7 ぎゃらりーSの攻防(後編)

 レオナちゃんが、勢いよく倉庫の扉を開けた。

 するとそこには――猿ぐつわをかまされ、ひざを折って座るひとりの女性がいた。気を失っているのか、ぐったりとした状態でその背中は壁にもたれかかっている。

 恐らく、田中先生の奥さんなんだろう。


「よかった……。どうやら、薬か何かで眠らされているみたいね」


 安堵の息を漏らした、レオナちゃん。

 奥さんから、猿ぐつわや手足を縛る紐をまるで手品師マジシャンのように素早く取り外すと、振り返って伊東先生を睨みつけた。

 すると、レオナちゃんの視線に真っ向から立ち向かうように、伊東先生が睨み返した。


「ここ数日間、田中先生のご夫婦をこのギャラリーで監禁していたのも、伊東先生よね。どうしてこんなことしたの? もうすぐこの場所で自分の個展をひらくことになっていたんでしょう? 田中先生もそれに協力してたって、部員の子たちからも聞いたけど」

「本当はね……個展じゃないのよ。田中先生との、共同展覧会なの」

「だったら、尚更なおさら――」

「だから、そのせいよ!」


 長めの黒髪を振り回し、伊東先生は大きく首を振ってレオナちゃんの言葉を遮った。


「この展覧会に、田中先生の作品は要らないの。そして、その作品を描く――先生自身もね」

「……そんな風に考えて、こんな監禁事件を起こしたってことは認めるのね?」


 床に横たわる田中先生を見下ろしつつ、彼をあざけるような表情とともに伊東先生が小さくうなずいた。


「でも、ここに倒れている『嘘つき野郎』とその連れの女には、ちょうどいいくらいの仕打ちだと思うわよ」

「……田中先生は嘘つきなんかじゃない、と思うけど」

「ふん、違うわ。絶対に、嘘つきよ。だって……あ、去年までこの高校にいたレオナさんなら、きっと憶えてるんじゃない? 美術部の部室の棚のところにいた、耳の大きな猫のぬいぐるみのこと」

「うん、憶えてる。みんなで可愛がってた、ミーちゃんよね。そういえば……今日は部室にいなかった気がするわ」

「そりゃあ、そうよ。だってだいぶ前に私が、あのぬいぐるみの口元をさばいて、捨てちゃったんだもん」


 勝ち誇った、その顔。

 それを見た瞬間に、床に横たわったボクの背筋が凍った。

 リーバー先輩も、そうだったに違いない。人間には分からないほどの小さな動きで、口をぎゅっと結んだのである。


「……2か月前くらいだったかしら。部室で、『もっと絵を描くのが上手くなるにはどうしたらよいか』と訊ねた私に、美術教師の田中先生はこう言ったの。『もう君は、技術的には充分に上手だよ。それでももっと上手くなる秘訣を知りたいというのなら、このぬいぐるみのミーちゃんに訊くがいい。特に、この子の口元あたりを参考にしながらね』って」

「ふむ、なるほどね。想像していたとおりだわ」


 ――猫のぬいぐるみに訊く? その口元に絵が上手くなる秘訣がある?


 頭の周りに見えない「?」マークを盛大に飛び出させたボク。

 しかし、リーバー先輩はそんなこともなく、レオナちゃんと同じく、伊東先生の言葉に納得の様子である。

 ただ1人――いや、ただ1匹、ボクだけが会話の中身に疑問符をつけている状態だった。

 なんとも悔しく、リーバー先輩にその意味を教えてもらおうと、人間でいう゛テレパシー゛の声で話しかけようとした途端に、レオナちゃんが低い声を絞り出すようにしてこう言った。


「けれど、あなたは田中先生の言ったことがよくわからなかった――のよね?」

「うん、そのとおり……。ぬいぐるみに秘訣があるって言われて、その口元を含めて何度も見直してみたわ。でも、全然わからなかった。それで、仕方なく・・・・ぬいぐるみの口の中も調べてみたってわけだけど、結局、何も見つからなかったのよね……。ほら、田中先生このおとこ、嘘つきで合っているでしょ?」

「だけど……だけどね。たとえ仮に翔先生が嘘つきだったとしてもよ――ぬいぐるみをバラバラにしちゃうなんて、ヒドイ!」


 肩をすくめたレオナちゃんが、涙ながらに首を横に振った。

 激しく首を縦に振って同意したいボクとリーバー先輩だった。が、ここはとても動ける場面シーンではない。

 伊東先生が、吠えて反論する。


「だって仕方ないじゃない! 私、本当は美術系の大学に行きたかった。でも、両親に反対されて、仕方なく普通の文系大学に入学したの……。その結果、しがない国語教師になったわ。一度は諦めた芸術の道だったけど、たまたま美術部の副顧問になって、楽しそうに活動する生徒たちの姿を見ているうちに、また絵画をやってみたいという気持ちに火がついてしまって……。田中先生にいくつか絵を見てもらっているうちに、先生が『今度開く予定の僕の個展、君も共同展覧会ということで一緒にやらないか』と私を誘ってくれてくれたのは……本当にうれしかった」


