第18話

 全くいつも通りの、という感じの懐かしい夕食の後。

 徹は食休みとして、ソファーに座ってリビングに設置された家の中では一番大きなテレビに映るバラエティ番組を眺めていた。

 この微妙に騒がしい映像に日常を感じるのは、自分がインドア派である証拠だろう、とか益体もないことを考えながら。

 既に佳撫は森羅の自宅に帰っている。ぎりぎりまで粘ってはいたが、さすがにあのような結果では父親に真実を明かせないだろう。嘘をつき通すしかない。


「ところで、無事に負けて帰ってきたのはいいけど、結局、今後はどうなるの?」


 洗い物を終えた里佳が軽く伸びをしながら、徹が座るソファーとはテーブルを挟んで反対側にある一人がけの椅子にどっかと座り、そう尋ねてきた。


「それは――」


 佳撫にもう考えなくていいと言われてから、意識的に考えないようにしていた。

 心の奥底には完全に納得し切れていない燻った気持ちが残っているのだが、どう考えてもそれは弱い自分には分不相応なものだから。


「後は、あっちで何とかするって……」


 しかし、世の中の大概のことはそんなものなのかもしれない。

 何もかもが納得できた終わり方なんてものは、今日びフィクションでもそうはない。無理矢理に完全無欠のハッピーエンドを作ろうとしても、ご都合主義だと一笑にふされるかもしれない。

 人には器というものがあるのだから。できないことはできないのだ。

 森羅の徹なら、蛮勇と笑われることになろうとも、あれと再度戦おうとするのかもしれないが、それこそ器が違う、のだろう。

 いや、遺伝子的に同じ肉体なのだから、器に満たされているのが澄んだ水か泥水かの違い、とでも言った方がいいか。


「ふうん、そう」


 そのこと自体にはさして興味なさそうに言って、里佳はテレビに視線を向けた。


「徹がそれでいいんなら、まあ、それでいいんだけど。そこんとこはどうなの?」

「どうなのよ、って言われても、俺にはもう何もできないし」

「そうじゃなくて、実際にできることがないかどうかはさておき、あんたの気持ちはどうかって聞いてるの。ちゃんと折り合いつけたの?」


 呆れたように横目で睨みながら言う里佳に、徹は軽くたじろいで口を噤んだ。

 やはり親だからか、息子の微妙な気持ちの揺らぎはお見通しのようで、そんな徹の姿を見て彼女は深く嘆息していた。


「……徹。お父さんのこと、覚えてる?」

「ど、どうして?」

「いい機会だと思って、ね」


 言った本人にしか分からないような答えを返しながら、里佳はいつになく真剣な表情で見詰めてきた。

 即座に何か大切な話をしようとしているのだと分かって姿勢を正す。


「今回の敗北は貴方にとってほとんど初めてと言っていい大きな挫折よね? だって、貴方は目の前にある壁を避けて生きてきたようなものなんだから」


 波風の立たない人生をこそ徹は望んでいた。

 しかし、人生に波風はつきもので、望まずとも寄ってくるもの。

 だから、それを実現するには自ら波風の原因となるものを回避しなければならない。それは例えば、他者との衝突や……夢の実現などだ。


「そういう風になったのはいつからだったかね」


 分かり切っていることを確認するように尋ねる里佳に、徹は何も言えなかった。


「お父さんが死んでから、よね?」

「そう、かな」


 何となく認めたくなくて惚けようとしたが、里佳を見る限り無駄だったようだ。


「そうよ。それまでは貴方も子供相応に夢を見てたし、それを目指そうというだけの気概もあったはずだから」


 確かにそういう時期もあったと記憶はしているが、徹としては時間的なもの以上に感覚的に昔のこと過ぎて、もはや自分のことだとは思えなかった。

 当時を思い返せば、完全に子供らしい子供だったとしか言いようがない。

 だからと言って、今が大人かと尋ねられれば、答えに詰まるが。


「お父さんは、こういう言い方をすると年甲斐のない大人に聞こえちゃうかもだけど、いい意味で少年の心を持ったような人だった。それは覚えてるでしょ?」


 記憶を辿れば、嫌と言う程にその片鱗が窺えるような思い出が甦ってくる。

 夏場の糞暑い中を遺跡巡りに連れて行かれたことや、海外に世界遺産を見に行ったこともあった。

 当時小学生だった徹にはその価値も面白さも余り分からず、漠然と旅行それ自体を楽しんでいたが。

 ともかく口を開けばロマンだの夢だの口走る、聞いただけでは胡散臭いような人だったのは確実だ。

 しかし、彼自身、考古学者になるという幼い頃からの夢を叶え、しかも、その道では次代を担うとまで評価されていたらしいので侮れない。

 もしも今も生きていて、別の世界がある、なんてことを知ったなら、きっと飛び上がって喜んでいたに違いない。そういう人だった。


「徹も昔は、お父さんみたいになりたい、なんて言ってたんだから」


 正直に言えば、子供心に面倒臭い大人だとは思っていたが、同時にその生き方自体は格好いいとも思ってはいた。

 なれるものならこういう大人になりたいと当時は本気で思っていた。だが――。


「でも、お父さんは死んでしまった。貴方にはそれが相当に強いショックだったのね。そして、本来的には関係ないはずなのに、夢やロマンといったものまで儚いものと考えるようになった」


