4 リーバー先輩のいない世界

 ただただ辛く、寂しい日々の繰り返し。

 先輩を失ってからというもの、ボクの気持ちは寄せては返す波のような、そんな不安定な感情の起伏の中で泳いでいた。

 海に行ったことがないので本当は波を見たことはないのだけれど……。

 簡単に言うと、何をやっても気持ちが入らない。

 というか、“綿のハート”そのものを引きちぎられてしまったかのような、そんな感じといった方が正確なのかも知れない。先輩との日々が、人間の世界で使い古された表現で申し訳ないけれど、走馬灯のようによみがえる。


 「俺の背後に立つな」とまるで某殺し屋のようなことを言ってボクをしかりつける先輩――、ぬいぐるみのみんなで順番に乗ろうねと決めたのに動き回るロボット掃除機“ルンちゃん”の上をずっと独り占めして得意顔の先輩――、本棚のスペースにボクも一緒に登りたいと言っても「絶対来るな」と許してくれなかった先輩――。


 そう……何故か思い出されるのは、リーバー先輩のなんとも憎たらしい記憶ばかりだった。でもそれが先輩という存在なのだろう。

 そんな記憶でさえ、今となっては愛おしく感じる。


 ぬいぐるみの掟を破ったものは、この世から消える――。

 これは我々ぬいぐるみにとって、唯一絶対の事柄である。

 消えるのは存在だけではない。記憶からも抹殺されることになるのだ。人間たちは瞬間的に記憶がなくなってしまうけれど、ボクたちぬいぐるみは違うらしい。

 徐々に記憶が薄れていく、といった感じだ。


 とはいえ、たったの三日。

 あれからたった三日しか経っていないのだ。

 そんなぬいぐるみの寿命の長さから考えてもほんの短い期間なのに、その間ボクらは、自分の記憶と戦っていた。


「さっき、どうしてもリーバーの顔が思い浮かばなかったわ……。頭を壁にぶつけてみたらなんとか思い出せたけど」


 レオナちゃんたちが寝静まった後のリビングで深刻そうな顔でボクにそう言って話しかけてきたのは、この家のぬいぐるみで一番古株のウサギのミミだった。

 だがその直後、ボクはとんでもない衝撃的な言葉を聞くことになる。


「え? リーバーって誰?」


 それまでリビングを楽し気に走り回っていたペンギンのギンが、こちらに振り向きざまに言ったのだ。ボクの怒りが100℃の沸点を通り越し、エベレストの頂きほどの高さに達した。もちろんエベレストなど登ったことはないのだけれど……。


「何言ってんスか、ギン。リーバー先輩ッスよ! ついこの前まで一緒に遊んでたんじゃないスか。ゴールデンレトリーバーのぬいぐるみで偉大な名探偵、リーバー先輩を思い出せないなんて、酷いッス!」

「あ、そうか、そうだったね……。ごめん……危うく忘れそうになった」


 しょぼんと沈むギンをボクは思いっきり睨みつけた。

 でも本当の事を言えば、そうやってギンを罵倒している間にもボクの記憶は薄れゆく一方なのだ。他人ひとの事なんて言えやしない。あれからたった三日しか経っていないのに、先輩の顔もぼんやりとしか思い出せないときなどは自分に愕然としてしまう。あんなに生意気だった顔つきを思い出せないなんて!

 どうやらほかのぬいぐるみたちの記憶の状態も、同じようなものだった。

 自信がなくなってきたらしく、誰もギンを責めようとはしないのだ。そんなみんなの姿勢に、ボクは再び苛立った。


「もういいッス! みんな、先輩のことなんか忘れてしまえばいいんスよ!」


 リビングを抜け出し、いつも先輩が一人の時間を過ごしていたパパさんの書棚へと向かう。もうすっかり、空き巣が入ったことなど嘘のように、部屋は以前と全く同じ状態に整理されていた。

