3 不気味なコアラ

 コーがこの家にやって来て迎えた、次の朝。

 つまり今朝は、本当に大変だった。何せ、ママさんがレオナちゃんのお弁当をつくりにキッチンへとやって来た途端に、彼女の壮絶な悲鳴が部屋にとどろいたのだから!


「ぎゃっ、冷たいッ! どうしてこの子、こんなところで凍ってるの?」


 ママさんは、いきなり冷たくなったギンを踏んづけてしまったようだ。

 即座にカチコチになったぬいぐるみペンギンを風呂場の方へと持ち運ぶ。そして、「大変だあ」と声を張りあげ、パパさんとレオナちゃんを起こしにかかった。


「なあに……ママ? 何があったの?」


 多分、まだパジャマ姿のレオナちゃんが「ふああ」と大あくびで部屋から出てきた。


「ちょっと見てよ、レオナ! この青いペンギンの子、冷蔵庫の前で凍って落ちてたのよ! それにちょっと廊下も湿ってるような気がするし……。一体、どういうことなのかしら?」


 ボクたちがいる場所からは良く見えないのだけれど、どうやらママさんは風呂場のマットの上にギンを置いてレオナちゃんに説明しているらしい。


「え、ギンが凍ってた? どうしてこんなことに……。ママが知らないのなら、残りはたった一人、こんなことしたのはパパ以外にはないわねっ。そういえば前にも、ギンがべちゃべちゃになったことがあったような……。ワタシの大事なぬいぐるみたちを粗末に扱うなんて、許せない。もう、今日という今日はとっちめてやらなきゃ!」


 昨日帰国したばかりでお疲れのところのレオナちゃんが、朝から俄然、鼻息を荒くした。

 とそこへ、飛んで火にいる夏の虫の如く現れたのはパパさんだった。


「ん? どおしたぁ?」


 恐らくは寝ぼけまなこのままぼさぼさの髪の毛を掻き掻きやって来たパパさんが、レオナちゃんの格好の餌食えじきとなる。


「ちょっとぉ、パパなんでしょ? 昨日の夜、酔っぱらってこんな悪戯いたずらしたのは! ギンを冷蔵庫で凍らせておいて朝にこっそり起きて床に置き、驚かそうとしたってわけ? そんなの、ちっとも驚かないわよ。これで二度目め……もう、許さないんだから!」

「え、ナニナニ? パパは何の事だか全然わからないんだけど……。昨日はそんなに酔っ払ってもいないし、今起きたばかりだし――って、うわっ、パパは無実だぁ。ぐえぇ!」


 その様子はここからは見えない。

 見えないが、レオナちゃんがぎゅうぎゅうと青い縦じまパジャマの襟元を力任せに絞り上げている音が、ここまで聞こえてきた。


(レオナちゃん……)


 大好きな我らがあるじではあるが、レオナちゃんのすさまじい勢いにこのときばかりは皆揃って背筋を寒くしたようだった。ボクらぬいぐるみの事で怒ってくれるのはすごくうれしいのだけれど……。

 そんなギスギスした雰囲気をぶち壊すかのように、急にママさんがくすくすと笑いだす。


「まるで、ペンギンが凍死したみたいよね。南極の寒さにも耐えるペンギンが……。ぬいぐるみとはいえ、なんか可笑しいわ!」

「ちょっとぉ……ママ、笑ってないで助けてよ! だから、パパは何にもしてないんだって。きっと、ぬいぐるみが勝手に歩いてきたんだな。うん、そうに違いない!」

「ああ? そんなわけないじゃん! 天下のJKを馬鹿にしてんの?」

「いや、そんなことないけど――って、うっぎゃあぁぁ」


 ギクリ。


 ボクたちはパパさんの台詞せりふに、ギンほどではないにしても、一瞬体が凍りついた思いだった。いや、“肝を冷やした”を通り越し、“肝を凍らせた”というべきか。

 もしも掟を破って人間に動くところを見られてしまったなら、この世界とは別の “ぬいぐるみ世界”に移されてしまうとともに、人間やぬいぐるみ仲間の中にあったそのぬいぐるみに関する記憶が消えてしまう――なんてことになるらしいからだ。


(パパさん……すまない。この場を丸く収めるために、ここはひとつ犯人ということでよろしく)


 人間には聞こえないテレパシーのような声で、そう先輩が囁いた。

 他のぬいぐるみたちは、人間にはわからないほどの小さな動きで黙って頷く。

 そのときママさんが、パン、と勢いよく両手を叩いた。


「さあさあ、レオナ。ぬいぐるみにいたずらをするという罪深きパパだけど、もうそろそろ許してあげなさいな。心の広い女はね、いつまでも子どもじみた男を許すくらいの大きな度量も必要なのよ、世界平和のためにはね……。それに」

