第7話 学校とクラスメイト
妙に生徒を緊張させる職員室の雰囲気はいつの時代も変わらない。いや、どんな世界だろうと学校という制度が存在するなら変わらないのかもしれない。
しかし、螺希はその妙な緊張を感じていないかのように、机で区切られてできた通路をすんなりと進んでいく。対して穹路は、その感覚を久方ぶりに味わい、やや萎縮しながら彼女の後に続いていた。
やがて螺希は通路の一番奥で足を止め、穹路も彼女に倣って立ち止まった。
「
整理整頓がしっかりとなされた机に似つかわしくなく、だらしなく突っ伏している小さな背中に螺希が声をかける。
「……んー? あー、螺希? 久しぶり」
眠たそうにそう言ってから、彼女は大きく伸びをして体のあちこちをパキポキ鳴らしながら起き上がった。そして、背中に乗っかっていた長く綺麗な黒髪をさらさらと重力に任せて流しながら、螺希を振り返る。
「あー、で、こっちが件の穹路君?」
それから彼女は体ごと顔を穹路へと向けた。
しかし、穹路から彼女の目はよく見えなかった。
と言うのも、艶のある美しい黒髪は前髪もまた非常に長く、それが彼女の目を覆い隠していたからだ。
「あ、えっと、はい、そうです」
そんな特徴的な外見に若干戸惑いながら穹路は答えた。
「そっか。私は螺希と君の担任になる麻生琥珀。まあ、まだ教師歴二年目で、クラスを持てるようになったばかりの若輩者だけど、よろしくね」
「よ、よろしくお願いします」
「ま、目覚めたばかりで色々不安だろうけど、何かあれば私にも相談してよ? 面倒臭いけどちゃんと教師らしく仕事をしてるところを見せないと怒られるからね」
そんな琥珀の言葉に曖昧に笑いながら、彼女がどこまで知っているのか確認する意味を込めて螺希に視線を移す。
「先生は全部知ってるし、信頼できるから、安心していい」
その意図はしっかりと伝わったようで、螺希は望む答えをくれた。
彼女がそう言うならばと頷く。
「ところでさあ、穹路君は螺希の家に住むことになってるんだよね?」
「え、ええ、まあ」
「ちょっと顔、見せてくれる?」
琥珀はちょいちょいと手招きをしてきた。
何となく不審に思って、また螺希をちらっと見る。と、彼女は呆れ気味ではあったが頷いたため、穹路は琥珀に恐る恐る近づいた。
そして、ほとんど息がかかる程の距離になったところで、彼女はいきなり自分の前髪をかき上げた。
「どれどれ。……んー、まあ、いい、かな。悪い感じはしないし」
顕になった琥珀の顔立ちは非常に若く、むしろ教師としては幼過ぎると言ってもいいぐらいだった。ほとんど螺希と同じぐらいの年齢に見える。
その上、宝石のように美しく澄んだ瞳を含めた顔はとても整っていた。
それが突然目の前に現れた形になり、穹路は一瞬固まり、それから困惑して思わず目を逸らしてしまった。
「あらら、赤くなっちゃった。ちょっと可愛い、かな」
しかも、前髪を上げたままで悪戯っ子のように、にかっと笑った琥珀の表情の可愛らしさたるや、恥ずかしくて直視できない程だった。
あの長い前髪に隠されていなければ、まともに話せそうもない。
もしかしたら、それが理由で隠しているのかもしれない。
「琥珀。からかうのはそれぐらいにして」
そんな螺希のやや機嫌の悪そうな声に我に返る。
「ん、そうね」
琥珀もいつの間にか前髪から手を放して元に戻していた。
少々残念にも思うが、あれを前にした緊張による心労を考えるとその方がいい。
「でも、ふふっ、成程ね」
「何?」
嫌らしく含み笑いをする琥珀に、螺希は珍しく不満をはっきりと口調に出した。
「何でもない。それより一応職員室では先生って呼んでって言ったでしょ? 他の先生に何か言われたら、面倒臭いから」
琥珀は困ったような口調で、しかし、全く困っていないかのように口元に微笑みを浮かべて言った。それから穹路に顔を向けて続ける。
「それじゃ、これが勉強道具一式。ま、今日はどうせ使わないから適当に持ち帰ってね」
そして、机の片隅に積み上げられた教科書とその上に置かれた小型のノートパソコンの上に手を乗せる琥珀。
恐らく、これもネット機能などに大幅な制限が設けられているのだろう。
「じゃ、教室に行ってて。私もしばらくしたら行くから」