 何となく罰のように思えてならなかったのだ。

 周囲の情報が入ってくるにつれて、仕事とは基本的に辛いもの、というような一般的な考え方に引きずられてしまって。

 楽しんで仕事をしているように見える父親が、悪いことをしているように感じてしまった。

 そして、その死を切っかけに夢だのロマンだのを追い求めれば、身を滅ぼす、と思い込んでしまった。


「……母さん。だから何なのさ。今更、夢とかロマンとかを持て、って言うの?」


 今となっては別にそういったものが絶対的に悪いなどとは当然思っていない。

 ただ、そのせいで家庭が崩壊したり、人生泥沼に入り込んだりすることがあるのも確かだ。そんなリスクのある道を選ぶかどうかは当人次第のはずだ。


「若い身空で今更とか言うな、馬鹿。現代の高校二年生なんか、夢なんか定まってなくて漠然と大学に行こうか、って程度のものでしょうが」


 それは少々酷い断定のような気もするが、中にはそういう考えの人もいるのは確かではある。

 事実クラスメイトの中には、とりあえず大学に行く、としか考えていないらしい者は多い。

 いわゆるモラトリアムの期間が長くなればなる程、そうなってしまうものなのかもしれない。


「でも、それで夢を持っても基本叶わないじゃないか」


 モラトリアムの最後にようやく夢を見つけたところで、幼い頃から一貫した夢を追い求めていたところで、叶えられる人などほんの一握り。

 多くは夢破れ、結局は惰性的な道を選ぶだけだ。


「人ってのは、夢を諦めて、己の分を弁えて、大人になっていくんじゃないの?」


 呟くように言うと、里佳は呆れたように深く嘆息した。


「少なくとも、今の貴方は大人振ってるだけだけどね。半端に諦観漂わせた言い方をして全く偉そうに」


 そして、身を乗り出すようにして頭をはたいてきた。


「それと、そんなものは大人じゃない。ただの負け犬よ」

「……なら、大人って何なのさ」


 夢を叶えなければ大人ではない、とでも言うのだろうか。

 いくら自分自身、子供の頃から看護師になりたいという夢を抱き続け、それを叶えたからと言ってそれは傲慢が過ぎるのではないか。


「当然、それは夢を叶えた者――」


 予想していた酷い答えに文句を言うために口を開こうとしたが、里佳は更に言葉を続けたのでそれを遮られてしまう。


「あるいは夢を捨てた者のことよ。そのどちらも夢がもはや夢ではなくなったという点では同じね。ま、これは夢に限って大人を無理矢理定義するなら、だけど」

「俺が言ったのと、どこが違うのさ。諦めるも捨てるも同じようなものじゃないか」

「全然違うでしょ。……いや、言葉がちょっと足りなかったかもしれない。夢を後腐れなくきっちり捨てるってこと」

「そんなこと――」


 いくら何でも無理ではないか、と徹は思った。

 夢が破れれば必ず未練が残るはずだ。

 ならば、結局のところ、夢を叶えなければならないではないか。


「陳腐な言い方をするなら、夢を諦めるな、ってことよ」

「……夢は諦めなければ必ず叶う、なんて嘘を母さんが言うのか?」

「違う。いくら何でも、そんな誰にでも分かるあからさまな嘘っぱちなんか、さすがに言えないって。それは夢を捨て切るために必要なことなの。叶わない夢を見てしまった者は諦めないことで徹底的に敗北して、ようやく夢を完全に捨て去ることができる。勿論、何かの拍子に夢が叶うこともあるかもしれないけどね」


 里佳は少し間を取って真正面から目を見据えてきた。


「そんな中で貴方は夢から逃げた。捨てる、どころか、諦める以前に逃げてしまった。しかも、それをあたしのせいにしている」


 婉曲な表現を使わず、直接的に断ずる里佳に思わず目を逸らしてしまう。


「べ、別に母さんのせいになんか」

「言い方がきついかしらね。せい、って言うか、あたしを理由にして、ってこと」


 さらには考えを完璧に見抜かれ、徹はそれ以上何も言えなくなってしまった。


「母親を安心させるために安定した生活を望む、か。正直に言えば、あたしのためにそう思ってくれてるのは嬉しいし、親としては子供には波風なく、幸せな人生を送って欲しいから、安定した、安心できる職業を選んで欲しいと思うけどね」


