第17話
目を覚まし、最初に見えたのは見慣れた天井。自宅の自室の白い天井だった。
感覚的にも即座に分かる。いつものベッドの上での目覚めだ。
「夢、か」
並行世界。妹。符号呪法。異常復号体。血戦。随分と奇妙な夢を見たものだ、と苦笑しながら寝ぼけ眼を擦ったところで右手の腕輪が視界に入る。
そこでようやく徹は全てが現実だったことを思い出した。
「俺は、生きているのか?」
『そうだな。まだ応急処置の段階だが、体は普通に動かせるだろう』
これまでとは違い、ただ酷く疲れたような口調で力なくレオンが言う。
そんな彼の言葉を確認するために、徹は起き上がってベッドに腰かけ、右手を軽く動かしてみた。
完全に圧し折れて歪み切り、力も入らなかった右手だったが、一応は問題なく動く。これが動けば、他の部分は恐らく大丈夫だろう。動かすだけなら。
『内臓の破裂はもう少し時間がかかる。食事はまだお預けだ』
「……そこまで酷かったのか」
レオンの治癒力がなければ確実に死んでいたに違いない。
つまりは即死ではないにしても致命傷だった訳だ。
当たりどころが悪かったなら、それこそ即死だっただろう。
治癒力が有効なレベルのダメージで済んだ幸運には感謝しなければならない。
正に紙一重、九死に一生だったに違いないから。
その事実を認識すると、今更ながらに体が勝手に震え出してしまう。連鎖的にあの瞬間の恐怖までも思い出され、震えは酷くなり、息が荒くなってしまった。
「くっ、あんな……」
自分の体を抱くようにして何とか震えを抑えようとしていると、ドアノブの無機質な音と共に自室の扉が開いて佳撫が入ってきた。
「兄様!」
彼女はそんな徹の様子を見ると慌てたように駆け寄ってきた。
そして、真正面から徹の頭を抱えるように抱き締めてきた。
「大丈夫。大丈夫です。わたしが傍にいますから」
彼女の胸元に抱かれたまま、耳元で優しく囁かれる。
それによって本当に僅かながら心に落ち着きが生まれ、徹はしばらくの間彼女の温もりに身を任せた。
それからさらに数分して、ようやく震えが治まり始め、恐怖心も一先ず静まる。
「あ、ありがとう。佳撫」
鼻先まで突きつけられた死の気配は当然ながら初めてのことで、思った以上に見苦しく取り乱してしまった。全く我ながら情けない。
「いえ、いいんです」
そう言いながらも、まだ抱き締めたままでいる佳撫。
何とか恐怖心から解放されたのはよかったが、そうして多少冷静な思考が戻ってくると彼女の控えめな胸の、しかし、確かな柔らかさが気になってしまう。
そんな自分に軽く自己嫌悪する。
「兄様? どうかしましたか?」
「い、いや、何でもないよ。もう、大丈夫だから」
「そうですか?」
佳撫はそのことに気づいていないようで、体を離してからしばらくの間小首を傾げていたが、やがて少し安心したように微笑んで徹の隣に腰かけた。
「それはともかく、あの後、どうなったんだ? ……そうだ。雪村さんは!?」
優司から失望され、殺す価値もないとまで罵倒された自分はともかく、あの場にいた姫子は命の危機に陥った可能性が、それどころか殺されてしまった可能性が高いのではないか。そう思って佳撫を見る。
「大丈夫だったようです。先程姫子さんに会ってきましたから」
「そ、そう、か」
安堵。しかし、それと共に意識を失う直前に見た彼女の表情が脳裏に浮かぶ。
「……失望、していただろうな」
後にも先のもあれだけ取り乱したことはない、という程の状態を見られたのだから。当然だろうと思う。
普通、そう普通なら。命を懸けた戦いを前に、覚悟を決めていないことなどあってはならないのだ。
それだけでも、どれだけ自分が愚かで弱い存在だったかが分かる。
「佳撫も、ごめん。俺はお前の本当の兄のようにはなれなかった。その代用品にすら、なれなかったよ」
自分を兄として慕ってくれた佳撫にまで失望されるかもしれないと思うと、どうしてか酷く怖かった。
それは家族にこそ弱みを見せたくない、という虚勢のような感情だったのかもしれない。
しかし、自分には彼女の家族を名乗る資格もない気がして、徹は項垂れるように頭を下げた。
