3 レオナ、作戦を決行する

「まったく……。結局、あの日からパパは残業で忙しくて相談できなかったし……。ママもパパに訊けと一点張りで相談にのってくれなかったし……」


 学校から帰って来るなり、ぷりぷりと怒って大層不機嫌なレオナちゃん。

 確か、曜日的には今日も塾に行く日だったはずだ。

 リビングのソファーに陣取ったレオナちゃんは、これから塾に行って勉強するためのエネルギーを蓄えるべく、チョコレートのついた棒状のお菓子を一度に三本づつ五回、計十五本を口に運んだ後、すべてをまとめて咀嚼するかのように激しくもしゃもしゃと口を動かした。

 少しお腹が満たされたことで機嫌を良くしたらしいレオナちゃんは、手に付いたお菓子のくずをパンパンと叩いて、トイレに向かった。

 いつものパターンからすれば、トイレから出たらすぐに塾へと出かけることになる。


 当然のことながら、ボクたちぬいぐるみは昼間で人間が部屋にいる間はリビングの棚の上に固まったように、じっとしていなければならない。


(コーハイ、行くぞ)


 突如ぽそりと呟いた、リーバー先輩。

 ボクは、長くて黒い、自慢の耳を疑った。

 その声は当然、人間には聞こえない、人間のいうところのテレパシーのようなものだったが、それがどういう意味かよくわからなかったのだ。


(行くって、どこにッスか)


 そう答えるボクに、リーバー先輩はイラついた感じでちらりとこちらを向いた。

 人間に見られる可能性があるので危険なのだが、それでも必要な時には、ボクたちぬいぐるみも動くことはある。


(レオナちゃんの塾に決まってるだろうが)

(えーっ! 今からッスか!?)


 うろたえるボクのことには、全くおかまいなしの先輩。

 なにせ、本当に塾についていこうとするなら、許される時間はレオナちゃんがトイレから出てくるまでの間しかないのだ。

 リーバー先輩が、突然、背中のスイッチか何かを押されたかのように、猛然とダッシュした。目標物はいつもながら玄関に置き去りにされているであろう、レオナちゃん愛用のスクールバッグだ。


(仕方ないッスね!)


 ならば当然、「ぬいぐるみ犬探偵リーバー」の助手でもあるボクも、先輩の後を追いかけねばならない。ボクもフェルトでできた四本の脚に力を込めて、先輩の背中を追っかけた。


 じゃー。

 トイレの水が、流された。


 時間がない! 

 全力でトイレの前を通り過ぎ、マンションの廊下を駆け抜ける。


 がちゃり。

 レオナちゃんがトイレのドアを開けた。

 その時、ボクらは辛うじてレオナちゃんの紺色のスクールバッグの中に潜り込むことができていた。レオナちゃんはこのバッグを学校にも塾にも持ち歩いているから、この中に入れば、ボクたちも自然とそ塾へと運ばれるという寸法だ。


 ふうぅ。

 胸をなでおろす、ボクたち。


 とたとたとた。

 こちらに向かって、廊下を歩いて来るレオナちゃんの足音が聞こえる。

 ひょいっと、体が宙に浮いたような感覚があった。


「じゃあ、行ってきまあす」


 レオナちゃんは、誰もいない奥の部屋に向かって律義に挨拶をしてから出発した。



 塾に着いて着席するなり、ボクたちは必然的にレオナちゃんに見つかってしまった。そりゃそうだろう――ノートやペンケースに教材の本など、バッグから取り出さなきゃいけないんだから。


「おっかしいなあ……。ワタシ、考え事ばかりしてたから無意識でこの子たちを入れてしまったのかしらね」


 首をしきりと傾けながらも、レオナちゃんは自分の顔が見えるようにボクと先輩を机の上に並べてくれた。

 見ると、ボクたちが普段暮らすリビング程度の大きさの教室に、レオナちゃんのほかに、同じ学年らしい男子生徒が三人いる。

 とそのとき、レオナちゃんの隣の席に座った女子がいた。

 秀才っぽさと可愛らしさを両方備えたような感じで、ピンク色の眼鏡フレームの奥にあるパッチリおめめが特徴的な中学女子だ。


(この女の子がきっと、カナちゃんだな)


 先輩が、テレパシーの声でボクに伝えてくる。


「あら? カナちゃん、早く来れたんだね」

「うん、思ったより早く保健係の打ち合わせが済んだの」


 どうやら、今日はちょっとカナちゃんが遅れることになっていたらしい。

 と、そこへやって来たのは、二十代の若い女性講師だった。きっと、美穂先生に違いない。


「では、時間になりましたので授業を始めたいと思います……。けれど今日は、皆さんに最初に言っておかねばならないことがあります。短い間でしたが、私、事情により今月限りでこの塾の講師をやめさせていただくことになりました。受験生の皆さんを担当させていただいたのに、最後まで指導できなくて大変心苦しいのですけど……」


 小さな教室の白壁に浸み込んでしまったかのように、美穂先生の涙声が消え入りそうになる。後ろの方で、男子生徒のひとりが、ううっと声を漏らした。美人な講師に会えなくなる辛さを表現したものに違いない。


「先生! どうしてもやめなくてはならないのですか?」


 席から立ち上がり、カナちゃんが抗議の声をあげた。

 見た目に反して、アツいハートの持ち主なのだろう。


「すみません……もう、決まったことなのです。でも、そう言ってくれてありがとうね、カナさん」


 潤んだ瞳を隠すように黒板に向き直り、何もなかったかのように淡々と英語の授業を始めた、美穂先生。それを見たカナちゃんが「納得できない」という表情でゆっくりと席に座り、その小さなこぶしで軽く机を叩いた。

 と、カナちゃんの前に、レオナちゃんの手がすっと伸びた。

 その手には、ノートの切れ端のような小さな紙きれがある。


『今日、あの作戦を決行よ』


 その堅い意志を示すかのように、紙には極太文字でそう記されていた。

 瞬間、気のせいかレオナちゃんの眸がキラリと光った気がした。それを見たカナちゃんが、こくりと深く頷く。


(イヤな予感がするぜ)


 リーバー先輩のテレパシーの声が、少し震えていた。

 これから起こるであろうレオナちゃんたちの作戦のことを想像したボクは、美穂先生の授業の間じゅう、もふもふな毛並みの背筋が凍るほどの思いで机の上に立ち続けたのだった。

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