7 帰って来たリーバー先輩
夢かもしれない。
というか、夢に違いない。
だって、リーバー先輩はぬいぐるみの掟を破って消えてしまったのだから。いくらあの図々しい先輩とはいえ、そして新しい後輩の姿かたちが先輩にそっくりだからといって、そんな小説みたいに都合のいいことが起こるはずがない。
100%疑いの気持ちを抱えたまま、ボクは前足で自分の耳を引っ張ってみた。
――痛い。
えっ? ……ってことは、これは夢ではないってこと?
本当に? 本当に、本当に?
「も、もしかして……せんぱ……いッスか?」
それを聞いた目の前のゴールデンレトリーバーの子犬のぬいぐるみは、その表情に太々しさをみるみる増していきながら、口元をニヤリとさせた。
「ああ、そのとおりだ。コーハイ、久しぶりだな」
「せーんぱーい!」
夢じゃなかった。
間違いない。その口調と懐かしい雰囲気は、先輩そのものだ。
この前のボクの突進は新しいリーバー君にひょいとかわされてしまったが、今度は先輩にがっしりと両前足で抱きついた。もう……、この世界から逃がさない。
――確かに先輩だ。よかったぁ。
声にならない声で泣きむせぶボクの様子に気付いた他のぬいぐるみたちが集まって来る。怪訝そうに片目を吊り上げながら、ミミが訊いた。
「どうしたのよ、コーハイ」
「先輩が……リーバー先輩が、帰って来てくれたんスよ……」
「え!? どういうこと?」
ボクがしがみついたままのリーバー先輩は身動きが取れない。その先輩の周りを他のぬいぐるみが取り囲む。いつもならとっくに「いいから離れろ」とか言って先輩はボクを突き放しそうだけど、今日だけは違った。流石の先輩も悪い気がしないのか、ボクをそのままにさせている。
「……よう。久しぶりだな、みんな。ぬいぐるみ犬探偵リーバー、只今、“あちら”の世界から帰還したぞ」
「ええーっ、本当に? 嘘でしょ!?」
もうすぐママさんがリビングに現れる時間だというのに、そんなことなど忘れてしまったかのような大騒ぎが始まった。もちろんそれは人間に聴こえない周波数の声だとは判っている。それでもちょっと綿の中の“
「どうして戻って来ることができたの?」
今度はヒツジのメメが、元々丸い眼をさらに丸くして訊いた。
その眼の中心には、「まだシンジラレナイ」という気持ちが前面に出ている。他のぬいぐるみも彼女に同意して激しく頷く。
ゆっくりボクを体から引き剥がした先輩が、その短い首を傾げながら言う。
「うーん……正直言って、よく分からないんだ。でも、皆が必死に俺のことを忘れないでいてくれたこと、これが大きいのではないかと思ってる。あっちの世界でも、みんなの思いというか“念”みたいなものをひしひしと感じたからな……。
次にレオナちゃんの驚異的なフィーリングというか、特殊センスだな。人間だと記憶はきれいさっぱり消えるはずなのに、心の片隅に俺を憶えててくれたのか、少ないお小遣いをはたいてファンシーショップで見かけた俺を、迷いなく買ってくれたんだよ。
そして最後に、窓の外にいた猫さんたちの不思議な力だ。猫という夜行性の生命体と“月”という天体の関係は特別なのだろうな。
……こういういくつかの力が良い感じで絡まって、俺は復活できたと推理する」
一気に、先輩が自分の推理をまくし立てた。
もうここまで来れば、目の前の子犬のぬいぐるみがリーバー先輩だと、皆も納得せねばなるまい。
「その懐かしい、推理するときの口調……。どうやら本当にリーバーが戻って来たみたいね」
ついにリーダーのぬいぐるみ、ミミの墨付きとなった。今まで懐疑的な眼をしていた他のぬいぐるみも、喜び勇んで騒ぎ出す。
暫くの時間、旧交を温めるように一緒に駆けまわったり、輪になって語り合ったり……。とにかく底抜けに楽しく時間を過ごした。
が、もうすぐ夜明けの時間、となったとき。
先輩は、やはりぬいぐるみ犬探偵だった。こんな奇跡的な場面においても、冷静な判断力を失うことはなかったのである。
