第5話
全ての感覚が遠くなる中、佳撫の手の温もりだけは確かなままで、徹はそれだけを頼りに意識を保っていた。
やがて光だけに埋め尽くされていた視界、潰されていた視覚が正常に戻っていく。
どうやら二度目ということで多少は慣れたらしく、今度は意識を失わずに世界を渡ることができたようだった。
「戻った、のか?」
周囲を見回しながら確認するように呟く。
少なくとも視界に映る世界は徹の知る世界そのものだ。
徹自身の感覚もまた、この世界こそ自分のあるべき世界だと告げていた。
そこは星律学院高校から真っ直ぐに帰宅するルート上にある公園だった。
普段から遊んでいる子供の姿は見えないが、今日もまた悲しくなる程人がいない。
遊具は既にいくつかが錆びてしまったせいで撤去されており、その内単なる空き地にでもなりそうだ。
「はい。問題なく戻ることができました」
左手には佳撫の柔らかな感触と温もり。
もはや今更のことだが、やはり一連の出来事は夢ではないらしい。
元の世界で和装の愛らしい少女と手を繋いでいる状況はまだ非日常のままだ。
たとえその少女が妹を自称していても。いや、だからこそ、とでも言うべきか。
「……とりあえず、家に帰ろうか」
何にせよ、そんな姿の彼女をうろつかせるのは得策とは思えない。
今はさっさと自宅に戻るべきだろう。色々と佳撫に説明を求めたいこともある。
「はい。兄様」
佳撫は徹の言葉に素直に頷いて、今度は腕を絡ませてきた。
本質的に別人とは言え、徹は彼女が長年慕ってきた兄と同じ外見であるが故に、彼女はそういう行動を取ることに然程抵抗がないのだろう。
逆に、突然妹ができた形の徹はそういったスキンシップについては戸惑いが非常に大きかった。
しかし、余りにも自然に腕に頬を押しつけてくる彼女の姿を見ていると、やはりそれが二人の正しい形であるように思えてくる。
思えてくるのだが、周囲の目が気になって仕方がない。
それはきっと普通の兄妹でも同じことだろうが。
ともかく、あちらの世界、即ち森羅の徹と佳撫が相当に仲のいい兄妹だった、ということだけはよく分かった。
そうして結局、徹はそこから家までの道程を佳撫と腕を組んだまま帰ることになり、その間ずっと知り合いに出くわしたりしないよう祈り続ける羽目になった。
「ここが兄様の家、なんですね?」
自宅の前に至ると珍しいものを見つけたように、佳撫は目をぱちぱちと瞬かせる。
大きさ的にも中の上程度の普通の一軒家に過ぎないが、と言うと両親に申し訳ないかもしれないが、ともかく少々西洋色の強い外観は、和風な雰囲気が強かった佳撫の街では余り見かけない様式に違いない。
「何だか、不思議な感じです」
とは言え、周囲の似たような家は見ているはずなので、彼女が驚いた理由は徹がその中の一つに住んでいるという事実に実感が湧かなかったためだろうが。
この家は亡き父の遺産だった。住み始めてもう八年になる。
星律学院大学及び中学高等学校の近くにある五〇坪程度の二階建て。
通常二台、頑張れば三台まで駐車できるが、その頑張ればの部分は物置小屋と自転車で埋まっている。
少々郊外に位置しているが、大学が近くにあるためか交通の便はそれ程悪くない。
「あの、兄様。母様は今、いらっしゃいますか?」
「いや、母さんはまだ帰ってきてないよ。車がないし」
そうですか、と少し残念そうに呟く佳撫。
「でも、もう仕事は終わっただろうから、すぐに帰ってくるさ」
家の鍵を開けるため、ということで一旦自由になった左手をそのまま彼女の頭に乗せ、肩にかかるかかからないかという長さの綺麗な黒髪を優しく撫でる。
撫でてから、自然にそんなことをしていた自分に気づき、徹は自分の行動と指の間をさらさらと流れる彼女の髪の感触に顔が熱くなった。
いくら何でも気安過ぎたかと後悔する。が、彼女は気を悪くした風もなく、むしろ、はい、と頷いてくすぐったそうに目を細くしていた。
「母様はどんな仕事をしているんですか?」
「ああ、看護師だよ。俺が生まれる前に一度辞めたけど、七年前に復帰したんだ」
元の勤務先も今の勤務先も星律学院大学付属病院。余談だが、そこでフィールドワーク中に転んで怪我をした父親と出会ったのだとか。
このご時世再就職は大変かと思われたが、近年の看護師不足からか意外と簡単に復帰できたそうだ。やはり手に職があると違うのだろう。
あるいは、父親のこともあって大学側が配慮してくれたのか。
今日は日勤なので五時には勤務が終わり、その後は夕飯の買い物をしてくるため、帰ってくるのは六時頃のはずだ。
今は五時半を少し過ぎた頃だから、もう間もなくだ。
「まあ、とにかく入ろう」
玄関の扉を開け、佳撫の背中を軽く押して中に入る。
彼女は緊張しているようで、少し動きがぎこちなかった。
「お、お邪魔します」
おずおずと口の中だけで言ってから、小さな靴を脱ぐ佳撫。
