第14話 グリーフとラクリマ

 それから五分程して生物の教師、つまり琥珀がようやく教室に入ってきた。

 瞬間、その五分間を雑談で過ごしていた生徒達の声が止む。


「じゃ、授業始めよっか。ま、分かってると思うけど、私は生物の担当。生物は当然理系では必須だから面倒臭いとは思うけど、しっかり勉強してよ?」


 生物という教科は昔なら医学か理学の特定の分野を目指す人の科目というイメージだったが、琥珀の口振りでは現在は違うようだった。

 それはともかく、穹路は琥珀の格好が気になった。

 彼女は形から入ろうとしているかの如く白衣を着ていた。

 しかし、その白衣がまた酷くよれよれで、微妙に黄ばんでいる部分もあり、前髪に隠された顔が美少女と呼ぶに相応しいぐらい整っていることを忘れそうだ。

 姿勢も教室では猫背気味で、研究室でのシャンとしたイメージと合わない。

 まるで自分の可愛さを隠そうとでもしているかのようだ。


「と、その前に今日の授業は、数学、現代文、物理、情報演習って、あー、この前は九条先生か。……穹路君さ、ティアについてどう感じた?」

「え? あ、物凄い技術、だと」


 突然そんな質問をされ、穹路は戸惑いながら答えた。


「それだけ?」


 琥珀の声色からその答えに不満があるのが聞き取れ、慌てて言葉をつけ加える。


「いえ、凄過ぎて、少し恐ろしく感じました」

「ん。そうね。とりあえず、そんな印象なら大丈夫、かな」


 打って変わって琥珀は満足そうな笑みを浮かべた。


「物事にはいい面と悪い面が必ずある。当然ティアだってそう。だから、恣意的にいい面だけを見て悪い面を見ようとしない、あるいは別のもののせいにする、なんてのは駄目だからね。あ、別に九条先生がどうとか言っている訳じゃないよ?」


 最後の部分だけ冗談染みた口調で言い、それからとても真剣な、と言っても口元の雰囲気だけでの判断だが、そんな表情で続ける。


「たとえ実行したのがAIだとしても、落涙の日のような被害を出せるだけの力をティアは持っていた。その事実を忘れると、きっとまた悲劇は繰り返されるから」


 そこまで言って、琥珀は口元に笑顔を戻す。


「さて……ティアには原子配列変換による形状変化、物質再構成って機能があるよね? まあ、むしろ物質生成と言った方が視覚的には分かり易いかもだけど」


 琥珀は白衣のポケットからエグゼクスを取り出して、即座にトリガーを引いた。

 竜也の時と同様にティアに連なるように刃物が生み出される。


「はい。これでナイフの完成」


 そして、すぐさまもう一度トリガーを引く。

 すると、その刃物はまるで白昼夢だったかのようにそこから消滅した。


「これでナイフは消滅したよね? 原子配列変換の一環で分解された訳。つまり、ティアには物質の分解機能もあるの。例えば」


 琥珀は撃鉄を起こして回転式弾倉の部分を回転させ、別の記憶装置をティアに接続させた。

 そして、エグゼクスのティアを教卓にくっつけながら、トリガーを引く。


「あ――」


 穹路は目の前の光景に思わず呆けた声を出してしまった。

 その瞬間、教卓は砂と化して教壇に降り積もってしまったのだ。僅かに遅れて教卓の上に置いてあった名簿がその上に落ち、砂が微妙に舞い上がる。


「おっと、これはちょっとまずいよね」


 琥珀は悪戯っ子のように笑いながら名簿を拾い上げ、表面についた砂を払って脇に抱えた。

 それから再び撃鉄を起こし、次の記憶装置をティアに接続してトリガーを引く。

 すると、何事もなかったかのように砂は消え去り、教卓がそこに存在していた。


「で、教卓の復活、っと」


 微妙にずれた位置に再構成された教卓を少し重そうにしながら所定の位置に戻し、琥珀はその上に両手を置いた。


「とまあ、こんな感じで無生物なら分解、再構成をいくら繰り返しても大した問題にはならないよね? でも、生物、特に人間に分解を行えばどうなると思う?」


 その琥珀の言葉に、穹路は背筋がぞくっとするような強い恐怖を受けた。

 現実に砂と化した教卓を目の当たりにしたことで、昼休みに螺希が口走った言葉にはまだ乏しかった現実味を強く感じてしまったためだろう。


「穹路君のその表情が見られれば、ちょっと満足かな。落涙の日の被害の一つとして、これもあった訳ね。連関型ティアを持っていた。ただそれだけで、一瞬の内に分解されてしまった人も数多くいた事実を忘れないで」


 琥珀はエグゼクスを白衣のポケットに無造作に放り込みながら言った。


「でも、まあ、これも使い方によっては利点も大きいんだよね。例えば、分解を体内の病巣のみに設定すれば悪性新生物ガンだってあら不思議。何てことない無害な有機物になっちゃうからね。手術も投薬も必要なし。さっきも言ったけど、物事にはいい面と悪い面が必ずある。ま、所詮は道具だから結局最後は人間の選択次第な訳だけど、だからこそ、その両面を理解してなければ使う資格はないってことね」


 最後の部分を琥珀は真剣な口調で強調した。


「この分解機能の人体への使用は医療以外では決して行われないように法律で禁止されてるし、当然、違反者には厳しい罰則がある。何でも逮捕された人のその後は誰も知らないとか。もしかしたら、人体実験の材料にされてるかもね」


