第20話

「兄様!」


 優司の情報と徹夜の成果、それに加えて学校で彼に借りたノートのおかげで辛くも宿題も誤魔化せ、授業も何とかなった久しぶりの学校からの帰り道。

 突然、女の子から抱き着かれるという稀有なはずの体験の二度目。

 見知らぬ相手でもなし、今更驚く理由もないと思ったのだが、甘かった。


「か、佳撫?」


 はい、と初めて見るような愛らしい笑顔で返事をして体を離した彼女は、見慣れた和装ではなく、何故か星律学院中等部の制服姿になっていた。

 夏服スタイルということで、上は半袖で純白のブラウスに、赤に白のラインが入ったリボン、そして下は紺色主体でチェック柄のプリーツスカート。

 更に下を見れば、白い靴下と黒い皮靴。どことなく着にくそうに頬を僅かに赤らめながら、もじもじしている姿は非常に可愛らしい。


「ど、どうしたんだ? その格好」

「似合い、ませんか?」


 不安そうに上目遣いで佳撫は見詰めてきた。

 今までと雰囲気が違うからなのか、妙に胸に来るものがあって戸惑ってしまう。


「い、いや、似合っているよ。うん。とても可愛い」

「ありがとうございます、兄様」


 心底嬉しそうな、正に花が咲いた、とでも表現するに相応しいような笑み。

 素朴なタンポポ満開の笑顔だ。

 それはこれまでに見た笑顔の中で最も愛らしく、最も自然で似合っている、見ている方までも嬉しくなってくるような笑顔だった。


「何だか、偉く機嫌がいいな。いいことでもあったのか?」

「え? ……えっと、兄様に会えたこと、ぐらいですけど」


 真正面からそんなことを言われると、不覚にも嬉しさで顔がにやけそうになる。

 それを何とか抑え込んでいると、佳撫は不思議そうに小首を傾げていた。

 妙な顔になってしまっているかもしれない。


「あ、後、負い目のようなものを感じなくてよくなったから、かもしれません。あの時はわたしのわがままのせいで兄様が死んでしまうかもしれなかったですから」

「ああ、成程」

「それに、その、昨日のことで兄様にもっと近づけた気がして……。だから、今のわたしが素のわたしだと思います」


 少しだけ恥ずかしそうな笑みと共に隣に並ぶ佳撫。確かに以前よりも自然な感じがするし、距離もさらに近くなっているような気がする。


「それで、結局この服は?」

「これは母様が。いつもの服では目立つと言われたので」


 里佳は今日夜勤だったはずなので、恐らく家を出る直前に訪れた佳撫を無理矢理着替えさせたのだろう。

 そんな素振りは全くなかったが、いつの間にかどこからか調達してきたらしい。

 となると、あの性格の母親だ。これ以外にも佳撫用にこちらの世界らしい服をいくつか用意している可能性もある。

 徹は佳撫の違う格好が見られるのは悪くないとも思ったが、そんな里佳にはさすがに微妙に呆れてしまった。

 しかし、やはり母親として娘にはそういうことをしてあげたいのだろう。


「まあ、とにかく帰ろうか」


 こんなところで立ち止まっていても仕方がないので家に向けて歩き出すが、佳撫が動かないので振り返る。


「あ、あの、兄様。手を、その……」


 おずおずと呟くように言いながら、左手を抱き締めるようにしている佳撫の様子に、徹は彼女の望みを何となく察して右手を差し出した。

 すると、彼女はパッと明るい笑顔を見せて、その右手をキュッと握ってきた。


「行こうか」

「はい、兄様」


 満足そうに、同時にはにかむように頷いて、佳撫は一緒に歩き出した。

 どうやら抱き着いたり腕を組んだりするよりも、手を繋ぐ方が彼女にとっては遥かに喜びと恥ずかしさの度合いが大きいようだ。

 恐らく、それをするためには基本的に相手の同意が必要だからだろう。

 しかし、こうして自分から進んで誰かと外で手を繋ぐのは、大分前、小学校低学年の頃に母親と繋いで以来かもしれない。

