2 ペンギンの凍死
コアラのぬいぐるみ、コーが家にやって来た日の晩のことだった。
高校二年にもなると夜更かしすることが多くなったレオナちゃんだけど、さすがに今日ばかりは早く寝たようだ。それを無事に見届けたパパさんとママさんも、テーブルを挟んで談笑した後に、リビングを離れて就寝した。
照明の落とされた真っ暗なリビングは、物音ひとつしない。
ということは、今はまさにぬいぐるみの時間となったのだ。
ぬいぐるみが自由に動き回り、楽しめる時間に。
今までじっとしていたためにカチンと固くなってしまった綿の体をほぐしながら、ボクらは棚の上から床の上に、ぴょんぴょんと飛び降りたのである。
「さあ、アンタも降りてきなさい。ここでの“掟”を教えるから!」
新人のコーにそう命令したのは、やっぱりここのリーダーを自負するウサギのミミだった。
ちなみに、ボクたちは人間みたいに普通にしゃべることもできるけれど、人間には聞こえない、いわば「テレパシー」みたいな声も出すことができる。
棚を見上げると、まだそこにコーだけがじっとしたまま残っていた。
ギンもメメもカメも心配そうに外国出身のコアラのぬいぐるみを見つめている。ただ、リーバー先輩だけは何故かふてくされた顔をして、横の白壁に見入っていた。
「ちょっとそこのコアラ! 降りて来ない気なの? フン……まあ、いいわ。じゃあ、我々ぬいぐるみの守るべき掟を私たちだけで宣誓しておくから!」
『人間に頼ってはいけない!』
『人間に動くところを見られてはいけない!』
『人間と話してはいけない!』
普段ならこのあと、各自で好きな場所へと散らばっていく訳である。
だが、今日は少し様子が違った。
「コー、わかった? これからは毎日一緒にこれを宣誓して、それから自由行動だからね!」
「…………」
大きな黒目をこちらに向けたまま、相も変わらず無反応なコアラ。
そんなぬいぐるみに、ウサギがイラつき出す。
「ふん、いつまでもそうやって黙ってなさいよ! じゃあ、ワタシは行くからね!」
ミミがコーに背中を向け、いつも遊んでいるお気に入りのソファーへと歩き出す。それを見たメメとカメも、ゆっくりと彼女の後を追った。
「まだコーはここに来たばかりで不安なのよ。もう少し優しくしてあげられないの、ミミ?」
そのモコモコの毛と同じぐらいふわふわな声で、メメがミミに話しかけた。
「もう、充分優しくしたわよ。あとは彼がどうこちらに馴染んで近づいて来るかだわ……。だけど、あの細長くて黒い武器を常に持ち歩いてるってのは、どうなのかしら?」
「ああ……あれはブーメランっていってね、オーストラリアの先住民族が使っていたということで有名なのよ。柄に刻まれた白い線の不思議な紋様も、かの民族が好んだ紋様でね……。だからオーストラリア出身の彼があれを持ち歩いているのは、仕方ないことね」
「ブーメラン? 紋様? ふーん……妙にメメはコーに理解があるわね」
「そんなことは……ないけど」
「……まあ……そのうち……打ち解けるさ……同じ……ぬいぐるみ……だもの」
カメが、その歩みと同じスピードで言葉を並べた。
「アイツ、カメと同じくらいのんびりな動きしてるよね……。カメなら、アイツと気が合うかも。会話は弾まなさそうだけどさ……。あ、そうだ!」
急に何かを思いついたらしいミミが、ボクと先輩のいる方向に振り向いた。
「コーハイ! アンタ、あのコーの教育係をやりなさい! 頼んだわよっ」
「えーっ、ボクがっスか? っていうか、何を教えればいいんスか?」
「そんなの、自分で考えてよ。とにかく、コーはこの家のことなんにも知らないんだから、色々と説明してあげなさい」
「ええーっ!!」
急に無茶ブリされた形のボク。
教えるったって、何にも反応のない相手では教えようがないではないか……。
ボクの悲鳴にも似た叫びは、ウサギの長い耳の中にまでは届かなかった。ミミは、その後一度もこちらを振り返ることもなく、いつものお気に入りの場である白いソファーの上にどっかと座り込んだのである。
「ふふっ。仕事ができて良かったな、コーハイ」
「ぜんっぜん、良くないッス。先輩も、少し手伝ってくださいッスよっ」
リーバー先輩は、ただニヤリと口を横に広げただけで返事をしてはくれなかった。
その代わりにふかふかの茶色い耳をぱたぱたさせ、コーをじっと見る。
「しかしアイツ……常に木製ブーメランを持ち歩くとは、危ないヤツかもしれんな」
「……」