「に、兄様、頭を上げて下さい」
慌てたように、恐縮したように徹の手を取って佳撫は言うが、徹は顔を上げることができなかった。佳撫に握られた手からは彼女の困惑が感じられる。
そのまま俯いていると、やがて彼女は意を決したように息を一つ軽く吐いた。
「その、あ、貴方は、死んだ兄様の代用品にはなれません」
自分が言ったことながら相手に繰り返されると厳しく響くように感じ、尚のこと頭を上げられず、目をきつく閉じてしまう。
「何故なら、貴方の代用品なんてどこにもいないように、誰も他の誰かの代用品になんてなれないからです。貴方は貴方でしかないんですから」
しかし、かけられる言葉はとても優しく、懸命だった。特に貴方という単語がたどたどしく聞こえる。そう呼ぶことが恥ずかしいかのようだ。
「それでも、貴方とわたしの間には確かな血の繋がりがあります。だから、貴方は死んだ兄様とは違う、でも、確かにわたしの兄様なんです」
佳撫の言葉にゆっくりと顔を上げて目を開ける。
と、目の前には覗き込むようにして柔らかく微笑んでいる彼女の顔があった。
「で、でも、俺はこんなに情けなくて、弱くて――」
そんな佳撫の親愛に溢れた表情に思わず目を逸らそうとする。
「兄様」
ハッキリとした言葉で遮られ、徹は僅かな驚きと共に視線を彼女に戻した。
「わたしは兄様を死んだ兄様の代わりとして想ったりはしません。でも、死んだ兄様にできなかったことをしてあげたいとは思っています」
「できなかった、こと?」
「はい。死んだ兄様は兄様の想像する通り、とても強い方でした。でも、だからこそ弱さを家族にも見せたりしませんでした。わたしが……弱かったからです」
佳撫は過去を思い出すように、同時に後悔を吐き出すように続けた。
「だから、わたしは兄様の弱さも情けなさも共有したいんです。時にその弱さのために一緒に苦しんで、時に一緒に乗り越える。そんな風になりたいんです」
「佳撫……」
「家族なんですから、失望なんてしません。逃げ場にしてくれて構いません。いくらでも見せて下さい。兄様の弱いところを」
「……ありがとう」
徹は思わず目頭が熱くなってしまったが、しかし、今度は佳撫から視線を逸らそうとはしなかった。
零れ落ちてしまった涙は恥ずかしかったが、それを彼女に可愛らしい柄のハンカチで丁寧に拭われると心が軽くなる気がした。
「本当に、情けないな」
「いいんです。それもきっと今の兄様らしさなんですから」
かなりネガティブな部分の自分らしさだが、佳撫の言う通り彼女と共にそれを乗り越えていくことができたら、きっとそれは素晴らしいことだ。
徹は心底そう思いながら、彼女に拭われて尚僅かに目に溜まっていた涙を少しばかり乱暴に拭った。
「もう、大丈夫ですか?」
佳撫に、ああ、と苦笑いをしながら頷き、部屋の壁にかけられた時計を見る。
時刻は三時過ぎ。
どうやら、あの戦いからまだ三時間程度しか経っていないらしい。
あれだけの酷い怪我を負いながら、これだけ早く意識を取り戻すことができたのも、レオンの治癒力のおかげに違いない。
そして徹は、改めて血戦の時のことを思い返した。
先程と同様に恐怖も同時に思い起こされるが、佳撫の言葉のおかげか、彼女が隣にいてくれるからか、その怖さも少しは冷静に見ることができる。
「……怖かった」
「え?」
「あんなに怖いと思ったのは初めてだった。レオンが操ってくれなければ、俺は何も、できなかったと思う」
「兄様……」
佳撫は呟きながら、徹の右手を両手で包み込むようにして握ってきた。
「相手を甘く見過ぎてたんだ。しかも、俺には戦いに臨むだけの覚悟もなかった」
『それはお前のせいだけではない』
レオンがフォローしたためか、佳撫が軽く驚いた表情をした。
『俺が操るという前提があったから、覚悟を持つに至らなかったのだろう。それに人間誰しも恐怖は感じるものだ。それを感じないのは俺のような人間ではないものか、既に壊れてしまった人間だけだ。怖いと思うこと自体は何も悪くない。それをどう処理できるかが問題なのだから』