「あ、はい。分かりました」
空っぽの手提げ鞄にそれらをしまいながら答える。
「琥珀。放課後、よろしく」
穹路が鞄を閉じるのを確認してから螺希が口を開いた。
「はいはい。……って、だから公的な場では先生だって」
それに対して文句を言いながらも、白い歯を見せて楽しそうに返す琥珀。
「分かってます、先生。では、失礼します」
ちょっとだけ悪戯っぽい口調でそう言うと、螺希は琥珀に背を向けた。
穹路もまた、失礼します、と琥珀に頭を下げて、職員室の外へと向かう螺希の後を追った。
そのまま廊下に出て、教室へと二人並んで歩いていく。根本的な設計思想のようなものに変化はないようで、中の雰囲気は昔とほとんど変わらない。
「しかし、先生の髪の毛、長かったな。顔、口元しか見えないし」
「琥珀は髪を切るのが面倒臭いから伸ばしてるって言われてる」
だとしても、あそこまで目が隠れていては前が全く見えなくて逆に面倒じゃないか、と思うが、そこは慣れなのだろう。
「でも、それは半分の理由に過ぎない。確かに琥珀は昔から興味のないことには物凄く面倒臭がりだったけれど。一番の理由は琥珀は目に色々と感情とか思考が表れ易いから。それで前髪を伸ばして目を隠してるの」
つまり、何か隠しごとをしようとしたり、嘘をつこうとすると目が泳いだりして簡単にばれてしまう、とかそういう類のものか。
「でも昔から、って、螺希は先生と親しいのか?」
「一応、幼馴染だから。小学校の頃、同じクラスだった」
「い、いや、それは嘘、だろ?」
とは言いながら、前髪を上げた状態の琥珀を思い起こしてみると、螺希と同い年と言われても違和感は全くなかった。むしろ納得できるぐらいだ。
「本当のこと。琥珀は昔から人一倍頭がよくて、小学校の途中から他区に留学して飛び級したの。生物学系の博士号も持ってるし」
「でも博士号と教員の免許って別なんじゃないか?」
「今は状況的に仕方がないの。本当はここの大学の一研究員なんだけれど、教員の数が足りてなくて、特別非常勤講師の形で授業を受け持ってる。でも、担任になんてなる必要はないんだけれど、私が在学中だからって態々、ね」
そう言う螺希の口振りから琥珀を信頼していることがよく分かる。
会って話をした感じも悪い印象はないし、必要があれば頼ってもいい相手だろうと穹路は思った。
「そっか。で、放課後に何かあるのか?」
「穹路の体を調べて貰う約束をしてあるの。一応、病気がちゃんと完治してるか知っておきたいでしょ? 琥珀、医学の知識も豊富だから」
「それは……うん、まあ、そうだな。ありがとう」
感覚としては大丈夫そうだが、確かに一度検査して貰った方がいいかもしれない。これが蝋燭の最後の灯火などであっては余りにも酷過ぎる。
そう思いながら感謝した穹路に、螺希は何故か気まずそうに俯いて、うん、と小さく頷いた。
そこで会話が一旦途切れ、校舎内の喧騒に耳を傾けつつ螺希の後に続く。
職員室のある二階から三年生の教室がある三階へと階段を上り、しばらく廊下を進んでいくと、やがて彼女はある教室の後ろ側のドアの前で立ち止まった。
「ここよ」
三年A組。そこが穹路の新たな学び舎でのクラスとなるようだ。
「穹路は私の隣の席みたい」
ドアに貼りつけられていた席順が書かれた紙を見ながら螺希が言う。
穹路もその紙を螺希の小さな肩越しに確認した。
どうやら教卓を正面に右上から左に向かって、男女混合で出席番号順に席が割り振られているようだ。
確かに前から五列目の廊下側から穹路、螺希と名前が並んでいる。
「さ、入りましょ」
ドアを開けて中に入っていく螺希に従って教室に入り、穹路は自分の席に座った。
何となく懐かしい座り心地。素材は当然変わっているのだろうが、机や椅子の大まかな規格や感触は昔と同じようだ。あるいは雰囲気のためにそう感じるのか。
教室の中は春休み明けだからか、普段以上の喧騒に包まれているのが、普段を知らない穹路にも感じ取れた。
いくつかのグループを形成し、それぞれ色取り取りの表情を見せて話をしているクラスメイトの様子もまた懐かしさを感じさせてくれる。
楽しそうな表情の生徒は春休み中の思い出を語っているのだろうか。