 酷く恥ずかしい。親にそういうことを知られてしまうのは。

 そう感じることもまた、ある意味子供である証拠なのだろうか。


「でも、だからと言ってあたしのせいで貴方がそれを選ばざるを得ないのなら、子供の足枷になるようなら、あたしはあたしなんかいなくなってしまった方がましだと思う。自分で自分を許せないから」


 強い、どこまでも強い気持ちの込められた言葉に驚き、同時に恐れのような感情をすら抱いてしまう。

 この人なら、恐らく自分という存在が子供にとって本当に邪魔になると思えば、本気でいなくなってしまいそうだ。そう思って。


「それがあたしのあり方だから。ずっと昔、お父さんと約束した、ね。……そうそう。あんたのお父さんはね。そんなあたしが好きだったんだって」


 里佳は真剣さと釣り合いを取るように、あるいはそれを際立たせるためにか、悪戯っぽい笑みを浮かべながら後半の部分をつけ加えた。


「勿論、貴方自身がその本質から安定を求め、それを目指すのならあたしだって何も文句は言わない。でもね。貴方のそれは、自分自身がかつて望んだ夢を誤魔化すために、下らない理屈をつけて安定を逃げ場にしてるようにしか見えない。そんなものは本気で安定を望む人を侮辱してるようなものなのよ」

「それは……そうかもしれない」


 安定の象徴のように使われるものと言えば、まず公務員だ。クラスメイトの中にもこう言う者がいる。

 公務員にでもなれば、安定した生活が送れる、と。

 だが、公務員にでも、とはどういうことか。

 明らかにそれは見下した言い方だ。

 それを本気で望んでいる人を貶めている。

 本当ならそんな者にそれを目指す資格などないに違いない。

 制度的、現実的にはそれが通ってしまうこともあるのだが。

 徹は自分が波風の立たない人生を望んでいると思う度に覚えていた違和感、罪悪感のようなものの正体を知ったような気がした。

 里佳の言う通り、長い間波風の立たない人生などという曖昧な道を逃げ場として使っていたのかもしれない。


「夢を捨て切ることもなく、適当な言い訳をしてそれを諦めて、逃げ場にしていい程、安定というものは安いものじゃない。簡単なものじゃない。現状維持というのは、昇り続けることよりも遥かに難しいことだってあるんだから」

「でも、夢、なんて言っても――」

「貴方の昔の夢はお父さんみたいな考古学者だったかね。まあ、一度凍らせた思いを再び燃え上がらせるのは難しいかもしれないけどね。それこそ、貴方は若いんだから、これからいくつでも夢を抱けるはず。さっきも言ったけど、勿論安定を求めたっていい」


 むしろ最後につけ加えられた許容のために、徹は分からなくなっていた。

 かつての夢は他人事のように遠い上に現在の偽物の望みは吹き飛ばされ、再構築しようにも決定的な、確固とした何かが必要な気がする。

 そう。本物にするための何かが。


「夢があるなら逃げずに諦めるな。そして、壁にぶち当たって、それを捨てるなら徹底的に捨てろ。捨て切れないなら、まだ諦めたりするな」


 きっと、その確固とした何かを得るために必要なのは、この母親が言っているようなことなのかもしれない、と徹は思った。


「それは勿論、あっちの世界のことも含めて、ね。もし捨てることを選ぶのなら、きっちりと捨ててくること。いい?」


 同時にそれは捨て切れない何か、釈然としないものがたとえ一欠片でもあるのなら、自分勝手でもそれがなくなるまでは関わるべきだ。

 そういうことを暗に言っているのだろう。

 そう思いながら、徹は頷いた。

 確かに心に残っている納得し切れない気持ちは、何かできること、何かすべきことがあるからこそ生じたものかもしれないから。

 しかし、自分勝手にとは言っても、誰かを傷つけてでも、という訳ではない。

 それはむしろ捨てるための強力な要素のはずだ。


「まあ、でも、やるなら死なない程度に、ね」


 表情から徹が自分の言葉の含意を読み取ったと分かったのか里佳はそう言い、それでこの話は終わりとばかりに立ち上がった。


「さて、お風呂の用意でもしてくるかね」


 言葉でもその話題の終了を宣言してリビングを出ようとして、里佳は何か思い出したように立ち止まって振り返った。


「それはそうと、明日からまた学校だけど、優司君に進み具合とか宿題とか確認しておいた方がいいんじゃないの?」


 それだけ言って部屋から出ていく里佳の背を呆然と見送る。

 それは森羅の事後処理とはまた別に、無意識的に考えることを避けていたものだった。だから、咄嗟には何を言われているのか分からず、一瞬後になってようやく里佳の言葉の意味を理解した。


「そ……そうだった」


 そして、里佳に言われた通り、優司に電話をかけるために、徹は慌ててスマートフォンが置いてある自室へと向かった。

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