【5 オーストラリアからの刺客】

プロローグ

 さめざめとした蒼い月が輝く、満月の夜だった。

 窓のカーテンを閉め忘れた、とあるマンションの一室。

 小さな窓から何万キロもの距離を経てやって来た月明かりが射しこみ、窓際のローテーブルをひっそりと照らし出している。

 どんなに耳を澄ましてみたところで人間の発する音などどこからも聞こえてこないような、そんな春まだ浅い深夜のこと。


 ぽふっ、ぱふっ……

 ぱふっ、ぽふっ……


 それは、一体のぬいぐるみらしき物体だった。

 人間にはほとんど聞こえないくらいのかすかな音を引き連れ、ゆっくりとローテーブルに近づいていく。

 テーブルの上にあるのは、様々な写真の散りばめられた一枚のカラフルな印刷チラシ――リーフレットだ。


『オーストラリア語学研修のご案内』


 澄んだ青空と、海辺を滑走する美しいクルーズ船。

 ジャングルのような緑の中で、愛らしい瞳をしたコアラ。

 最後のページに、オマケ程度に張り付いた語学学校建物の小さな写真。


「……」


 突如、月明かりが雲に遮られた。

 マンションの一室が、モノトーンの世界へと変化する。

 パンフレットの写真がぼんやりとかすんだのと同様に、ぬいぐるみの姿かたちも人間の視力でははっきりと確認できない。


 しかし、そこはなんといってもぬいぐるみなのだ。

 彼らが活動するには、その明るさで充分だった。


「………」


 おもむろに、そのぬいぐるみが床の上でぴょんと跳ねた。

 そして、テーブルの上にふわり、静かに着地する。

 ぬいぐるみがリーフレットの上に乗ったせいで、増々、写真が見えづらくなる。

 リーフレットの上でもごもごとうごめく動きは、綿でできた柔らかいその足先でぐりぐりとリーフレットを踏みにじっているかのようだった。


 ぽふっ、ぱふっ、ぱふっ、ぽふっ!


 思い通りにはいかなかったのだろう。

 そのぬいぐるみは、やたらとムキになって踏み続けた。


「…………」


 満足したのか諦めたのか……。

 やがて一言も発しないまま、そのぬいぐるみはテーブルから去って行った。

 やって来たときと同じように、ふんわりと音も立てずに――。



 暫くの後。

 上空の雲が晴れ、澄んだ月明かりがテーブルの上に再び差し込んだ。

 リーフレットのコアラの写真部分に付いた、わずかなしわ。パッと見ではよくわからないくらいのものではあるが――。


 月明かりが、まるでスポットライトのようにコアラの写真を照らし出す。

 つぶらな瞳の目元によった僅かな皺が、愛らしいコアラの顔を少し寄り目気味に見せていた。

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