その口調には、血戦前までの冷たさや強硬さがなく、敗戦の影響が色濃かった。
『しかし、俺が操ったことで恐怖を克服しようという心の機能を低下させてしまった。それがあの取り乱し方に繋がった訳だ。まあ、お前にそれを克服できたかは甚だ疑問だが。……結果として、あの場ではそれに命を救われた形になったな』
レオンは深く嘆息して、更に続けた。
『全く、徹底的に敗北してしまったな。あれは死んだ徹でも真正面からでは勝てなかっただろう。……すまなかった。あのようなものと戦わせて』
「不屈の剣たるレオンが、聞いて呆れますね」
どこか戸惑ったように佳撫が言う。
このような状態のレオンは初めてなのだろう。
『全くだ。耳が痛い』
それだけ呟いて反論もせずに黙ってしまうレオン。
そんな彼に佳撫は拍子抜けして困惑したように見上げてきた。
もしかしたら彼は、あそこまで力の差を痛感するような敗北をこれまで経験したことがなかったのかもしれない。
森羅の、非常に優秀だったという徹と共に戦い、だからこそ全ての戦いに勝利してきたのだろうから。
思えば、レオンが優司との戦いに固執していたのも、不意を突かれて敗北したからだった。正々堂々と戦えば、勝利できたと固く信じていたに違いない。
「佳撫。これから、どうなるんだ? あの優司は」
この世界の親友とは程遠い、歪んだ存在と成り果てた彼を思い浮かべて尋ねる。
雰囲気も口調も力を手に入れて屈折してしまったかのように尊大だった。
「もう、兄様は考えなくていいんです。怖い思いなんかする必要はないんです。後は姫子さんが全て処理すると言っていましたから」
「そう、か」
ならば、それはそれでいいのかもしれない。
何となく釈然としない気持ちは残るが。
「一先ず今は、母様にお顔を見せに行きましょう」
佳撫に手を引かれて立ち上がる。
「そういえば、この服、誰が?」
今更ながら自分の服装を見ると、レオンが着ていたような着流し姿になっていた。
「え? そ、それは、その、わたしが……」
もじもじと恥ずかしそうに俯いて、佳撫は呟くような小声で続けた。
「えと、その、道着の方はぼろぼろだったので」
「そ、そっか、ありがとな。佳撫」
言い訳するように早口になる佳撫に徹も恥ずかしくなってきて、それを誤魔化すように彼女の頭を撫でた。
「あー、あんた達、何やってるの?」
そんな状態の二人にかけられた里佳の微妙に訝しげな声に、徹は思わずびくっと体を震わせ、佳撫は、ひえ、と珍妙な悲鳴を上げた。
ぎこちなく声の方向に視線を向けると、開け放たれた扉の先で里佳が意地悪そうな笑みを浮かべて立っていた。
どうやら慌てていた佳撫が閉め忘れて、開けっ放しになっていたようだ。
「か、母さんこそ」
「あたしは、いつまで経っても佳撫が戻ってこないから心配して来たんだけど、いらぬ心配、だったみたいねえ」
にやにやという表現が相応しい笑顔で腕を組んでいる母親に、徹は頭を抱えた。
佳撫も酷く恥ずかしそうに俯きながら一歩離れてしまう。
「しかし、その格好、馬子にも衣装って奴かね。何だか締まって見えるから不思議だわ」
上から下まで品定めするように見られ、何となくむず痒い気分になる。
「ど、道着姿の時も、素敵でしたよ?」
微妙に混乱した佳撫がそんなことを口走り、里佳は尚のこと大きく笑った。
「まあ、それはともかく、よく無事に帰ってくることができた、って感じね。話を聞いた限りじゃ、完璧にぼろ負けしたみたいだし」
一しきり笑ってから里佳は近づいてきて、頭に柔らかく手を置いてきた。
妹の前でそんなことをされると正直気恥ずかしい。
が、次の瞬間、そんなことを考えていられなくなる程ぐりぐりと激しく彼女は徹の頭をその手で揺らし始めた。続けた自分の言葉に合わせながら。
「本当に、全く、大丈夫とか、言いながら、あんたって、子は!」
円を描くように勢いよく頭を揺さぶられ、目が回る。
「どれだけ、あたしに、心配、させんの、よ!」
隣では佳撫があわあわと口を開けて、仲裁しようとしてできないという感じの中途半端な形で手を前に出しながら徹と里佳を交互に見ていた。
