5 レオナ、袋のねずみになる
「こんなところで何をしていたんですか、レオナさん?」
「わ、忘れものしたの、この部屋でだったかなって思ってですね……。えへ」
その口調からして、レオナちゃんの恐らくは渾身の笑顔が炸裂した模様。
だが塾長には、ちっとも効き目はなかったようだった。我が
ちっ、と小さな音で舌打ちをしたレオナちゃんが、じりりと後ずさる。
「レオナさん……。塾の決まり事として、この部屋には近づいてはダメだと言ってあったはずですよ。塾長の言いつけを守れないなら、退塾してもらうことになりますが……」
「そ、それはその……。だははははッ」
適当な言い訳が浮かばなかったらしい、レオナちゃん。
額に汗をうっすらと浮かべながら、更にじりっと後に下がった。
「もしかして、坂田先生の退職に異議があってここで何かを調べていたとか……? そんなに塾生から慕われているなんて、坂田先生も幸せですね。でももう、無駄なんです。彼女の退職は決定事項ですから。
しかしそれにしても……私の机の上にあった部屋の鍵を勝手に持ち出すとは、まるで泥棒ですね。警察に突き出してもいいんですが」
カナちゃんの細い手首をがっちりと抑えつつ、塾長がレオナちゃんに向かってにじり寄って来る。
ひぃ、と小さな悲鳴をあげ、レオナちゃんが猛バックを始めた。
と、そのときだ。
(外に出るぞ)
唐突なリーバー先輩の命令がバッグの中で下された。
この緊迫感の中では、ボクに考える余裕などはなかった。訳のわからぬまま、今までの衝撃でだいぶ広がっていたチャックの隙間から、バッグの外へと抜け出す。当然、先輩がそれに続いた。
人間に気付かれてはならない。
風のように動き、壁際に走り寄った。
「いだっ」
ボクたちの抜け出したバッグを思い切り踏みつけた、レオナちゃん。
彼女の右足によりぺちゃんことなったバッグが、床の上で無残に平たく伸びている。気のせいか、それを見た先輩の方から、ブルブルとした細かい振動が空気を介してボクに伝わって来たようだった。
(よかったッスね、先輩。もう少しでペチャンコだったッスもん)
と、ボクが安堵したのも束の間だった。
リーバー先輩が、突然、ものすごい勢いでボクに体当たりをかましてきたのだ。
(な、何するんスか!)
ボクのもふもふな体が空中で弧を描き、向こう側の窓へと飛んでいった。
そんな体でも硬くて痛そうな窓ガラスが、みるみるボクに迫りくる。
(あぶなあああい!)
もうぶつかると思った、その瞬間。
ずぽっ。
予想とはだいぶ違った音がした。
意外にもボクは、ガラスに激突しなかったのである。
(あれ?)
何故かボクの目の前に、満天の星空がひろがっていた。
どうやらボクは、ちょうどぬいぐるみが首を出せるくらいの穴のあいた窓ガラスから首だけを出し、ひっくり返っている状態のようなのだ。
「今、何かが宙を舞ってあっちへ飛んでいかなかった?」
素っ頓狂な声を出したのは、カナちゃんだ。
大林塾長は何が起こったのか理解できず、黙ったままだった。代わりに部屋に響いたのは、明るいレオナちゃんの声だった。
「宙を舞った? 窓の方に? あーっ、あれってワタシの大事なぬいぐるみの子じゃない! きっとワタシがバッグを踏ん付けた時に、飛んでっちゃたのね!」
自分が置かれた切羽詰まった状況など、おかまいなし――。
だだだ、とボクのいる方に駆けつけた足音がしたかと思うと、レオナちゃんが窓ガラスにはまったボクを救い出し、胸のところでだっこしてくれたのだ。
「危なかったね、コーハイ君。もう少しで、この穴から外に出ちゃうところだったよ。あ、でも、ちょっと頭のところの毛が抜けちゃってる! ガラスで擦れちゃったんだね、ごめん……」
な、なんだって!?
そういえば、さっきから右後頭部がすうすうしてたよ……。
(すうぇんぱあいぃぃ)
恨みを込めて、壁際の先輩をにらみつける。聞こえないふりをする、先輩。
まったく……腹が立つな!