つまらなそうに溜息をついている生徒はまとまった休みが終わり、明日からまた授業が始まることに不平でも言っているのだろうか。
何にせよ、生徒のあり方に変化はないようだ。
「螺希」
「ん。何?」
そんな中で静かに真正面を向いて目を閉じていた螺希に声をかけると、彼女は目をゆっくりと開け、顔を穹路に向けて小首を傾げた。
「ありがとう」
学校というものを再び感じられたことが嬉しくて、素直に感謝の意を伝える。
恐らく、そう感じるのも今だけだろう。この生活に慣れてしまえば、また昔のように授業を億劫に感じ始めるはずだ。
だからこそ、今感じたその気持ちをそのまま言葉にしておかなければいけないと穹路は思った。
「どうしたの? 改まって」
感謝されることがくすぐったいのか、螺希は困ったように言った。
「いや、入院してた時は、もうこうして学校に来られるとは思わなかったから。それも全部螺希のおかげだ」
螺希がいなければ、たとえ結果として似た状況になっていたとしても、きっと不安と孤独が心を苛み、懐かしさを感じる余裕など持てなかったに違いない。
やはり人の善意を感じられる確かな居場所を与えて貰ったことが大きい。
「それは、祖父の力のおかげ。私の力じゃない」
「それでも、螺希自身が行動してくれなければ今の状況はないだろ? それは螺希の優しさだよ」
「……ありがとう」
「それは俺の台詞だって」
そう言って笑いかけると、螺希もまた小さく微笑んでくれた。
「珍しいね。螺希が男の子と話してるのって」
会話の合間を狙ったように声をかけられ、螺希共々その方向に顔を向ける。
すると、人懐こそうな笑みを浮かべた少女が立っていた。
背丈体格は螺希より少し大きく、詰まるところ、平均的でバランスがよかった。
単に顔立ちだけを見ると少々童顔ながら強く印象が残る感じではないが、そこに彼女の表情が加わると非常に好感が持てる。友人が多そうな女の子だった。
軽くウェーブのかかったセミロングの髪は、どうやら少し染めているらしく、光の加減によっては微妙に赤く見える。
「螺希、久しぶり。今年も一緒だね」
「
螺希は翠と呼んだ少女に頷いて、ほんの少し穏やかな表情を向ける。
翠はそれに笑顔で返し、それから穹路に顔を向けた。
「えっと……初めまして、だよね?」
螺希以外のクラスメイトに初めて話しかけられ、穹路は緊張しつつ二回頷いた。
「そうだよね。高校から入学した人?」
翠は次に螺希に向かって尋ねたが、彼女は小さく首を横に振って口を開く。
「穹路はクライオニクスを受けてた人で、今日からこの学校で一緒に勉強することになったの」
「え、クライオニクス? ほ、本当に?」
改めて穹路に視線を戻し、これぞ驚愕という感じの分かり易い表情を向ける翠。
螺希とは対照的に感情が表情に出易い子のようだ。
「本当」
対して螺希は相変わらず余り表情を変えずに言う。
「そ、そうなんだ」
そっけなく見える螺希の態度には慣れているのか、翠に気にした様子はなかった。
「えと、穹路君、でいいんだよね? あたしの名前は相坂翠。螺希とは中学校からの友達だよ。よろしくね」
「あ、ああ、うん。よろしく。相坂さん」
「うん。……でもさ、螺希とはどうして?」
「それは、その――」
「遺跡に残ってた記録とDNAによると穹路は私の先祖の兄弟らしいから」
何と言うべきか穹路が迷っていると螺希が言葉を引き継いでくれた。
「あ、それで望月姓なんだ」
席順の紙に望月という名字が並んでいて疑問に思っていたのだろう。
翠は色々と得心がいったように腕を組んで頷いた。
一応、螺希の思惑通りにことが運んだ形だ。
「でもさ。転校生なら普通、先生が紹介するものなんじゃないの? 旧時代を題材にした漫画で見たけど。教室にいていいの?」
「先生にはもう挨拶してきたから大丈夫。多分、あの先生のことだからそういうの面倒臭いって言って適当にすると思う」
「あー、ありそう。この子、そうだから。よろしく。だけで済ませそうだよね」
翠は琥珀を真似するように言って、からからと笑った。
「それに先に教室の雰囲気に慣れるため、ってのもあるし」
「うん。そう、だね。大々的に紹介されるより、それとなくクラスに馴染んでいった方が穹路君の場合は楽かもしれないね」