 そう思うと何となく照れ臭いが、それ以上に徹は納まりがいいような気がしていた。やはり家族だから、なのだろうか。


「そう言えば、家にレオンがいましたけど、どうして連れていないんですか?」

「そりゃあ、学校にあの手のアクセサリーは禁止されているからな」


 佳撫の左手と繋いだ右手を横目で見ながら答える。

 レオンが変じた腕輪はそこにはない。

 もし腕輪をしたまま学校にいけば没収される、かどうかはレオン次第かもしれないが、面倒臭いことになることだけは確かだ。


「そうなんですか? 森羅では申請すれば大丈夫なんですけど……」

「それは符号呪法の産物だからだろ? こっちには符号呪法なんてないしさ」

「あ、そうでしたね。でも、それだと兄様が危険じゃないですか?」


 本気で心配している風の佳撫に軽く苦笑する。


「こっちにはアニマは出ないじゃないか」

「それは……そう、でした。兄様一人の念ではアニマは生まれないでしょうし」


 そう言えば、アニマとは不特定多数の人間が有する多種の符号呪法が負の感情によって暴走して連鎖的に、自然的に発動して生まれるものだったか。

 ならば、たった一人、佳撫をいれても二人の力ではアニマは生じないだろう。

 だが、そうなるとこの世界に符号呪法を扱える者が増えたりすれば、アニマが発生するかもしれない、ということではないか。

 と危惧しても、そんなことはまず起きないに違いない。

 何せ、森羅を訪れなければ符号呪法を使えるようにはならないし、行き来できるのも、存在可能性を持ちながら存在していない者に限られているのだから。


「でも、なるべくなら、レオンを傍に置いておいた方がいいと思いますよ」

「まあ、そう、なのかもしれないけど……せめて、もう少し真面目な高校生が身に着けていても自然なものだったらよかったんだけどな」


 例えば、腕時計とか。あるいは眼鏡とか。


「こればかりは初期生成時の設定ですから」

「ん? あれって使用者が設定できるのか?」

「大まかになら、と聞いています。死んだ兄様の場合は、運動に支障がないものを望んでいたのでああなったとか」


 別世界の文化的な部分でのことなので文句を言えた義理ではない。

 が、それでももう少し運動面よりも普段の生活で変な目で見られないかどうかを気にして欲しかった。

 どうせ戦闘時には形態を変えるのだから。

 一押しはやはり腕時計辺りか。機能がまともかどうかはさて置き。


「じゃあ、もしかしてレオンのあの姿もそうなのか? 性格的な部分も」

「性格は兄様の性格に少し依存していると思いますけど、多分外見はそうだと思います」

「そ、そうなのか……」


 正直、あの威圧感をそこらに撒き散らすような風貌、特にあの二メートル近い長身はやめて欲しかった。

 恐らくその外見で敵を威圧するためなのだろうが、この世界にはそぐわない。

 今更だろうが、もう一度設定できるものなら、全く逆のタイプに設定してやりたいものだ。できることなら、性格ももう少し所有者に優しくなって欲しい。


「佳撫みたいに優しくて可愛ければよかったのにな」

「か、可愛いだなんて……」


 佳撫は恥ずかしげに俯きながら、ありがとうございます、と喜びが多分に聞き取れる小さな声で続けた。

 そんな風に話をしているといつもより体感時間的に早く、いつかの寂れた公園の前を通り過ぎる。

 それを視界の端に捉えながら、徹はふと佳撫と出会った日のことを思い返した。

 あれから大分時間が経っている気がするが、まだ一週間も経っていないことを改めて認識すると驚きを隠せない。


「どうしました?」

「いや、何だか佳撫とは長年一緒にいるような気がして、さ」

「そうですね。わたしもそう思います」


 柔らかに答えて、佳撫は言葉通りの同意を込めるように軽く手に力を込めてきた。


