5 部屋の残り香と逃走劇

「事件……。そうかもしれないわね。でも、レオナちゃん、もしかしたら、これはただの『夫婦喧嘩』かもしれないのよ」


 『事件』という重たい響きの言葉が部屋全体を押し潰そうとしていることから逃れようとするかのように、カナちゃんがピンクのフレームでできた眼鏡のレンズ越しに鋭い目つきを見せながら、低いトーンの声でそう言った。


「ん? だとしたら、窓から出ていったのは翔先生の奥さんってこと?」


 レオナちゃんが即座に反応する。

 カナちゃんは、首を傾げながら口元をへの字に曲げた。


「ゴメン、レオナちゃん。探偵ではない私には、そこまでわからない。でも、一般的な可能性として、大いにあり得る、ってこと」

「でもカナちゃん、奥さんだったら、玄関から出入りするんじゃない?」

「どうなんだろう……。奥さんであっても、やましいことがあれば、自分の家だって窓から出ていくこともあると思うな」

「うーん……。そうかなあ」


 ブーメランの形にした左手の親指と人差し指を顎に当てながら、頻りと思い悩むレオナちゃん。けれど、そんな風に苦しむご主人様を尻目に、リーバー先輩がそのプラスチック製のつぶらな黒い瞳をキラリ、輝かせたのである。


 ――うわ、やばい。


 背中にビンビン伝わる、ヒヤヒヤ感。

 先輩が張り切って起こすそんな現象は、ボクにとってはとてつもなく嫌な予感にしか結びつかないのだ。


(コーハイ! オレは気付いたぞ)

(な、何をッスか?)


 思ったとおり、先輩はイキイキとして弾んだ声――人間には聞こえない周波数だけど――でボクに話しかけてきた。


(何をって!? そんなことも想像できんのか!)

(えーっ、なんかその言い方、ひどいッス……! 先輩が何を考えたかなんて、ボクにわかるわけない――いやいや、そんなことないッスよ)


 リーバー先輩の眼がつり上がりそうになるのを察知したボクは、あわてて言葉を訂正した。


(えーと、えーと……わかった! さっき窓から出たのが、この家の奥さんってことじゃないスか?)

(全然、違う。この大バカモノォ! そんなことでは、ぬいぐるみ犬探偵の助手として失格だぞ)

(す、すんません、先輩! それなら、いったい何なんスか。全然わかんないッス)

(仕方ない……そこまで言うのなら、教えてやろう)


 きっと今、いわゆる『肉球色の脳細胞』が、リーバー先輩のぎっしりと詰まった綿の中で頻りと働いている瞬間なのだろう。

 でも、「そこ」まで教えて欲しいと願った憶えはない。

 人間には分からない程度の動きで゛にたり顔゛で自慢する先輩を見て少し腹が立ちつつも、小さくうなずき、その答えを教えてもらうことにした。


(それはな……ωオメガだ)

(オメガ!? オメガって、さっきどこかで聞いたような……。で、それがいったい何なんスか?)

(……。コーハイ、今はそれを説明している暇はない。それより、コーハイにやってもらわねばならないことがあるのだ)


 リーバー先輩の視線は、部屋中に散らばる、さまざまな色の水彩絵の具に向いていた。

 それを見たボクの綿とフェルトでできた背筋が、瞬間凍結する。

 しかし、先輩はその冷たさをはるかに上回る(下回る?)氷点下マイナス100度、もしくはこの宇宙でこれ以下に下がることはないという絶対零度の表情で、冷たく言い放ったのだ。(それはもちろん、人間には聞こえない周波数だったが!)


(コーハイ。何色でもいい、そこに落ちている絵の具を、人間には気付かれないように動いて、口の周りに塗れ)

(……はあ? 嫌っスよ。だって、着いた絵の具の色が取れなくなったら、どうするんスか!)

(うるさい! さあ、人間たちがあっちの方を向いてる今がチャンスだ。行け!)

(ぎゃああぁ)


 リーバー先輩が、目にも止まらぬ動きでボクに体当たりした。

 その勢いで弾き出されたボクの体が放物線を描いて宙を舞い、顔から落下してウッディな床にたたきつけられた。その場所には、リーバー先輩が画策したとおり、大量殺ぬいぐるみ犯がまき散らしたに違いない、チューブからむにゅっと飛び出た大量の絵の具でできたカラフルな海があった。

 さすが、抜かりのない先輩である!

 ボクの口の周りには、もう何色なのかすらもわからない――いて言えば虹色の――絵の具がべっとりと塗りつけられたのであった。


(うぎゃあああ!)