「でも……約束通り生きて帰ってきたことだけは、褒めて上げる」
ようやく頭のシェイクは終わりを告げ、最後にぽんぽんと二回優しく叩かれて徹は里佳から解放された。
多少視界がふらついたが、そこは隣の佳撫が支えてくれた。
『里佳殿。まだ体の修復は万全ではないんだが』
「あれ? そうだったの? もう大丈夫だから、妹といちゃいちゃしてたんだと思ったんだけど」
再びそのことを指摘され、佳撫が隣で俯いて、あうぅ、と小さく唸った。
が、それよりも徹は二人が会話していることに驚いていた。
『いや、まだ六割程度だ。明日には完全に治癒できるだろうが、今は上辺だけ治して何とか動かしているようなものだからな』
「それはまた、満身創痍ねえ」
「いや、あの、二人共、普通に話しているけど、いつ顔を合わせたの?」
少なくとも佳撫が泊まった時は、レオンは屋根裏で待機していたはずだ。
「いつ、って、あんたを運んできてくれたのはレオン君よ?」
「レ、レオン君!? そ、それにレオンも里佳殿って」
『名目上、俺は徹と同い年であるとして、それを基準に態度を決めてきたからな。勿論年上の方からはどのように呼んで貰っても構わない』
しかし、丁寧なのは呼称だけで偉そうな話し方は変わっていないようだが。
これはある種のプライド、レオンの不屈の部分なのだろうか、と徹は馬鹿なことを考えた。
何にせよ、レオンのことは里佳にも説明済みと思っていいようだ。
「い、いや、それ以前に、何で母さんが家に? 今日は日勤のはずでしょ?」
レオンがこの家に連れてきた時刻は恐らくあの戦いのすぐ後のはずだ。
となると、里佳はその時点から今まで家にいることになるのではないか。
「母さん?」
追及するように言うと、里佳は誤魔化すように視線を僅かに逸らした。
そんな彼女をさらにじっと見詰めると、ようやく口を開く。
「や、その、何だ。……今日のが心配で、医療ミスとかしたらシャレにならないからさ。頼み込んでシフトを代わって貰ったんだよね」
いつも社会人の責任がどうとか言っている母親が私事のためにそれをした、ということに驚く。
驚くと同時にそれだけ自分のことが心配だったのだろうと思い至り、徹は申し訳なく思った。根拠も何もない癖に大丈夫だなどと言ったことを。
大言壮語も甚だしいとしか言いようがない。
「……ごめん、母さん」
「馬鹿。さっきのでもう済んでるんだから、気にしなくていいの」
もう一度、今度はくしゃくしゃと頭を強く撫でられる。
「ま、とにかく、下に行こっか」
そして里佳は何でもないことのように軽い口調で言い、歩き出してしまった。
そんな彼女の背中に何と言うか母親というものを強く感じて、徹は恥ずかしさ以上に充足感のようなものを抱きながら、その背を見詰めた。
「母様、兄様のぼろぼろになった姿を見て、とても取り乱していましたよ」
内緒話をするように耳元で佳撫が言う。その内容に尚申し訳なさが募り、本当に自分は愚かだったと改めて認識させられる。
『……自分のことを棚に上げて』
「レ、レオン!」
ぽつりと呟かれたレオンの言葉に、佳撫は顔を赤らめてあたふたし始めてしまった。彼女もまた相当心配してくれていたのだと分かる。
「ごめんな。佳撫」
「い、いえ、母様も言いましたけど、もう、済んだことですから」
少し照れたように見上げてくる佳撫の姿に、徹は自然と微笑みながら頷いた。
それから彼女と共に既に一階のリビングに入ったらしい里佳を追いかけた。
そうして家の中を歩く内に、徐々に元の世界に戻ってきた実感が湧いてくる。
ほんの数日の間別の世界に行っていただけなのに、どうにも懐かしさを強く感じてしまう。光景からも、匂いからも。それらに安堵のような感情も抱く。
やはり、あちらは並行世界とは名ばかりの、完全な別世界と考えた方がいいのかもしれない。
しかし、ならば佳撫はこの世界にいて息苦しさを感じないだろうか、と思い、隣を歩く彼女に視線を向けるが、彼女は小首を傾げてから小さく笑うだけだった。