ボクのプリプリも収まらない、そんなときだった。レオナちゃんが急に、鼻をクンクンしだした。部屋臭いが気になったようだ。
「さっきから気になってたんだけど、これって魚の臭いよね……。もしかして、生タイプの高級キャットフード?」
「やっぱりそう思う? 私もさっきから気になってた」
カナちゃんもレオナちゃんに同意した。
今までポーカーフェイスだった塾長に、戸惑いの表情が現れた。
「いや、そんなわけはない。こ、ここは何も使っていない部屋なんだし――」
「そ、そうか、わかったあああぁぁ!!!」
塾長の言葉が終わるか終らないかのその瞬間に、レオナちゃんが恐らくは五キロ四方に響き渡ったであろうほどの大声で叫んだ。
気合いが入った、レオナちゃん。
ボクを持つ右手に、およそ女子中学生とは思えないほどの恐ろしい力が、ぎゅっとこもった。
(ぐ、ぐるじいぃ)
このまま中の綿が変形してしまったら困るんだけど――。
ボクの懸念など知ったことではないレオナちゃんが、ボクを右手につかんだまま、その手を塾長に向けて突き出した。見たくもない塾長の顔が、ボクの目の前でぐにゃりと
「机の中の縮小コピーされたテスト原稿、窓ガラスに開いた小動物が通れるくらいの穴、キャットフードの臭い……。それから、美穂先生が見たという小さな金属の筒……。これらをつなぎ合わせれば、自ずと答えは決まるわ……」
やっとのことで、ボクをつかむ手の力が緩んだ。
レオナちゃんの好きな塩せんべいみたいにならなくて済んで、ほっとした。
「ああ、ごめんごめん。キミは、ここに置いときますね」
レオナちゃんが、ボクをペチャンコになったスクールバッグの上にひょいと載せてくれた。
「あらら、リーバーがこんなところに……」
リーバー先輩を見つけたレオナちゃんが、先輩を持ち上げてボクの横に並べた。
すかさず、レオナちゃんにわからないよう横目を使って先輩をもう一度睨む。けれど先輩は、あたかも意識の無いぬいぐるみの振りをして、ボクを無視した。
と、レオナちゃんがコホンと軽く咳払い。
その後、くるっと向き直って大林塾長に対峙する。
「……」
レオナちゃんに圧倒されていたらしい塾長が、目をぱちくりさせ戸惑っている。
そんな塾長の隙を突き、塾長の腕から脱出を図ろうとジタバタ動いたカナちゃんだったが、そこは百戦錬磨の塾長だ。ガッチリと固めたカナちゃんの手首を離すことはなかったのである。
カナちゃんの目論見が徒労に終わるのを見て、レオナちゃんがチッと舌打ちした。
「では改めてワタシの推理を述べるわね……。大林さん、あなたは学校のテスト問題を、伝書鳩のように飼い猫を使って予め学校にいる協力者から手に入れていたのよ! だからこの塾は学校のテスト問題が良く当たると評判だったのね」
左手を腰に当てたポーズで、右手人差し指をびしっと塾長に向けたレオナちゃん。
塾長の目がブラウン運動をする空気中の分子のように激しく泳いだ。JC(女子中学生)からの思わぬ指摘に、言葉が出ない様子だ。
ところが、レオナちゃんの推理を聴いて思わぬ人が活気を呈した。塾長に捕らわれの身の、カナちゃんだ。
「え、それって伝書猫ってこと? 『猫の宅急便』みたいで、想像しただけでも可愛いわね! 塾長先生、猫ちゃんの名前はなんていうんですか? 宅急便の仕事してるってことは、やっぱり黒猫?」
猫と聞いて黙っていられない性格らしいカナちゃんが、妙に興奮しながら質問を連発した。相当な動物好きらしいことは明らかだった。
そんな彼女をたしなめるようにレオナちゃんが「めっ」とにらむと、カナちゃんは肩をすくめて舌を出した。
「カナちゃん、ここ大事なところだからよろしくね……。まあ、いいわ。気を取り直してワタシの推理ショーを再開します。
――この部屋が開かずの間だったのは、猫を飼っていることを秘密にするためだったのよ。もちろん、テスト問題を手に入れるには学校関係者の共犯が必要よね。たぶんカナちゃんの学校にも、ウチの学校にも共犯者がいるはずね。
どうやって猫に教え込んだかはわからない。けど、塾長は猫に共犯者達との間を行き来できるよう訓練したのよ。そして、縮小コピーしたテスト問題を入れるための金属の筒を、猫の首輪あたりに取り付けられるように加工していた。