ふんふんと頷きながら、翠は言葉を続ける。
「ま、そういうことなら、何か困ったことがあったら螺希だけじゃなく、あたしにも頼っていいからね。螺希の友達としてちゃんと助けてあげるから」
翠は平均サイズの胸の上に右手を、そして、腰に左手を当てながら、頼もしさをアピールするような身振りをした。
そんな大袈裟な仕草の上に真面目な顔と言葉を重ねる彼女はどこか滑稽で、だからこそ最初に抱いた緊張は雪のように容易く解けて消えてしまった。
そして、残ったのは彼女への親しみだ。
「ありがとう、相坂さん」
そう言いつつ、心の中で螺希にも感謝の言葉を呟く。螺希のおかげで早々に新しい時代での友人ができそうだ。
「でもさ、今年のクラスは中々凄い顔触れかもね」
「何が?」
「何がって、そりゃあその中の一人の螺希は興味ないかもだけどさ」
翠は唇を尖らし、不満を表した。
「成績学年トップの螺希と話題性抜群の穹路君もいるしさ。それにほら。あたしの後ろの席。穹路君の席からだと三つ前だね」
翠がひそひそ声で言いながら指と視線で示した席では、すらっとした背が高そうな男子生徒が、姿勢正しく専門書らしき分厚い本を読んでいた。
地毛なのか自然な感じで茶色がかった髪は短く、重力に逆らうように立っていてさっぱりした印象を受ける。
少し角度を変えて横顔を見ると、楕円状の比較的小さいレンズの眼鏡をかけており、全体的に垢抜けていて客観的に見て格好がいい。
女子に人気がありそうな容貌だった。
「ああ……名前、何だっけ?」
「桐生
少し呆れたように翠は螺希を見る。しかし、螺希は余り興味がないようだった。
「学年二位でスポーツも万能。成績では螺希にほんの少しだけ負けてるけど、総合力では一番って先生の間でも評判らしいよ」
「へえ、いるもんなんだな。絵に描いたような万能な人ってのは」
「ああ。そして、翠の憧れの人、ね」
「ちょ、ちょっと螺希!」
しーっと人差し指を唇に当てて必死な表情をする翠。図星、という感じだ。
「成程、確かに格好いいもんな」
「そんな、別に顔だけで好きっていう訳じゃないよ。格好いいのは確かだけど」
ルックスで判断していると思われたとでも考えたのか、翠は不服そうに言った。
しかし、顔だけで好きという訳じゃない、という言葉を解釈すれば、つまり顔を含めて彼のことが好きだということだ。
語るに落ちるとはこのことか。
「認めた」
ぼそっと呟いた螺希の言葉に翠は顔を真っ赤にした。
しかし、それだけ表情が出てしまっていると周囲にばれているのではないかと思うが……実際ばれているのだろう。
「でで、でもさ。その、学力戦力合わせてのツートップが同じ組なんて、やっぱりこのクラス凄いよね」
明らかに誤魔化しにかかっている早口だった。実に分かり易い。
「それ、クラス分けとしていいのか? 普通だったら、もう少しバランスよくやると思うんだけど」
混乱してか戦力などという面白い表現をした翠に苦笑いしつつ尋ねる。
学校によっては成績順で丁度よくばらけるようにするところもあるが、ここは完全にランダムなのだろうか。
「多分、二人に切磋琢磨して欲しいんじゃない? 高校最後の年だし。それに、その二人に次ぐのはあたしだから、多分バランスは取れてるよ。自分で言っててなんだけど」
翠は自分の言葉に落ち込んだように深く溜息をついた。
「翠だって十分頭はいいはずだけれど」
「螺希に認められるのは嬉しいけど……実際、満足な成績を残せてないからね。知識はあるつもりなんだけど、それをちゃんと活かせなくてさ」
翠はさらにがっくりと肩を落とした。応用力に乏しい、ということか。
そんな会話をしていると教室のドアが開き、ようやく琥珀が入ってきた。
何やら歩き方から気怠さが滲み出ている。
一部の生徒はその妙な雰囲気に唖然としていた。
「おっと、先生来ちゃったね。んじゃ、また後でね。螺希、穹路君」
気持ちを切り替えたのか表情を明るくして、翠は自分の席、名字が相坂なので出席番号一番の廊下側最前列の席に戻っていった。
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