その笑顔に無理をしている感じは見て取れない。
もし佳撫がここでも自分の居場所を感じることができているのなら、それはとても嬉しいことだ。そう彼女に笑みを返しながら徹は思った。
「ところで、体の修復はまだ、って言ってたけど、夕飯は食べられるの?」
リビングに入ったところで里佳は徹の右手に向かって尋ねた。
『それまでには内臓の修復は終わらせておく』
「なら、消化し易いものじゃなくて、普通のものでもいいのね?」
『問題ない』
「そ。じゃあ、普段通りでいいかね」
言葉の軽さとは裏腹に安心したように息を吐いて、ソファーに座りこむ里佳。
彼女の視線の先にあるテレビは点けっ放しで、この世界の様相を映していた。
森羅にもテレビはあったが、結局鍛錬ばかりで見る暇がなかった。しかし、きっとあれもあの世界のあり方を映していたに違いない。
「佳撫は今日も泊まってくの?」
「あ、いえ、父様が家で待っていますので。その、今は姫子さんの家に遊びに行っていることになっているんですけど、さすがに今日まで泊まっては……本当に残念ですけど」
「そっか。そう言えば、そっちの世界ではあの人が生きてるのか」
しみじみと呟きながら、里佳は天井を見上げた。
「父一人娘一人、か。母一人息子一人のこっちとは全く対照的ね」
その言葉に佳撫はハッとしたように里佳を見詰めた。
「あ、あの、母様――」
「ストップ」
いいことを思いついた、という感じの佳撫の言葉を里佳は即座に遮った。
「悪いけど、それは無理よ」
「で、でも――」
「佳撫、この徹を貴方の死んだ兄と同じだと思ってるの?」
その問いに佳撫は言葉を詰まらせて、俯いてしまった。
「どういうことだ?」
佳撫の考え自体は半ば予想できていたが、確認のために尋ねる。
「その、母様も父様も世界を移動できるはずなので……」
やはり、と思う。
こちらの世界、いわゆる枝葉の世界では父親は事故で死んでいる。
対してあちらの世界、森羅では佳撫を生んで里佳が死んでいる。
二人共世界間の移動が可能だ。
形だけを見れば、足し合わせれば丁度いいように見えるのだが。
「母様、すみませんでした」
叱られた子供のようにしゅんとしてしまった佳撫に、里佳は小さく首を振った。
「まあ、一見するといい案に見えるからね」
そして、熟考すればそうではない、と暗に言いながら微かに笑う。
「佳撫がこの徹を代用品と見ないように、あたしもあの人の代用品を求めたりはしない。佳撫とあたしや徹の間には血の繋がりがあると言えるけど、あたしとあの人との間にはそれもない。徹が血縁を理由にして森羅のお父さんと親子関係を結ぼうと考えるのはいいとしても、あたしは無理なのよ。全くの他人なんだから」
「ああ。そうか」
里佳の言葉に納得する。そして、彼女が佳撫を死んだ娘の代用品として見ている訳ではないことも同時に理解する。
里佳が佳撫をそう見ているかもしれないと僅かにでも考えたことが知れたら、馬鹿にするな、と思い切り怒られてしまうに違いない。
「あたしの夫が死んだあの人しかいないように、あっちの世界のあの人の妻もあっちで死んだあたししかいない。もしも、あっちの世界のあの人があたしを代用品として見るような軽薄な奴だったら、ぶっ飛ばしてやるわ」
物騒なことを笑顔のままで言う里佳だったが、しかし、決してそうはならないと信じているようだった。
たとえ世界が違えば別人なのだとしても、それでも確かに同じ役割を持つ存在だから、そう信じられるのかもしれない。
「だから、佳撫」
里佳は佳撫の頭に手を置いて、諭すような口調で言った。
「……はい。分かりました」
佳撫も里佳の様子からそこまで感じ取ったようで、納得に加えてどことなく嬉しさを含んだ表情で頷いた。
あちらの世界では、佳撫が生まれた時点で里佳は死んでいるため、感じる機会がなかった母親と父親の間の絆のようなものが見えたからかもしれない。
徹もまたそんな母親と妹のやり取りに、確かに家族の姿を見て取っていた。
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