悪事の片棒を担いでいるとは露も知らず、猫はせっせとテスト問題を運んでいたに違いないわ。その出入り口が、割れた窓ガラスに開いた、ぬいぐるみの首がずっぽりと入るほどの穴なんだわ……。
どうです塾長さん? この推理、当たってるでしょ?」
自信たっぷりにレオナちゃんが披露した推理に、大林塾長は何も反応しなかった。が、その口は真横に開き、両目がすっと細くなったのが見て取れた。
(危ないな。塾長がキレかけてる。本気で襲ってくるぞ)
リーバー先輩が、震えるような声で訴えかけてきた。
当然、その意見にどうしたボクも焦った。
(でも、ボクたちぬいぐるみは何もできないッス。
だがぬいぐるみには、決して破れない掟があるのだ。人間に動く姿を見られてはいけないという――。
ジレンマに心が潰されそうになった、そのときだった。
あれほど解けなかった塾長の腕を突然湧いたバカ
「猫ちゃーん、どこぉ? そこかな? それともこっちかな……? いないわねぇ。この部屋の中で隠れているのなら、観念して出てきなさぁい!」
それはカナちゃんの暴走といえた。
まさに“猫撫で声”を辺りに振り撒きながら、二人の人間と二体のぬいぐるみの視線などものともしないカナちゃんが、ベッド回りや机の下などを、猫の姿を求めて探し回る。
『猫は悪のおじさんよりも強し』
子犬のぬいぐるみとしては非常に口惜しいところではあった。
が、ボクの頭の中にそんな言葉が浮かんだ瞬間、
りりん
と、窓の方から鈴の鳴る音がしたのである。
割れた窓ガラスから首をひょこんと出したのは、大人の三毛猫だった。
鈴のついた首輪をつけたその猫は、いつもとは違う雰囲気に戸惑いながらも、柔らかい体を滑らせるようにしてするりと抜け穴から部屋の中へと入って来た。
「きゃああ、かわいイぃー」
すかさず猫を腕の中に取り込み、ぎゅっと抱きしめたカナちゃん。
見た事もない少女に抱きすくめられた三毛猫は、なんとかその腕の中から抜け出そうとぎゃあぎゃあと騒いでいる。
「……。まあ、この子はとりあえず放っておこうか。
確かにキミの言うとおり、私は学校関係者に取り入ってテスト問題の横流しをしてもらっていた。おかけでうちの塾は近所でも評判の『テスト問題の当たる塾』になれたんだ。でも恩恵を得たのは塾だけじゃない。キミたち学生さんたちも、大いに助かったはずだ。結局、フィフティ・フィフティなんだよ。“必要悪”ともいえるな」
「必要悪ですって? 絶対に、そんなことないわよ!」
食い下がるレオナちゃん。
そんなレオナちゃんに近づくように、大林塾長が一歩踏み込んで来た。
ぐいと増す、負の圧力。
彼との距離を保つよう、レオナちゃんも一歩下がる。
「まあ、おしゃべりもこれまでにしようか。この秘密を知ってしまったキミたちをこのままにはしておけないからね……とりあえずは監禁させてもらうよ」
そう言った途端、塾長が機敏に動いてレオナちゃんに襲いかかった。
特に武術は習ってはいないはずのレオナちゃんが、テレビで見たことがあるらしい、まね事的な戦闘態勢をとって身構える。
(ああ、捕まっちゃう!)
ボクが目を瞑ってしまった、その瞬間だった。
ぐはっ。
そんな声にもならないような呻き声をあげながら、右手で後頭部をおさえた塾長が、レオナちゃんの目の前でうつ伏せに倒れ込んだのだ。
(???)
何が起こったのか、即座には判断できなかった。
それはどうやらレオナちゃんも同様だった。
眼をぱちくりとさせ、口を開けたまま立ち尽くすレオナちゃんの前に現れたのは、顔くらいの大きさもあるガラスの灰皿を両手で振りおろした格好の、美穂先生だった。
「み、美穂先生!」
「廊下で皆さんのやり取りを聴いてしまったんです。それでつい手が出てしまって……。ところで、塾長は死んでませんよね?」
「まあ、そうですね……。気を失ってるだけみたいです」
塾長の息を確かめたレオナちゃんが、美穂先生に向かって小さく頷いた。
カナちゃんは相も変わらず、猫と
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