 さらりと怖いことを言いながら、琥珀は一転して子供っぽく笑った。


「ま、冗談はさておき、穹路君はグリーフについてはまだ知らないよね?」

「あ、はい。分かりません」

「なら、復習も兼ねて――」


 琥珀がそう言葉を発した瞬間、翠の肩がぴくりと動いた。


「出席番号一番の、相坂翠さん。グリーフについて簡単に説明して」

「は、はい……」


 ああ、またか、という感じの微妙な表情の翠は、いつもより大分調子の下がった声で返事をして立ち上がった。


「えっと、グリーフとは落涙の日に連関型ティアによって干渉され、遺伝子レベルでの改変を受けてしまった生物の総称です。共通の特徴として元の生物よりも巨大になり、黒ダイヤをも超える硬さを誇る外殻と鋭い爪を持つことが挙げられます」


 説明自体には淀みがなく、翠がしっかり理解していることが窺えた。

 しかし、黒ダイヤを引き合いに出したのは、昼休みの話題に引きずられてのことかもしれない。


「そのプログラムはAIドラビヤによって作られ、その設定によってなのかグリーフは食欲など、他のあらゆる本能より先に人間を襲う本能を持つと推測されます」

「そう。たとえ命の危機に瀕してる時でも、人間を見つければそれを顧みず襲いかかってくる。兵士、と言うか、駒としては優秀よね。続けて」

「はい。体内にティアを有するグリーフは特にラクリマと呼ばれて区別され、触れた別の生物をグリーフとすることができます。ティアを持つため分解することも可能ですが、人間のグリーフ化を優先させることが確認されています。またグリーフは元となった生物に依らず繁殖が可能です。それにより生態系が大きく乱され、地上に生きる多くの生物が絶滅してしまいました」

「口頭ならそれぐらいで十分かな。座って」


 翠はほっとした様子で静かに席に着いた。


「穹路君は当然知らないだろうし、街を出たことがない人には実感が湧かないかもだけど、街の外はグリーフが跳梁跋扈する人外魔境なの。建築物はラクリマのティアによって分解されてるしね。落涙の日から九年、もはや昔の面影は欠片もない」


 表情、口調はそのままだったが、琥珀の雰囲気からは怒りが明確に感じ取れた。

 それを落ち着けるためか、彼女は一つ息を深く吐いて一旦言葉を止め、それから再度口を開いた。


「だからグリーフを駆逐して街を徐々に拡大してるんだけど、その過程で人体冷凍保存の施設が何故か発見されたりする訳。これはグリーフの謎の一つなのよね。何故グリーフは、特にラクリマは分解能力すら持ってるのに施設を破壊しないのか」


 琥珀は少し間を取って、更に続ける。


「まあ、それは何でドラビヤがそう設定したのかって話になるんだけどね。落涙の日に人間を大量虐殺したドラビヤが、何のために施設を残してるのか」


 琥珀は考え込むように腕を組んで押し黙ったが、ハッとしたように首を振った。


「おっと、今は授業中だったね。えーっと、グリーフの写真は教科書に載ってるから、気持ち悪いかもしれないけど、後で一応見ておいてね」


 ばつが悪そうな琥珀の言葉に従って、穹路は手元にある教科書を開いてみた。

 とりあえず目次を見てみると、昔通りの高校生物の内容も当然あったが、四分の一近くがグリーフについての情報のようだった。

 その最初のページにはグリーフの名の由来が書かれていた。

 それによるとグリーフとは嘆きの種という意味であり、それはティアに関連して名づけられているようだ。

 また、それはGenetically Reconstituted Incarnation of Entity’s FoeあるいはFutureの頭文字を繋げたものであるとも書かれている。存在の敵Foeか存在の未来Futureかはグリーフに対するスタンスによるらしい。

 Futureが少数派なのは言うまでもない。

 写真に写されているそれらは元の生物が分かるものもあれば、完全な異形、モンスターとでも呼ぶべき姿のものもあった。しかし、穹路が最も強く嫌悪を感じたのは、グロテスクなだけのそれらではなかった。


 人間由来のグリーフ。形状で即座にそれと分かる。

 だが、その外見から明らかに人間ではないこともまた分かってしまう。

 黒光りする外殻、そして、巨大な爪。

 写真に写るそれらの中で最も綺麗に形作られているものは、遠目では鎧を身にまとった人間のように見えてしまうかもしれない。

 だが、その間接部の隙間から見える酷く有機的な、しかし、肌の色とは確実に異なる色や見開かれて血走った目、そして、だらしなく開かれた口元が人間ではないと主張していた。


「後、繰り返すけど、普通の授業に戻る前に注意。ティアは使い方によって自分自身に危害が及び得ることを忘れないでね。特に連関型ティアをまだ使ってる人は独立型に切り替えた方がいいと私は思うよ」


 琥珀の言葉に教科書から目を離し、翠の方を見る。

 螺希と同じことを教師である琥珀にも言われ、彼女はどう思っているだろうか。


「じゃあ、今日やるところは――」


 通常の授業内容に戻ろうとする琥珀の言葉を聞きながら、穹路はもう一度だけ教科書へと目を落とした。

 教科書に掲載されているグリーフの姿はバリエーションに富んでいる。

 だからこそ、多種多様の生物が滅ぼされてしまったのだと視覚的に理解できる。

 だが、よく見ると類が全て揃っていない。

 そのことに疑問を覚えながらも、穹路は一先ず授業へと意識を戻し、集中させることにした。

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