1 レオナの帰省

「ただいまー!」


 確かにそれは、数か月ぶりの、゛あの゛声だった。

 本当に久しぶり――そして、待ちに待った声が、夏の夕暮れ時のマンションのリビングルームに響く。

 ここから車で一時間くらいのところにある『空港』という場所に飛行機で降り立ったというレオナちゃんは、ボクやリーバー先輩だったら10匹は入りそうな大きな旅行鞄を引っ提げ、高速道路を行き交う『空港バス』というものに乗って帰ってきた。

 パパさんが言うには、この家の近くにそのバス停があるということだけど……。数日前、パパさんもママさんも仕事のある平日ということもあって、「空港まで迎えに行けないけどゴメン」と電話でレオナちゃんと話していたことを思い出す。

 と、玄関まで迎えに行ったママさんを置き去りにしたレオナちゃんが、リビングルームへと突進してきた。


(わあ、レオナちゃんだ!)


 大学生になってから買ったのだろう、ボクらには見覚えのない、そして可愛らしいブルーのハーフパンツと薄いオレンジ色のトップス(最近の服の言い方って、ぬいぐるみでも難しい)を身にまとった彼女。

 その姿を見たボクたちは、うれしさのあまり飛び跳ねてしまいそうになった。

 けれど、我慢我慢――。

 特にボクの横にいるリーバー先輩なんて、人間には分からないくらいの小さな動きだったけれど、我慢のあまり、フルフルと震えていたほどだった。


「お帰りぃ!」


 今度は、明るいパパさんの声がリビングルームに響く。

 先ほど帰宅したばかりで、着替えもそこそこに缶ビールを開け、ダイニングテーブルでくつろぐパパさんとレオナちゃんの感動の再会――というものが当然起こるものだとばかり期待していたボクたちの目の前で、まったく予期しないことが起きた。

 レオナちゃんの帰省――じゃなかった、レオナちゃんの『奇声』が部屋の壁に乱反射し、盛大にコダマしたのである。


「キーッ!! ちょっとパパ、昨日スマホに来たメッセージは何なの? ワタシが後で見るのを楽しみにしてた本格派ミステリのテレビ番組――『ぬいぐるみは見た』シリーズの第二弾、『ぬいぐるみは見た――ぶっちゃけ、鳥は鳥目なんかじゃない』の犯人が若い女性の獣医さんだとかさ、なんでばらしちゃうわけ!?」


 ――はあ? 帰ってきて、いきなりミステリの話? しかもケンカ腰!


 ずっこけそうになるボクたちを前にして、パパさんは冷静沈着だった。

 嵐のように駆け寄って来るレオナちゃんに対し、パパさんは不敵な笑みを浮かべただけだったのだ。どうやら、こうなることを予期していたものらしい。いつもは抜けたように見える彼も、『カエルの父はやっぱりカエル』といった感じで、意外と名探偵なのである。


「ふっふっふ。やはり、まずはその話から来たか……。まあ、この前の件のお返しだから、これで、お相子あいこだよ。気にするな」

「この前のお返しですってぇ……? ええっと、何のことだろう」


 脚に急ブレーキをかけ、腕を組んで考えるポーズのレオナちゃん。

 だがそれも、ほんの数秒のことだった。

 ポンと手を叩くと、まん丸になったその瞳を輝かせ、こう言った。


「ああ、わかった! GWゴールデンウィーク恒例の映画、『メガネ小学生探偵』シリーズの犯人を近所の和菓子職人だと、ついつい、漏らしてしまったことよね!? だからそれ、もうとっくに謝ったじゃん」


 しかし、パパさんの切れ長の目から、冷たい光が消えることはなかった。


「ふん……甘いぞ、我がむすめよ。あの映画シリーズ、パパが大好きだってことをレオナもよく知っているだろう? それを毎年観ることを楽しみに、日々働いているといっても過言ではないくらいに……な。お蔭で……お蔭で……今年の映画は全然楽しめなかったじゃないかぁ! 本来なら『3ヶ月間、口をきかないの刑』のところを、これくらいで済ませてやったのだ。ありがたく思いたまえ!」

「ぐぬぬぬ。これはしたり。まさかパパが、これほどまでのわからずやだったとは知らなかったわ。この恨み、いつか必ず――」


 と、そこへ割り込んだのは、大きな寿司桶を抱えたママさんだった。


「はいはい。レオナも、もう大人の仲間入りしたんだし、大人げない喧嘩はそれくらいにしといて夕飯にしましょう。今日は奮発して、めっちゃ高いお寿司を出前したんだから!」