先輩の瞳から発したエネルギー的なものを感じたのか、コーは目線を変え、視線を先輩に向けた。じっと視線をぶつかり合わせた、二体のぬいぐるみ。
(一体、これからどうなっちゃうんだろう……)
泣きたい気持ちを必死にこらえ、コーの教育係として何をすればいいのかと頭の中でぐるぐると思考を巡らせてばかりの、ボクなのであった。
★
そうしてボクが無理矢理コーの教育係に就任してから、数時間が経った。
無愛想な性格なのか、人見知りな性格なのか――。
未だにキャラのよくわからない、コー。
だが棚にじっとしていることはなく、ゆっくりとマイペースで床に降り立ったコーは、ひとり部屋のあちこちを探検して回っていた。
歩くスピードがのんびりなので、どうしても彼の姿が目に入る。
たまにボクの視線を横切る彼に、教育係としてボクは何度も話しかけてみた。が、コーはちっともボクとはうち解けず、会話すらしてくれないのだ。
まだ初日ながら、そんな彼に正直ボクは、少し嫌気がさし始めていた。
はあぁ……。
コミュニケーションが取れないって人間世界の話だけだと思っていたけど、ぬいぐるみ世界にもあるとは初めて知った。
ボクの吐いた溜め息の先にある、部屋のガラス窓。
気が付けば、先程まで注いでいた蒼い月の光にとって代わり、朝起きたてのまだ目の覚め切らない女子高生の寝癖の如く、淡い紫色がかった太陽が虚しく自己主張している。
ということは、あと数十分もたてばママさんが起床する時間なのだ!
ママさんがリビングへとやって来る前に、ボクらは元居た棚の場所に戻らなければならないのである。
「先輩、コーの教育係なんてボクにはできないッス」
「まあまあ……。そう言わず、もう少し我慢強くやってみろ――って、あれ? そういえば、あのギンのいつも騒がしい声がちょっと前から聞こえなくなった気がしないか?」
「ああ……。そういえば、そうッスね」
ペンギンのくせに
少し心配になったボクと先輩は、やんちゃな青ペンギンのぬいぐるみの姿を捜し始めた。
と、どうやら同じことに気付いたらしいミミや、メメ、そしてカメの三匹のぬいぐるみたちも部屋のあちこちを捜し回っていた。もうすぐママさんが起き出してくる時間だというのに、ギンの捜索活動はいつの間にやら大掛りなものになっていたのである。
と、ボクがそれほど高くはない鼻をひくひくさせて、こう言った。
「そういえば、なんか魚の臭いがしないッスか?」
「!」
こう見えて、ボクらぬいぐるみの嗅覚は本当の犬並みに鋭いのである。
臭いのするその先を、クンクンと鼻を働かせながらたどって来たボクらは、キッチンの冷蔵庫の前にいた。
見ると、無造作にラップに
ラップは剥がれかけており、魚の身の一部が空気に触れている状態だった。
「もしかして……」
顔を青くしたボクらぬいぐるみが、急いで冷蔵庫の一番下の
すると無残にも冷凍室の底に
当然、そんな状態ではぬいぐるみとはいえど命が助かっているはずもない。
我々の呼びかけにも全く答える様子のないペンギンのぬいぐるみは、既に事切れていた。
「キャー、ギン!」 口を押え、驚きの声をあげたミミ。
「助けましょうよ、早く!」 メメが、とっさに冷蔵庫に前足を突っ込む。
「た……たいへ……ん……だ」 こんな時にもカメは、おっとりと驚く。
「それッ!」
皆でギンを抽斗から引っ張り上げると、そのまま床にごろんと転がした。
見ると、真っ先に冷凍庫に突っ込んだメメの両前足が、キンと凍り付いているではないか。何と慈悲深いことだと感心していると、
「何てことだ……。溺れた次は、凍てつく寒さか……」
と、リーバー先輩が呟くようにそう言った。
刹那、不意に背後で感じた一体のぬいぐるみの気配。
「コー!」
そう叫ぶボクの声に、コーが何やら戸惑ったような表情を浮かべる。
ボクらは、じっとして動かないギンの遺体を前に、コーとその手に握られた堅固なブーメランに鋭い視線をぶつけた。
「コー。お前、もしかして……」
そう言った僕の言葉を遮るようにして、リーバー先輩が言った。
「だが、ママさんが起きて来るまでもう時間がない……。とりあえずここは、生きている我々だけでも棚に戻ろうじゃないか」
凍死したギンを、やるせない思いとともにそこに残したボクらは、いるべきはずの位置、リビングの棚へと急いで戻ったのであった。
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