「絆の強さは共有した時間の量より、そこで共に何をしたのか、感じたのかが何よりも重要ですから」


 更に体を寄せて見上げてくる佳撫に、徹は、そうだな、と呟いて頷いた。

 佳撫が自分を森羅で死んだ兄と同等に慕ってくれ、しかし、同時に代用品としては決して見ようとしなかったこと。

 自分が森羅の徹のように弱さを隠したりせずに、彼女に全てを曝け出したこと。

 後者はどうにも情けないが、そのおかげでこうした近しい、代用品に対する近さではなく、正しい兄妹としての距離間でいられるのかもしれない。

 そう徹は思った。


 そこで会話が途切れ、ただ佳撫と手を繋いで静かに家路を行く。

 他人ならば無言は気まずいが、むしろ彼女とであれば心地がいい。

 しかし、この手の柔らかな温もりに、納まりのよさ以上に安らぎをも抱くのは何故だろうか。繋ぐ時間を重ねる程に恥ずかしさが薄まっていく気がするのだが。

 そう疑問を脳裏に巡らせ、徹は優司の言葉を思い出した。


「……シスコン疑惑、か」


 ポツリと佳撫には聞こえないように、ほとんど音にならないように口の中で呟く。

 あの時優司は、お前のことを言った訳じゃない、などと言っていたが、本当はその予兆のようなものを見抜いていたのかもしれない。

 まあ、しかし、家族を大事にして文句を言われる筋合いもないだろうが。

 そうこう考えている内に自宅に到着する。

 既に里佳は仕事に出かけたようで、駐車場に彼女の車はない。


「あの、兄様。今日はこれから予定がありますか?」

「予定? いや、別にこれってものはないけど」


 強いて挙げれば、異常復号体に対する対策を考えることだが、これは予定としてカウントしなくてもいい。

 現在はレオンと別々に策を考えている最中だが、ただ机の前で頭を抱えて悩んでいれば、すぐに思いつけるものでもない。

 ただ、そうやって行動だけを記述すると、異常復号体の討伐に躍起になっているかのようだが、所詮これは全て捨て去るための弱者の努力に過ぎないことを忘れてはならない。


「なら、あの、森羅に来て頂けないでしょうか。一日経って改めて考えてみると、姫子さんの様子が何となく気になって……」

「雪村さんの? ……まあ、いいけど」

「ありがとうございます、兄様」


 いくら捨て去るつもりでいても、さすがに鍛錬の相手を務めてくれた姫子のこととなると少々気になる。

 それにあの戦いを外側から見ていた彼女と話をすれば、何かしら有益な情報が得られるかもしれない。そう。捨てるために有益な情報が。

 そう思いつつ、徹は玄関先で佳撫の手を離して鍵を開けようとした。が、その鍵が錠前に触れる直前に、扉がいきなり開き、中からレオンが顔を出した。


「うおっ」

「ひえっ」


 突然の大男の出現に驚きがシンクロし、佳撫は徹の腕に抱き着くようにしてきつく両手を絡めてきていた。

 二人共半袖ということもあり、触れ合う肌の部分が多くて鼓動が速くなる。

 佳撫とは違い、徹としては接触面が多いこの方が緊張の度合いが大きかった。


「……遅かったな」


 そんな二人の反応にレオンは微妙に心外そうな表情をしてそう言うと、深く嘆息してから姿を消した。同時に彼が変じた腕輪が徹の右手に現れる。


「心臓に悪いです……」


 佳撫は体を離して、なだらかな胸に手を当ててホッと息を吐いた。

 そんな佳撫に、全くだ、と頷きながら、レオンの支えを失って閉じつつあった扉を再び開けて、教科書などが入った鞄を廊下の床に置く。


「さ、行くか」


 そして、周囲の様子を確認してから、徹は佳撫にもう一度手を差し出した。


「はい、兄様」


 彼女は嬉しげに手を取るとその瞳を美しい緑色に染める。

 符号呪法発動の証。

 それを認識するのとほぼ同時に、何度目かの世界間移動が始まった。

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