 本棚へと向かっている間、飛び散りそうになる涙は生地の奥底に押し戻した。フローリングの床に、ボクの涙を振り撒く訳にはいかないから。

 でも、にじむ涙で視界がかすむのはどうしようもない――。

 ぼやけた視界とどうにも力の入らない四本足とでふらつきながらも、ボクはぴょんぴょんと崖を登るように本棚を駆け上った。

 目指す場所はもちろん本棚の一番上。

 先輩がいつも佇んでいた、ぬいぐるみ一体がすっぽりと入る程度の広さがあるスペースなのだ。


 ――ちょっと窮屈だな……。先輩、よくこんな狭い所にいつもいたもんだ。


 薄れかけた記憶が不意に鮮明によみがえった。

 先輩はどうしていつもこの場所に居るとき、ボクがそばに寄るのを頑なに拒んだんだろう……。この場所には何か、その秘密を解く鍵があるのではないかと辺りを何度も見回してみる。でも悲しいかな――“肉球色の脳細胞”を持たないボクの頭脳では、すぐにその謎を解くことはできなかった。


 ――とにかく今晩は先輩のことを忘れないよう、ずっとここにいよう。


 思考を中断して、体を丸める。

 すると、ボクの左前足が横に立てかけてあった本にぶつかってしまったのだ。

 こちら側に向かって倒れこもうとするその本は、ボクの前足の太さの二倍ほども厚みがある、表紙に『北海道の歴史』と書かれた本だった。


「うわ、やばッ」


 本が倒れ、音を立てたらマズイ。

 ボクはその分厚く重い本を、ボクの体で一番固い部分でああろうプラスチックでできた“鼻”で押して、元の角度へと戻した。すると今度は、あろうことかボクの短い尻尾が反対側の本に触れてしまったのだ。


 ――あちゃあ。


 それはリーバー先輩との捜査の時にも確認した、この街の観光案内の薄い本だった。

 雑誌程度の厚さなので、これが倒れてきたとしてもそんなに大げさな音が立つことはないはずだ。しかも幸運なことに、その本は少し傾いただけで、それ以上倒れて来ることはこなかったのである。

 観光案内は、前足一本程度の力で、すぐに元通りに戻せた。


 ――ふうう。


 ようやく、落ちついて推理ができそうだ。

 本棚の最上階で丸まりながら、先輩の温もりとフェルトの臭いを必死に思い出そうとした。そうすればリーバー先輩の知性にあやかり、何か思いつくかもしれないじゃないか。

 でも結局、何も思いつかなかった。

 空き巣の謎も、先輩がボクがここに来るのを拒んだ訳も――。


「先輩……」


 朝方近くまでそこで時間を潰し、とぼとぼとリビングに戻る。

 するとそこには、ボクの顔色を不安げに見つめるぬいぐるみたちの姿が並んでいた。きっとずっと心配して、ボクの帰りを待っていてくれたんだろう。


「大丈夫? コーハイ」

「な、なにが? もちろん、大丈夫ッスよ」


 ミミのボクへの問いかけに同意するように、皆がこくりと頷いた。

 そのたくさんの円らな瞳には、純粋なボクへの心配な気持ちがありありと浮かんでいる。だけど……却ってボクにはそれが鼻についたのだ。プラスチックの、この黒い鼻に!

 精一杯の強がりを言ってしまったボクに、ミミが溜息を洩らしつつ言葉を続ける。


「それならいいんだけど……。探偵だったリーバーのいない今、空き巣事件だってまだ解決していないみたいだし、頼れるのは探偵助手のアンタだけなんだからさ……お願いね」

「分かってるッス! でも、今はほっといて欲しいッス!」

「ああ、そう……。うん、わかったわ」


 そうだ。そうなのだ。

 リーバー先輩の決死の行動もあって一度は撃退したものの、もう一度空き巣がここにやってくる可能性は高い。そのくらいの推理ならボクにだってできる。このボクに、空き巣と戦う力などあるのだろうか……?


 でも、ここで意気消沈などしている暇はないのだ。

 心を奮い立たせねば!

 そう思ってみても、震えるのはフェルトの柔らかい体ばかりだった。ボクの意思とは関係なく、勝手に震えてしまう。


「……」


 ボクは一匹ひとり、テーブルの上へと駆け上った。

 窓のカーテンの隙間から、先輩といつも一緒に眺めていた“蒼い月”が見える。

 そのとき何故か、不意に体中に力がみなぎって来るのを感じた。もしかしたら先輩は今、あの月に居てボクに力を送ってくれてるのかもしれない。


 ――先輩亡き今、このボクがこの家とみんなを守る。守ってみせる!


 蒼く輝く月に向かい、ボクは空き巣との闘いの勝利を固く誓ったのだった。

 この、純白の綿の心にかけて――。

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