3 すべてがωになる

 その学校は、その名前のとおり、坂を上った先の丘の上にあった。

 バス停から降り立ったレオナちゃんとカナちゃんはが歩き始めると、急にリュックの中の世界が斜めに傾いたのだ。


「うわあ、たった数か月ぶりだけど、なんだかすごく懐かしい気がするよ」


 坂を上り切り、学校の正面玄関らしき場所にたどり着いたレオナちゃんの、感慨深き声がした。


「ほんとだね、レオナちゃん……。まずは職員室で受付してから部室ぶしつかな」

「そうだね……あ、そうか。私たちもう、ここの生徒じゃないから、来客用の通路から受付して入らなきゃならないんだね」


 受付して挨拶をすまし、玄関で履き替えたスリッパの音を鳴らしながら、学校の中を歩いてゆく二人。

 5分ほどたった頃だろうか。

 スライドドアをがらりと開けたレオナちゃんが、「おいっす!」と元気な声をあげる。続いて、カナちゃんが「みんな元気ぃ?」と挨拶した。

 美術部の部室に、二人が着いたということなのだろう。


「うわあ。先輩たち、お久しぶりです!」

「おお、麗華レイカちゃん。よかった、元気そうじゃん。いやあ、それでね……ちょっと例のお店ファンシーショップで変な噂を――」


 と、レオナちゃんが言いかけたときだった。

 何人かいるそのほかの女子高生たちの「キャー」というキンキン声が部室を支配して、会話は中断されてしまったのである。

 それがしばらく続き、レオナちゃんとカナちゃんがようやく席につく。

 すると、ボクらを閉じ込めていたリュックの蓋が空き、明るい光が飛び込んで来るのと同時に、ボクとリーバー先輩は外へと出された。


(へえ……これが部室というものなのか)


 当たり前ながら動いたら大変なので、じっと動かずに部屋を眺め回す。

 さすがのリーバー先輩も緊張しているようで、固まってしまっているようだった。

 そして今、ボクたちが置かれている状況が、わかった。

 大きな木製の作業台のようなものの上にボクらは並んで置かれており、それを取り巻くようにして、大勢の女子高生たちとレオナちゃんとカナちゃんが、椅子に座って話している。その中に、たった1名だけだが、男子生徒がいた。寡黙な感じで、あまりしゃべらない雰囲気の彼を見て、ボクはなんとなく彼を応援したくなった。


「それでさあ……さっき言いかけたことなんだけど、アタシたち、妙な噂をお店で聞いたんだよね」

「妙な噂? それって、もしかして……黒猫のぬいぐるみのことですか?」

「そうそう、それよ。なんか同じようなぬいぐるみをいくつも買ったんだって? ショップのテンチョー、心配してたよ。一体、どういうことなの?」

「それはですね……」


 部室の中の大勢の視線が、現部長のレイカさんに集まった。


「実はそれ、ショウ先生に頼まれたからなんです」

「翔先生? 翔先生が――どうして?」


 翔先生というのは、この美術部の顧問の先生のことだ。

 40歳代の男性で、身長は180センチくらい。流れるようなパーマヘアーにおしゃれな銀色フレームの眼鏡をかけており、普段は美術の授業を担当している。

 ――と、レオナちゃんが高校生だった頃に言っていたのを思い出した。


「それが、よくわからないんです。理由を聞いても言ってくれないし。『申し訳ないが、きちんとお金は渡すから、ぬいぐるみを買ってきてくれるとありがたい』の一点張りで……。結局、全部で六匹、黒猫さんのぬいぐるみを買って先生に渡しました」


 瞬間、どよんと部室内の空気がよどんだ気がした。

 その重みに負けず、カナちゃんが訊ねる。


「翔先生、今、どこにいるの? ならば、私たちが直接聞くわ」

「それが……」


 表情を曇らせた、レイカさん。

 増々澱んで冷たくなる空気に、ふわふわな綿のつまったボクの心まで冷えた気がした。


「実は先生、昨日から学校を休んでるんです。先生たちは体調不良とか言ってるけど、部のSNSメッセージで先生に連絡取ろうとしても、全然、返事がなくて……」


 そのとき、レオナちゃんの探偵魂に火がつ点いた(らしい)。

 鋭い目つきになったレオナちゃんが、まるで刑事が取調室で事情聴取するときのような口調で質問する。


「レイカちゃん、もうちょっと詳しく聞きたいんだけど、いい? ……最近の翔先生の行動とか言動で、気になったことはなかった?」

「うーん……」


 首を少し左に傾けたレイカさんの、レオナちゃんと同じくらい大きくつぶらな瞳が右に傾いた。必死に思い出そうとしているのだ。

 と、急にその目が大きく開き、ぱっと輝いた。


「あ、そういえば……! 何日か前に、先生、妙なことを言ってましたよ」

「妙なこと?」

「ええっとぉ、確か……」


 忙しく動く、レイカさんの表情。

 目を閉じ、人差し指をこめかみへと当てる。


「確かですね……『すべてがωオメガになる』って、言ってました」

「すべてが――ωになる!?」


 驚き、声をあげたのはカナちゃんである。

 そのとき、レオナちゃんが隣にいる後輩の女子に向かって「゛おめが゛って何?」とこっそり訊いていたことを、ボクは見逃さなかった。その女子が「レオナ先輩、あれですよ。ギリシャ文字のオ・メ・ガ」と小声で答えると、「ああ」と言ってレオナちゃんが手をたたく。