「わーい、ありがとう。いっただきまーす!」

「仕方ない……今はママに免じて停戦だ。まずは、特上の寿司を食べようではないか」

「ラジャー(了解)!」


 ぬいぐるみであるが故に、人間の世の移り変わりにはうとい。

 疎いが、この21世紀に「ラジャー」という言葉を使う女子大生の存在が、かなりの稀有であろうことは容易に想像できる。

 まあ、それはともかくとして――。

 北の大地の寿司の力、そして、この家のママさんの調停能力はすごいということも容易に想像できる。あっという間に、大人げない二人の言い争いを治めてしまったのだ。

 ただ……肉好きのわれら犬のぬいぐるみからすれば、こんな大切な日に魚が食卓に上ることが納得はできない。が、家族を一つにまとめたその実力をここまで見せつけられると、「魚」に対して、ぐうの音も出なかった。


 帰省の大きな荷物を自分の部屋に片付け、手洗いとうがいの済んだレオナちゃんがリビングに戻ってくると、本日の夕飯が始まった。

 久しぶりに会うのだから、パパさんもママさんも、レオナちゃんに訊きたいことがたくさんあるのだろうと思いきや、しばらくは、他愛たわいもない会話でお寿司に舌鼓を打っていた家族。

 そんな中、口いっぱいに白身魚の寿司を頬張るパパさんを横目に、ママさんがレオナちゃんに、こうたずねたんだ。


「ところでレオナ、いつまでこっちに居られるの?」

「ひっふうはん(一週間)」


 レオナちゃんは「やっぱエビは蒸しちゃ駄目よね。生に限るわ」とかなんとか言いながらエゾリスのように食べ物をほほにため込んでいたので、ママさんへの返事が、よく聞き取れない言葉になった。

 でももちろん、ボクらはぬいぐるみだから意味は余裕でわかるけど。


「ひ、ひっふうはんだほ?(い、一週間だと?)」


 今度はパパさんが眉間にしわを寄せ、恐らくは先ほどまでマグロの切り身が載っていた米粒を、盛大に飛ばしながら言う。

 ごっくんと口の中のものを一気に飲み込んだパパさんが、続けて何やら必死に訴えた。


「たった一週間なの? じゃあ、家族でどこかにも行けないじゃん! 大学って、9月いっぱいくらい、休みじゃなかったっけ?」

「仕方ないでしょ……バイトもあるし、学校のレポートも残ってるし、ゆっくりしてられないんだって」

「そんなあ……」


 へなへなと力が抜け、がっくりと項垂うなだれたパパさん。

 でも実は、レオナちゃんの言葉を聞いて元気を失くしたのは、パパさんだけではない。もちろん、ママさんもがっかりしていたであろうが、もっともっとがっかりしていたのはボクたちぬいぐるみ――とりわけ、レオナちゃんの帰省を心待ちにしていたであろう、リーバー先輩なのである。

 人間には分からないほどの小さな動きだけれど、口元と先輩自慢の長いしっぽが、地球の重力に負けてしまったかのように、垂れ下がった。


「とりあえず、日々の勉学の疲れを癒すために2、3日は家でごろごろさせてもらって、そのあと、高校に顔を出すつもり。カナちゃんと、会う約束してるんだ」


 カナちゃんとは、レオナちゃんが中学時代に通っていた学習塾で知り合い、そこで起きた事件を一緒に解決した、あの子だ。あのとき、リーバー先輩のせいで少しハゲてしまったボクの頭を、そっと撫でてくれたときの優しい笑顔は、今も忘れることはできない。

 ところで、レオナちゃんとカナちゃんは、その後同じ高校に通うことになり、また、美術部にも一緒に入部したので、レオナちゃんにとって高校生活における最も仲の良い友達の一人となった。

 ちなみに、レオナちゃんは2年生のころ、美術部の副部長でもあったのだ。


「ごろごろって……10代の女子が使う言葉ではないような気もするけど、まあいいわ。ってことは、カナちゃんも帰省中?」

「うん、そう。美術部の副顧問、新しい人になったらしいし、カナちゃんと一緒に美術部に顔出して、後輩たちにも挨拶してこようと思ってるんだ」

「あら、いいわね。行ってらっしゃい……。でも、夕飯の時間までには帰ってくるように」

「はあい」


 まるで抜け殻のようになってしまったパパさんを置き去りにした会話が繰り広げられる中、ボクは先輩のふさふさしっぽが少しだけ勢いを取り戻したのを見た。

 黒いプラスチック製の目はやる気に満ち、口元は元のいたずらっ子のような感じに変化している。


(まさか、リーバー先輩は……)


 ボクは、久しぶりに、背筋が凍る感覚を味わったのであった。


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