あちらの日本では和装が基本のようだが、靴に関しては彼女のものと同様こちらの世界の革靴に動き易くアレンジを加えたものが多かった。
その工夫の分だけ西洋テイストの中に和の雰囲気が感じられる。
それで全体として調和が取れているのだから、これも一種の和洋折衷と言って差し支えないだろう。
こちらを大分洋風寄りの和洋折衷とするなら、あちらはほとんど和風の和洋折衷というところか。
「とりあえず、佳撫はここで少し待っててくれ。ちょっと着替えてくるから」
一旦、佳撫を居間まで連れていき、そこにあるソファーに座らせる。
「はい、分かりました。……えっと、早く戻ってきて下さいね?」
心細そうに見上げてくる佳撫に軽く微笑んで頷き、二階にある自室に向かう。
そうして自分の部屋に入ってすぐにワイシャツのボタンを外しながら備えつけのクローゼットを開けたところで、徹は何を着たものか迷ってしまった。
さすがにラフな部屋着はまずいだろうか。
かと言って、外出用の服も気にし過ぎかもしれない。
それ以前に森羅でのスタンダードが分からない以上、迷うこと自体意味がない可能性すらある。そもそも、妹相手に構えても仕方がない、はずだが。
色々と考えてから、この場は佳撫の望み通り早さを優先させることに決め、徹は簡単な部屋着を選択した。
別に異様に汚かったり、みすぼらしかったりする訳ではないので問題ないだろう。
そう呑気に思いながら制服を脱いだ瞬間、徹は自分の体の異変を目の当たりにして凍りついてしまった。
「な、何だ、これ」
腕以外の全身のあちこちが皮下出血を起こしていた。
正直目を背けたくなる程にはっきりと変色している。かなり酷い状態にあることが一目瞭然だった。
見ているだけでも痛みを感じてしまいそうだ。
しかし、それにもかかわらず痛みは一切ない。
たとえ一ミリでも動かせば、即座に激痛に襲われそうな状態に見えるのに。
『あの程度の動きで筋断裂するか。やはり軟弱だな』
右手の腕輪からレオンの呆れ声が響いてきた。
「こ、これ、断裂しているのか? 普通に動くし、痛みもないぞ?」
特に惨いことになっている足を交互に動かしながら尋ねる。
やはり全く痛くない上に挙動も普段通りなのだが。
『痛覚は消してある。それと、俺の力で断裂した部分を治癒しながら補助しているからな』
「けど、腕は何ともないのはどうしてだ?」
『半袖で肌が露出していたからな。表面だけ取り繕っておいただけだ。内部は他と変わらん。それより、さっさと着替えろ。説明もそうだが、早々に佳撫の目を覚まさせる必要がある』
素っ気なく言うとレオンは再び口を噤んでしまった。
レオンの言葉の意味はよく分からなかったが、ともかくこの痣については大事に至らないのだと無理矢理思い込んでおくことにする。
しかし、やはり見ていて気持ちのいいものではない。
なので、徹は皮下出血を起こしている部位をなるべく見ないようにしながら、さっさと部屋着を着て隠してしまうことにした。
脱いだ制服の整頓はそこそこに佳撫の待つ居間へと急いで戻る。と、そこの扉を開けた瞬間に心細そうな表情の彼女と目が合った。
どうやら佳撫はジッと座って待つのが落ち着かず、そわそわとソファーの傍に立って扉を見詰めていたようだ。
彼女はホッとしたように小走りで近づいてきた。
「兄様、遅いです」
「ごめんごめん」
僅かに唇を尖らせる佳撫の頭を柔らかく撫でてから、機嫌を直した様子の彼女と並んでソファーに戻って一緒に座る。
最初、その方が話し易い方がいいかと思って対面する位置で座ることを提案したが、佳撫は何故かそれを嫌がり、結局触れるような距離で隣に座ることになった。
「さて……何から聞けばいいのかな」
「えっと、わたしも何から話せばいいのか……」
徹は聞きたいことがあり過ぎて、まず何を問題にすればいいのか分からなかった。
対する佳撫の方も二つの世界の差異がどの部分にどの程度あるのかはっきりと把握していないようで、どのレベルから話す必要があるのか迷っているらしかった。
『それは俺が判断しよう。かの力によって生じた俺は世界の一部と言っていい存在だからな。世界の大まかな差異は感じ取れる。さすがに地域レベルの細かい文化、文明の違いまでは分からないが、今回必要な情報程度であれば十分だ』
その理屈の正否は徹では当然ながら判断できなかったが、隣の佳撫は、成程、と納得したように、同時に何故か不満そうに頷いた。
会話を邪魔されたことが気に食わなかったのかもしれない。
『まずは、そうだな。他の説明にも最低限必要な基礎知識であり、二つの世界の違い、その最たるものである力。符号呪法について説明してやるといい』
「……分かりました」
「符号、呪法?」
「はい。その、わたしが二つの世界を繋いだ現象やレオンという存在、そして、あのアニマも含めて、その符号呪法と呼ばれる力の具現なんです」
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