 ボクの悲痛な叫びは部屋に響かない。

 純白な綿でできたボクの心の中にのみ、響き渡る。そこは、ぬいぐるみとしての威厳を保たせてもらったのだ。

 しかし、プラスチックの鼻が床にぶつかったときの゛カチリ゛という音だけはどうしようもできなかった。レオナちゃんやカナちゃんの二人が、一斉にボクに注目することになる。


「わあ、大変! レオナちゃん、コーハイ君が絵の具まみれになってるよ!」

「なぬ? ホントだ……。あらま、なんてこと!」


 駆け寄ってボクを介抱しようとする、レオナちゃん。

 ボクの顔を覗き込んだその目が、不意に曇る。


「うわあ、コーハイの口の周りがひどいことに……。これって、ちゃんと色が落ちるのかなあ」

「うん、確かにね……。すべて落ちるのは難しいかも」


(ま、まじッスか! おいおいおい!)


 途端、込み上げて来たのは先輩への怒り。

 しかし、今はその怒りを納め、一端いっぱしのぬいぐるみとして冷静な行動をとらねばならないのだ。

 と、そのときだった。

 ボクを両手で掴んだまま、レオナちゃんの瞳がきらりと光ったのである。

 ってことは、もしかしてその瞳の輝きって――毎度のことながらボクを犠牲にしてまで出したリーバー先輩のヒントが、レオナちゃんに通じたということ?


「あ、そうか……なるほどね。ωオメガってそういうことだったんだね! コーハイ、でかしたよ!!」


 ……やっぱり、そうだった。

 絵の具のことで日本海溝よりも深いところに沈んだボクの気持ちなど、どこ吹く風。キラキラとその大きな瞳を輝かせたレオナちゃんは、少々興奮気味だった。

 でかした、と言われてうれしいようなそうでないような――複雑な気持ちを抱えたボクの口元を心配そうに覗き込みつつ、ピンクの眼鏡フレームに手を添えながら斜め上を見上げたカナちゃんは、


「うーん、どういうことなの? よくわからないわよ、レオナちゃん」


 と、不満げな顔をする。

 でもレオナちゃんは、その質問には答えずに、


「待てよ……。と、いうことは、このお宅の猫ちゃんが死んでしまった訳もわかった気がするわ」


 と呟くと、その円らな瞳を増々まん丸くして、眩しいほどに輝かせたのである。


「なるほどね……。ならば今すぐ、アヤツ・・・に連絡せねばなるまい」


 すぐにスマホを手に取ったレオナちゃんは、恐らくは先ほどの警察関係者に電話をし始めた。その内容は、今大変なことが起きてるから、このマンションにすぐさま駆け付けて欲しい――というものだった。

 電話を切ったレオナちゃんは、カナちゃんに真剣な目を向け、こう言った。


「ごめん、カナちゃん。ここから先は、カナちゃんを連れていけない。もしかしたら、とてつもなく危険な目に遭う可能性があるから――」


 それを聞いたカナちゃんが、怒り出す。

 顔を真っ赤にしているからそうとはわかるものの、あまりに可愛いらしいのでほとんどそうとはわからない感じで、だったが。


「な、なにを言ってるの、レオナちゃん。私たち、同じ女子大生でしょ。これから何か行動を起こすのなら、私も手伝うわ!」

「お願い、カナちゃん! もう少ししたら、警察の山鼻刑事というのがここに来るわ。カナちゃんは、彼にここで起きていたこと、起きたことを説明してあげて欲しいの」

「でも――」

「大丈夫! ワタシには、この子たち――リーバーとコーハイがついているからさッ」


 それを聞いた先輩の眼が、潤んだように見えた。

 きっと感動しているのだろう。

 ボクも感動の涙を流し――などと言いたいところだけど、絵の具で口の周りがベトベトしていたので、それどころではなかった。

 しかし意外なことに、レオナちゃんの言葉はカナちゃんのハートに響いたのである。こっくりと頷いた彼女は、こう言った。


「……わかったわ、レオナちゃん。でも絶対に、無理しないでね」

「うん、そうする!」


 今度は、スマホで連絡を取り始めたレオナちゃん。

 その会話の内容からすれば、どうやらその相手は、先ほどお会いした夕陽ケ丘高校美術部部長のレイカさん、らしかった。「うん、教えてくれてありがとう。それじゃあね!」という言葉のあとに電話を切ったレオナちゃんは、腹に力を込めると、こう言い放った。


「向かうべき場所は、『ぎゃらりーエス』。さあ、行くわよ。リーバー、コーハイ!」


 ボクとリーバー先輩を急いでリュックに詰め込んだレオナちゃんは、親愛なるカナちゃんを部屋に残し、風のようにマンションから飛び出していったのだった。

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