細切れにされても、脅威があると学習できる程の知能もないし。

 ビルそのものを破壊される可能性は少ない。

 単なるグリーフにはその力はないし、ラクリマであってもまず琥珀達をグリーフ化させようとするだろうからだ。

 そうした事実を考慮に入れ、武人が的確に陣地を構築してくれたおかげで思っていた以上に余裕があった。


 武人は稀に見る優秀な生徒だと評判だったが、こうした罠を作り出すプログラムをこの短期間で組み上げた腕や状況分析を含め、彼は評判以上だと言っていい。

 だが、だからと言って油断できる程ではない。

 飛行可能なグリーフのこともあるし、緊張感を保ったまま吉報をひたすら待つというのは中々に精神的疲労が大きい。


「あ、あの、先生」


 そんな中での警戒に耐えかねたように翠が再び話しかけてくる。


「……先生は、穹路君をどう思ってるんですか?」


 注意して集中を促そうか、と琥珀は一瞬考えた。

 しかし、翠の真剣な表情を見て、適切な言葉を選びつつも正直に答えるべきだろう、と思い、少しの間目を閉じる。


「穹路君は私の大事な生徒。螺希の大切な人になるかもしれない男の子。真弥の兄同然の子。そして、相坂さんと桐生君の友達」


 頭も悪くはないし、それに何より真面目で優しい。

 あの異形の姿を見て、それでも彼を信じられるのは、何よりもこれまでの彼自身の行動が理由だ。


「……私は別に化け物扱いして、道具のように彼を天の御座へと向かわせた訳じゃない。最善の方法を選択しただけ。私だって、本当は苦しい」

「本当、ですか?」

「螺希から聞かなかった? 私、嘘をつくと目つきが変に鋭くなるの」


 そう言うと翠は表情を少しだけ綻ばせた。


「それは嘘、ですね。あたしが螺希から聞いたのは、目元がピクピクするって奴です。今丁度なってるみたいに」


 やはり顔に出ていたか、と琥珀は軽く嘆息して苦笑いした。

 だが、そのおかげで翠の不審は晴れてくれたようだった。


「二人共、余り油断するな。いつ、あれが襲ってくるか分からないぞ」


 四階から戻ってきた武人が呆れたように注意してくる。

 少々間が悪かったようだ。


「分かってるって」


 そう琥珀が言い終わるや否や、グリーフの侵入を告げるアラームが鳴り響いた。

 しかも表示されている階数は一階ではなく、遥か上の階だった。

 飛行可能なグリーフ。

 まだ行動パターンもはっきりせず、その生態は全くの不明。

 それが窓を突き破って入ってきた証だ。

 しかし、それについては罠があるためここまで辿り着く可能性は比較的低い。

 それよりも、何よりも。この部屋に直接飛び込んでこようとするそれらに注意しなければならない。


「全く……噂をすれば、ね」


 警戒を促すためのその音にさらに緊張感が高まる。

 それは翠も同じようで表情を必要以上に引き締めていた。


「相坂さん。もうちょっと力を抜いて。私も桐生君もいるし、大丈夫だから。それに相坂さんには実力がある。それは私も保証するから、自然体で、ね?」


 翠は先程のように安全圏からの射撃であれば、かなりの精度を誇っていた。

 彼女は緊張に酷く弱く、体が硬直してしまうタイプなのだ。

 筆記試験はまだ大丈夫なのに、とは言っても、ケアレスミスは多いが、特に実技で成績が低くなってしまうのはそのためだ。


「は、はい」


 だが、きっとこの事態を乗り切れば、学校の試験程度の緊張感には耐えられるようになるはずだ。

 そうすれば元々の学力に加えて、さらなるステップアップを果たせるだろう。

 こんな状況でも教師としての頭が回ってしまったことに苦笑しつつ、それを調子のよさの証だと信じて、琥珀は窓の外、遠くに夕闇が迫る空へと注意を向けた。


「さて、ここからが本番、かな」


 そう呟いた琥珀の瞳には、気味が悪い程整然と編隊を組んでこのビルへと近づいてくる無数のグリーフが映っていた。

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