 一瞬見せた、うっとりした表情。

 けれど、それはすぐに鬼の形相というか、しかめっ面に変化した。


「だから私は、共同展覧会を成功させようと思って、さっきの質問をした……。でも、田中先生は真剣に答えてくれなかった。素人だと思って、私をからかったのね」

「いえ、それは違うわ。田中先生は、きっと真剣に答えたんだと思うわよ」

「――? あなたに何がわかるっていうのよ!」

「わかるわよ。正直、絵のことはよくわからない。でも、田中翔先生のことはよく知ってるから。それからね――」

「それから?」


 まだ何かあるの?と言った感じで呆れ顔の伊東先生に、自信ありげに口角をあげたレオナちゃんの声に、力がこもった。


「あともうひとつ、わかっていることがあるわ。それはね……さっきも言ったけど、田中先生の自宅に忍び込んでたくさんのぬいぐるみをバラバラにしたのも、あなた――伊東先生だってことよ」


 大きな瞳でレオナちゃんを睨みつつも、ついに諦めたのか、再びゆっくりとうなずいて、レオナちゃんの推理を認める。

 おぞましい「大量殺ぬいぐるみ事件」の光景が頭の中でフラッシュバックしてしまい、思わず身震いしてしまった、ボク。


「だって、家にはもっといっぱいぬいぐるみがあると聞いたもので……。実は、絵が上手くなる秘訣は、そっちの方のぬいぐるみに隠されているんじゃないかと思ってね」

「でも、どのぬいぐるみの中にも、何もなかった」

「ええ、そのとおり」

「そんな風にあなたがぬいぐるみの破壊――いえ、殺戮と言うべきね――を働いているところに、私とカナちゃんが部屋の中へと入った。それに気付いたあなたは、田中先生の部屋が1階ということを利用して、窓から飛び出し、そこから逃亡したのね」

「……レオナさん。あなた、たいしたものよ。そう、そのとおり。まさか、あなたがあの部屋までやって来るとは想像してなかったから――かなり驚いたけれど」


 ボクたちぬいぐるみにしか分からない程度の小さなステップで、レオナちゃんが、じりりと伊東先生に近寄っていく。

 でも、伊東先生もぬいぐるみ並みの鋭い感覚を持っているらしい。

 レオナちゃんの動きを感じ取ったのか、彼女の顔に警戒のシグナルが走った。


「しかし、お宅にあったぬいぐるみが全部黒猫だったのには、びっくりしたわ。あれってもしかして、死んじゃった猫ちゃんの面影を追って、同じようなものをいくつも買ったってことなのかしら?」

「あの黒猫ちゃんたちはね、田中先生が美術部部長のレイカちゃんに頼んでファンシーショップで買ってもらっていたものなのよ。恐らくだけど、田中先生の奥さん……お星さまになってしまった猫ちゃんのことが大好きだったんでしょうね。愛猫がいなくなって元気を失くしてしまった奥さんを励ますために、少しでも似ているぬいぐるみがないか、翔先生は探していたんだと思う……。自分で買うのが、恥ずかしかったのかな?」


 更ににじり寄っていくレオナちゃんとの距離距離を保つべく、伊東先生が後ずさる。

 二人の視線が空中でバチバチと交錯し、火花を散らした。

 距離を詰めることを諦めたのか、立ち止まったレオナちゃんが腕を組んで言った。


「そして、更にもうひとつ――忘れてはならない事件があるわ」

「まだあるの?」

「ええ。でも、その前にもう一度確かめておきたいです。先生、猫はお好きですか?」

「もちろんよ。猫は大好き。実は私の家にも猫がいて――」


 そのとき、レオナちゃんの右手のひじがびしりと伸び、伊東先生の顔をレオナちゃんの人差し指が指し示したのである。


「それは嘘ね! 先生は猫など飼ってない。あなたは、『犬派』の猫嫌いよ」

「さて、どうでしょう……」


 にたりと笑って答えをはぐらかした、伊東先生。

 レオナちゃんがめげずに言葉を続ける。


「答えてくれないなら、仕方ない……結論を言うわ。田中翔先生のお宅の猫ちゃんを殺したのも猫嫌いの先生なんでしょ?」

「……そこまで言うのなら、訊くわ。証拠があるの?」

「あるよ。先生からほんのりと漂ってくる、その匂い――ラベンダーの香りですよね」

「あら、失敗した……。もしかして、あなた理系? 最近あまりラベンダーの香水をつけないようにしてたんだけど、田中先生のお宅に『お邪魔』するのに、是非ともこの匂いは身につけていた方がいいのかな、と思って」


 いったい、なんの話をしてるんだろう。

 よくわからないのでちらりと横を見れば、リーバー先輩もレオナちゃんの台詞せりふかすかにうなずいていた。

 香水のことは、リーバー先輩も納得の推理――といったところなのだろう。


「いえ、ワタシは筋金入りの文系です……。それはそれとして、当然、先生はご存知ですよね。北海道ではメジャーな植物で、入浴剤や芳香剤の香りのもとにもなっているラベンダーの精油には、猫の命にとって危険な『リナロール』という成分が含まれているということを」