「おいおい、みんな騒ぎすぎだぜ。嬉しいけどな……。あ、いや、何でもない。とにかくもう朝になる。みんな、所定の場所に戻った方がいい」
「それもそうね」
「うん、そうだね。もう元の場所に戻った方がいいぞ!」
ギンの掛け声とともに、楽しかった時間を惜しむようにそれぞれの場所へと戻ったぬいぐるみたち。
ボクも自分の所定の場所へ移動しようとした、そのときだった。
本当のところは未だ綿の心臓のドキドキが止まらないボクの耳元で、ひょこっとボクの真横にやって来た先輩がこっそり呟いたのだ。
「コーハイ……。そういうことだから、今日の夕方に作戦決行な」
「作戦? 夕方? そういうことって――どういうことッスか!?」
先輩が得意としている不意の先制パンチに、ボクの頭が混乱した。
けれどなんというか、心地よい混乱とも言えた。久しぶりでもあったし。
「詳しいことはまた後で話すから。“違和感”の正体をもう一度確かめてからじゃないと、詳細な作戦は立てられないからな……。とにかく、あとでよろしく」
「あ、はい……了解ッス」
リビングの床を颯爽と走り出した先輩の、ふんわりとした背中が見えた。
うれしい気持が半分、嫌な予感が半分――複雑な感情が交錯する。
でもだからと言って、いつまでもここに立ち止まってはいられないのだ。
だいぶ勢いの増した朝陽の日射エネルギーをフェルトの肌に感じながら、ひとまず自分のいるべき場所へとボクは走って戻ることにした。
★
夕方になる。
昨日自分が連れて来たぬいぐるみのことが気になったのか、珍しくママさんよりも早くに今日はレオナちゃんが帰宅した。
ぱたぱたと聞き慣れた足音を伴って、レオナちゃんがリビングへと姿を現す。
今日は、進学塾に行く日のはず。いつもなら帰宅途中に塾に寄るのだけれど、今日は一旦、家に戻ったということなのだろう。
「やあ、コーハイの後輩君、元気?」
そう言ってにこやかに笑ったレオナちゃんだったが、リーバー先輩の姿を見た瞬間、その目がとろんとなる。
そう……おとぎ話の中の魔法をかけられた少女のように。
「あれ、おっかしいな……? 後輩だと思ってたリーバーが、なんだか急にコーハイの先輩なような気がしてきたよ。よく分かんないけど、リーバーはコーハイの先輩ってことにしようかな。その方が話はややこしくないしね……。うん、そうしよう!」
ボクと先輩の関係は、元の鞘に収まりそうだった。
だがそのときのボクにとっては、リーバー先輩と昼間にやり取りした会話――いや、命令と言った方がいいかも――が頭を離れなかったのである。
それは、今朝になって家の皆さんが外に出払った後、リーバー先輩とともにパパさんの書斎に入って念入りな調査を行っていたときのことだ。
リーバー先輩が本棚から一冊の本を取り出し、本棚の前の床上にそれを置いた。そして、とあるページを開くと、そのページの一部をちょんちょんと黒い鼻先を使って指し示しながら、いつもの命令口調でこう言ったのだ。
「いいか、コーハイ。レオナちゃんが帰ってきたら、お前はパパさんの本棚の一番上からダイビングして、この本の上にできるだけ大きな音を立てて落ちるんだ。それから、うまい具合にこの“赤丸がついた部分”を鼻先で指し示せ」
「“うまい具合に”って、そんな……。い、嫌ッスよ。そんな高いとこから落ちたら痛いし、衝撃が大きす過ぎたら、縫い目が目がほどけて中から綿が飛び出ちゃうかも知れないッスもん!」
「うるさい、文句を言うな! お前は探偵助手なんだぞ。そのくらいの危険を冒すのは、当然だろう」
「え? そんなもんスかねぇ……」
「そんなもんだ」
――始まったよ、崖から突き落とす獅子の教えが。子犬のくせに。
すっかり、ぬいぐるみ犬探偵に戻っている先輩。
そのことそれ自体は、嬉しい。心からそう思う。思うけど、はっきり言って、今ままでこういうときの先輩の指示に従って
――やっぱり、嫌な予感しかしない。
そして、たった今だ。
リーバー先輩から、人の目には見えないほど素早い目配せにより、ボクに合図が送られたのである。京都に行ったことはないが、
――うわあああ!