「お、オメガよね……ギリシャ文字の。うん、わかってたわよ、当然じゃない! な、なによその、疑いの目は……? まあ、それはそれとして、そのとき翔先生は――」


 レオナちゃんが、再びの質問をレイカさんに始めたときだった。

 部室のスライドドアが、がらりと開いて、まだ20代と思われる若い女性教師らしき人物が入ってきたのだ。


「あら、あなたたちがレオナさんとカナさん? 職員室で、二人の美術部卒業生が来てるって聞いて、駆けつけたのよ」


 灰色のパンツスーツに身を包んだポニーテール姿の彼女の息は、切れていた。

 レオナちゃんが後輩たちに「この女性は誰?」と視線で説明を求めると、部長のレイカちゃんが「先輩たち、会うのは初めてですね。こちらは、この4月から美術部の副顧問をされている、伊東いとう先生です」と紹介した。


「初めまして! 伊東です。あ、もしかしてあなたが伝説のレオナさん!? お会いできてうれしいわ」

「で、でんせつうぅ? ワ、ワタシが??」


 レオナちゃんが、「何をあんたたち吹聴しているのよ」という厳しい目つきをして、後輩たちを見やった。彼女たちが、一斉にレオナちゃんから目をそらす。横を向き、口笛を吹いてごまかす子もいた。なんか、とても昔懐かしい動きである。

 と、ボクのプラスチック製の鼻が、とてもいい匂いをとらえた。伊東先生が、レオナちゃんとカナちゃんに近づくために、ボクとリーバー先輩の目の前を通り過ぎたときのことである。

 ほのかな匂いではあったが、そこは、香りに敏感な犬のぬいぐるみのボクである。すぐにわかった。伊東先生が身に着けている香水か、持ち歩いている何かのグッズ――ハンカチとかかな?――から発しているものだろう。


(これって確か、夏頃に北海道で咲く、あの有名な花の――)


 などと考えていたら、人間には見えない程度の動きで、横にいるリーバー先輩が鼻をクンクンさせているのがわかった。

 きっとリーバー先輩も、いい匂いがしてメロメロになっているに違いない!

 ボクがそう思った、矢先。

 レオナちゃんが伊東先生に待ってましたとばかりに、質問した。


「ところで、先生。翔先生――いえ、田中先生が昨日から学校に来られてないようですけど、なにか事情をご存じですか?」

「いえ……それがね……」


 肩を落とした伊東先生が、胸の下で力無く腕を組んだ。


「それがね……私もよくわからないのよ。『体調不良』ということしか」

「そうなんですか。ほんと、どうしちゃったのかな、翔先生」


 と、ここでボクとリーバー先輩の存在に気が付いた伊東先生。


「うわあぁ! 可愛いね、この子たち。だれの持ち物?」


 先生がいつか女子高生だった頃に出していたような、高音のきゃぴきゃぴ声だった。

 それには冷静に答えた、レオナちゃん。


「あ、それはワタシの子たちです」

「へええ、そうなの。でも私は猫の方が好きだわ。家で飼ってるしね。……あ、でも、気分を悪くしないで。もちろん、犬も大好きよ」

「はあ」


(……)


 リーバー先輩が、人間にはわからないだろうけど、少し渋い顔をした。きっと、犬より猫が好きと言われて、気分を悪くしたのだろう。

 その後、少しみんなで歓談して、伊東先生は職員室へと戻っていった。

 あの、何とも言えない、良い匂いを残して――。


 と、先生が廊下に出ていった5秒後のことだった。

 急に目を細めたレオナちゃんが、腹の底から絞り出したかのような低い唸り声をあげながら、部長のレイカさんに詰め寄ったのだ。


「……で、ワタシの何が伝説になってるっていうの?」

「レオナ先輩……。申し訳ないですが、そこは知らないでいた方が……」

「な、なんですとぉお!」

「まあまあ、レオナちゃん。今はそのことよりも翔先生のこと、心配しようよ!」

「う、うん……そうだね。カナちゃんがそう言うなら、そういうことにしようか」


 怯える現役高校生たちを尻目に、ほっと胸を撫で下ろしたカナちゃんの姿を見逃さなかった、ボクなのであった。

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