「まあ……そうね。田中先生はご存知なかったようだけど」

「やっぱり、そうだったのか……。だから、猫ちゃんが体調を崩したときに理由がわからず、対処が遅れてしまっのたのね」

「さて、どうなんでしょう。そこのところはわからないわ」


 ニタニタと笑う、伊東先生。

 そんな挑発を無視するように、レオナちゃんは淡々と推理の説明を続けた。


「聞けば、1か月くらい前に、翔先生のところの猫ちゃんが亡くなったそうですね……。あなた、猫用のおもちゃか何かにリナロールの成分を含んだ液体――恐らくはアロマオイルのようなもの――をたっぷりと染み込ませて翔先生のところに送り付けたんじゃないの? リナロールを摂取してしまった猫ちゃんは体調を崩し、運悪くして、亡くなってしまった……。ワタシは、そう推理するわ」

「ほほう、よくそこまでわかったわね……感心、感心」


 もうお手上げ、と肩をすくめた先生が楽しそうに言った。


「そうなのよ。田中先生のご自宅には、絵のご指導のお礼と称してラベンダーのアロマオイルをたっぷり湿らせた魚の形の『噛むおもちゃ』を送ったの。田中先生の奥さん、慢性鼻炎であまり鼻がきかないって聞いてたし、おもちゃを猫にそのまま渡してくれれば、中毒症状くらいにはなって苦しんでくれるかなぁ――なんて思ってた。そしたらなんと、数日後に死んじゃったのよ。まさか、あそこまで上手くいくなんて、びっくり!」

「あなた、最低ね……。とにかく、そんな猫にとって危険な香りをまとったあなたが猫好きで猫を飼っているような人とは思えないし、ワタシの連れてきた犬のぬいぐるみたちに示した可愛がりぶりを見れば、あなたは犬好きの猫嫌い――っていう推理になるのが必然なわけですよ」


 そんな台詞セリフの間も、伊東先生がまた何かやらかすのを防ぎたいのか、じわじわと彼女ににじり寄っていたレオナちゃんだった。が、不意に彼女の瞳が、かっと見開いたのである。

 その視線の先にあったのは、床の上で血を流して倒れる田中先生の姿だった。


 「ううっ……」


 それは、田中先生の口から漏れた、小さなうめき声だった。

 レオナちゃんの瞳は、意識を取り戻して体を動かそうとする彼の姿を捉えたのである。

 そこからのレオナちゃんの動きは、誠に素早かった。そう――例えて言えば、自分の部屋にいるレオナちゃんが、食卓にレオナちゃんの好物が並んだとわかったときの、あの猛ダッシュでリビングにやって来るときのように。

 伊東先生には触れさせないとばかりに、そんな目にもとまらぬ速さで田中先生に駆け寄ったレオナちゃんは、少し持ち上がった田中先生の頭を自身の膝の上に抱きかかえる。


「先生、気付いたの!? でも、頭をケガしてるからあまり動かないで」

「ああ……うん……。あれ……君はもしかして……レオナさん?」


 血のにじむ額を右手で抑え、首を横に振りながら意識朦朧もうろうといった感じの田中先生が言葉を発した。レオナちゃんが、「ええ、先生。お久しぶりです」と答えると、田中先生は力のない笑顔でレオナちゃんに微笑みかけた。

 そんな彼を恨みを込めた目つきで睨む、伊東先生。

 そんな彼女に向かって、肩で息をしながら田中先生が語りだした。


「すまなかった……伊東君。君の話は……薄い意識の中で聞いてたよ。つまりはすべて……説明の足らない……僕のせいだったんだね、申し訳ない……。それに、ラベンダーの成分のことは……知らなかった僕も悪い……」

「な、なによ! 今頃、そんな風に謝られても困るのよ。あなたは、私をからかった。そして、その報いを受けた。それでいいじゃないの」

「からかった……って?」


 田中先生の哀しげな目が、湿り気を帯びる。

 唇を噛んだあと、喉から絞り出すように、こう言った。


「……違うんだ、伊東君。創作って、もちろん、産みの苦しみみたいなものはあるけど……楽しんでこそのもの……だと思うんだ。だけど君は……そのまじめな性格からなのか……あまりにも肩に力が入りすぎていた。……もう十分、画力はあるのに」

「……」

「だから僕は……『このぬいぐるみのように笑って楽しみながら創作したらいいよ』という意味で……その口元を見たらいい、って君に……言ったんだ」

「そ、そんな……。じゃあ、私は一人で勝手に勘違いして、勝手に事件を起こしただけだというの!? そんなの、馬鹿みたいじゃない!」


 わんわんと大声をあげて、伊東先生が泣き崩れる。

 そのとき、ギャラリーの外から、パトカーのサイレンが微かに聴こえた。それは時間とともに近づいてきて、やがてけたたましい音に変わった時点で、建物の直前でぴたりと止まった。


「これで、事件も解決ね……」


 解決という言葉とは裏腹に、レオナちゃんの瞳はとても悲しげだった。

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