人間からしてみれば、声にならない魂の叫び。
そしてボクの落下した先には、打ち合わせ通り、あらかじめ広げられた本があった。
ぽてっ!
ボクは約100グラムの全体重を使い、ボクを構成する部品としては最も硬いプラスチックの鼻を、本にわざと当てた。そうすることで、なんとか先輩の指示を守り、音を立てながら着地することに成功したのである。
……だが一応、断っておく。
人間には、ただふんわりと落ちたようにしか見えないのかもしれないが、予想通り、中から綿の心臓が飛び出してしまうかと思うくらい痛かった。
本に無理矢理当てた鼻もヒリヒリしたが、問題は右の耳だった。
右耳の縫い目が、緩んでしまったらしいのだ。人間でいえば、酷い裂け傷――
ビビビとまるで雷に打たれたような鋭い耳の痛みが、ボクを襲う……。
それでも人間に聞こえる声を出さないよう、必死に堪えたボク。
痛みに耐えつつも考えてみれば、いちいち高い所からぬいぐるみであるボクが落ちる必要はなかったような気もするんだ。本を本棚から突き落として気付かせる、とかね。
やはり先輩は鬼――いや、百獣の王だった。
「ん? 今、なんか音がした?」
作戦の甲斐あって、レオナちゃんがボクのいる所に近づいてきた。
良かった。レオナちゃんにはちゃんと聞こえたのだ。
――ボクの決死のダイビング音が!
「あれ、そこに落ちているのはコーハイじゃない? 本も落ちてる……。一体、どういうこと……? あ、そうか。パパがまた勝手に本棚にコーハイを置いて、その置き方が悪かったものだから本と一緒に落ちてしまったのね、きっと!」
勝手にそう合点したレオナちゃんが、ボクを拾い上げようと手を差し出す。
が、その瞬間、背中にビリリと電気が走ったようなそんな顔をして、レオナちゃんが体の動きを止めたのである。
「待って……。こんな本、ウチにあったっけ? それに、コーハイ君の鼻先にある赤丸って――。そうか、わかったわよ、この事件の謎のすべてが! お手柄ね、コーハイ君!!」
冷たい本の上で横たわるボクをそのままに、レオナちゃんが自分の携帯電話で何処かへ電話をし始めた。
あの様子だと、先輩の思いは彼女に通じたらしい。
既に謎が解決済みのぬいぐるみ犬探偵から、謎解きのヒントが伝わった――という言い方のほうが適切なのかもしれないが。
電話を終えたレオナちゃんが、鼻息を荒くして書斎から消えた。
残念だけど……ボクのことは忘れちゃったらしい。
ようやく耳の付け根の痛みが収まりかけた頃。
空しく本の上で横向きになったままのボクは、レオナちゃんには聞こえないよう、リーバー先輩に話しかけた。
「先輩、これってどういうことッスか」
「ふん……今にわかる。今にな」
あの懐かしい、ひねくれた笑顔をボクに思う存分見せつけた先輩は、それっきりこの件について話してくれることはなかった。
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