「それに?」

「それに、もうそろそろ二人とも朝の支度を始めないと遅刻しちゃう気がするし」

「わあっ、大変だ」

「どわわっ、遅刻したらパパのせいだからねッ!」


 ちょっと慌て気味だったが、いつもの朝のように三人の家族が動き出す。

 とりあえず哀れなパパさんの犠牲によりこの場が収まったことに、ほっと胸を撫で下ろした。

 その後、出勤前のママさんによって再びドライヤーで乾かされたギンは復活し、ボクらの“定位置”に、そっと戻されたのだった。


  ★


「し、死ぬかと思ったんだぞ」


 最後のママさんも出勤して部屋に誰もいなくなった途端、青ペンギンのギンが呟いた。


「いや、実際死んでたな。あのときは」


 小声のリーバー先輩のツッコミは、ギンには届かなかった。

 とにかくすぐに遊びまわりたいギンは、真っ先に床に飛び降りようとした。そんなギンの動きを、ミミの冷徹な響きの言葉が止めさせる。


「ちょっと、待ちなさいよ、ギン」

「な、なんなんだぞ」


 ピンと伸びたミミの茶色く長い左耳が、かくんと折れて青いギンの体を指した。“左耳利き”のミミが時々やる、耳を使った命令方法だ。

 いつもならそんな命令など無視して遊ぼうとするギン。

 だが今日は、まだ体の芯まで乾ききっていないためか重そうな体を持て余し気味にして、棚の上でじっとしている。


「ちょっとアンタ……。どうしてあんなことになったのか、説明しなさいよ。私たちみんな、心配したんだからね」

「そうよ、そのとおりよ」

「そうだ……そうだ……」


 ピンクのもこもこの毛並みををふわっと揺らしながら頷くメメと、黒いつぶらな瞳をうるうるさせてゆっくりと頷く、カメ。

 おっとりした二体のぬいぐるみの奇妙な圧力に圧倒されたギンは、仕方なくその短い腕で頭をすりすり擦ると、こう答えた。


「いやあ……オイラの中の綿が一度凍ってしまったからかな。よく憶えてないんだぞ。

 廊下を走り回ってたら、不意に魚の良い臭いがしてきて夢中でそっちに向かったんだぞ。匂いは冷凍室のあたりからしてたと思う。オイラが行ったとき、冷凍室の抽斗ひきだしが既に開いてたのか、それとも自分で開けたのかは……よくわからないぞ。

 でも、抽斗の上に登ったのは憶えてる。そのとき“固いもの”で背中を押されたような気がするんだけど……。まあ、とにかく……抽斗の中に落ちてしまったオイラは、そのまま気を失ってしまったという訳なんだぞ!」

「ふうん……あんたも懲りない奴ね。前にも魚の匂いに誘われて酷い目に遭ったくせに」


 皆の目線がミミに集中した。「それをやったのは、あなたでしょ」という意味の視線が、ミミの体にたくさん突き刺さった。

 が、ただ一匹コーだけは、静かな面持ちで皆を眺めている。


「ということは……リーバー、ここはアンタの出番ということになるわね。事件なのか事故なのかよくわからないけど、とにかく今回の件の事実解明は、“ぬいぐるみ犬探偵”であるアンタに任せるわ」

「ああ、わかった」


 ミミは灰色の毛並みのぬいぐるみのコーに一瞥を与えた後、棚から飛び降りて部屋の奥へと消えて行った。ギンとメメとカメもそれに続く。

 あとに残されたボクとリーバー先輩が、横でじっと佇むコーに視線を向けた。


「……」


 それでも沈黙を守る、コー。

 そこでようやくボクたちの視線を感じたのか、コーがボクらの方を見た。それに負けじとリーバー先輩が、コーが手にする黒い木製のブーメランをじっと見入る。


「……確かに今回の件は、ギンが魚の臭いに導かれて勝手に冷凍室に落ちた事故とも考えられる。だがオレたちが見つけたとき、冷凍室の抽斗はきちんと閉まっていたのだ。

 ギンが落ちたはずみで抽斗が閉まったとも考えられなくはない。なくはないが、たった150グラム程度のギンが落ちて、あの重たい抽斗が簡単に閉まったりするだろうか……やっぱり、事件の匂いがするな」

「けど先輩、証拠がないッスよね」

「そうだ、コーハイ。そのとおりだ」


 リーバー先輩が、珍しくお手上げというような顔をして、ぽそりと言った。

 と、棚から見える窓の外を、二つの影が素早い動きで通り過ぎて行った。あまりの早い動きでよくは見えなかったけど、ボクにはその影に耳としっぽが付いていたように思えた。


「ん? 今、窓の外を通ったのは……何スかね?」

「さあな。どうなんだろうな」


 思索に忙しいらしい先輩が、珍しく生返事した。

 ボクの疑問に、まともには答えてはくれなかったのである。

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